教皇ベネディクト十六世の314回目の一般謁見演説 聖パウロの手紙における祈り

5月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の314回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


5月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の314回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第6回として、「聖パウロの手紙における祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は国連の「国際家族デー(5月15日)」にあたり、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「昨日5月15日は国連が定めた国際家族デーが行われました。今年のテーマは、家庭と仕事という、密接にかかわり合う二つの問題のバランスでした。仕事が家庭の障害となってはなりません。むしろ仕事は家庭を支え、一致させ、家庭がいのちに対して開かれ、社会と教会とかかわるのを助けなければなりません。さらにわたしは、週ごとの主の日、復活の日である日曜日が、休息の日となり、家族のきずなを強める機会となることを願います」。
「国際家族デー」は1993年の国連総会で毎年5月15日に行うことが決議されました。今年のテーマは「仕事と家庭の両立」です。なお教皇は6月1日(金)から3日(日)まで第7回世界家庭大会に参加するため、ミラノを訪問する予定です。第7回世界家庭大会のテーマも「家庭――仕事と祝祭」です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話の中で使徒言行録における祈りについて考察してきました。今日から異邦人の使徒、聖パウロの手紙における祈りについての話を始めたいと思います。まず注目したいことがあります。聖パウロの手紙が祈りのことばをもって始まり、祈りのことばで締めくくられるのは偶然ではありません。手紙は、感謝と賛美で始まり、神の恵みが手紙の送り先である共同体を導いてくれるようにという願いで終わります。「イエス・キリストを通して、・・・・わたしの神に感謝します」(ローマ1・8)という初めのあいさつと、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにあるように」(一コリント16・23)という結びのあいさつの間で、使徒パウロの手紙の内容は展開されます。聖パウロの祈りはきわめて豊かな形で示されます。それは、感謝から祝福まで、賛美から願いと執り成しまで、賛歌から祈願までに至ります。表現の多様性は、祈りが、個人の生活と手紙の送り先の共同体の生活の両方を含む、生活のすべての状況にかかわり、また浸透することを示します。
 使徒パウロがわたしたちに理解させようと望む第一の点はこれです。祈りを、わたしたちが神に対して行うよいわざとして、すなわち、わたしたちの行為としてのみ考えてはなりません。祈りは何よりもまずたまものです。祈りは、わたしたちのうちに御父とイエス・キリストが生き生きと、わたしたちを生かしながら現存することから生まれます。ローマの信徒への手紙の中でパウロはいいます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8・26)。わたしたちは使徒が述べることがどれほど真実かを知っています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」。わたしたちは祈りたいと望みますが、神は遠く離れたところにおられます。わたしたちは、神と語るためのことば、言語、また概念を持ち合わせません。わたしたちにできるのはただ、自分の心を開き、自分の時間を神に自由に使っていただき、わたしたちがまことの対話を始められるよう神が助けてくださるのを待つことだけです。使徒パウロはいいます。このようにことばが欠如し、ことばが不在であるにもかかわらず、神に触れたいと望むこと――それが祈りです。聖霊はこの祈りを理解してくださるだけでなく、それを神のみ前にもたらし、代弁してくださいます。このわたしたちの弱さこそが、聖霊を通じて、まことの祈りとなり、神とのまことの触れ合いとなるのです。聖霊は、わたしたちと神に、わたしたちがいいたいことを理解させてくれる、いわば通訳なのです。
 わたしたちは祈りにおいて、生活の他の次元において体験する以上に、自分の弱さ、貧しさ、被造性を体験します。なぜなら、わたしたちは神の全能と超越のみ前に置かれるからです。そしてわたしたちは、神のことばに耳を傾け、神と対話することにおいて進歩し、祈りが魂の日々の呼吸となればなるほど、いっそう自らの限界が意味するところを悟るようになります。それは、日々の具体的な状況だけでなく、主との関係についてもいえます。こうしてわたしたちは、ますます主に信頼し、身をゆだねなければならなくなります。わたしたちは「どう祈るべきかを知らない」(ローマ8・26)ことを悟ります。無力なわたしたちを助け、わたしたちの精神を照らし、わたしたちの心を温め、神に向けてわたしたちを導いてくださるのは聖霊です。聖パウロにとって、祈りは何よりもまず、わたしたちの人間性における聖霊のわざです。聖霊は、わたしたちの弱さを身に負い、わたしたちを物質にとらわれた人間から霊的な人間へと造り変えてくださいます。コリントの信徒への手紙一の中でパウロはいいます。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられたことばによるのではなく、“霊”に教えられたことばによっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」(一コリント2・12-13)。聖霊はわたしたちの人間的な弱さのうちに住まうことによって、わたしたちを変え、わたしたちのために執り成し、わたしたちを神の高みへと導いてくださいます(ローマ8・26参照)。
 わたしたちのキリストとの一致は、この聖霊の現存によって実現されます。なぜなら、聖霊は神の子の霊であり、この霊においてわたしたちは子とされるからです。聖パウロは、神の霊だけでなく、キリストの霊について語ります(ローマ8・9参照)。それは当然のことです。キリストが神の子であるなら、キリストの霊も神の霊です。それゆえ、神の霊、すなわちキリストの霊が、神の子であり人の子であるかたのうちにすでにわたしたちに近づいてくださったのなら、神の霊も人間の霊となり、わたしたちに触れてくださいます。わたしたちは霊の交わりに入ることができるようになります。いわばこういうことができます。父である神が御子の受肉によって目に見えるようになっただけでなく、神の霊も、イエスの生涯とわざのうちにご自身を示されます。イエス・キリストは、生きて、十字架につけられ、死んで復活されたかただからです。使徒パウロはいいます。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」(一コリント12・3)。それゆえ霊はわたしたちの心をイエス・キリストへと方向づけます。そこでわたしたちは、「生きているのは、もはやわたしたちではありません。キリストがわたしたちのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20参照)というまでに至ります。聖アンブロシウス(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)は『秘跡についての講話』の中で、聖体について考察しながら、こう述べます。「霊に酔う者は、キリストのうちに確固たる根をおろしている」(同:De sacramentis 5, 3, 17, PL 16, 450〔熊谷賢二訳、『秘跡』創文社、1963/1993年、125頁〕)。
 ここでわたしは、世の霊ではなく、キリストの霊を全行動の内的原理とするとき、わたしたちのキリスト教生活の中で生じる三つの結果を明らかにしたいと思います。
 第一に、霊によって祈りが導かれるとき、わたしたちはあらゆる恐れや隷属を放棄、克服し、神の子の真の自由を生きることが可能になります。祈りが日々、キリストとのますます親密な関係のうちにわたしたちを養わなければ、わたしたちは聖パウロがローマの信徒への手紙で述べるような状態になります。すなわち、わたしたちは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているのです(ローマ7・19参照)。これこそが、わたしたちが原罪によって置かれた状態による、人間存在の疎外、自らの自由の破壊を述べた表現です。使徒パウロは次のことを理解させようと望みます。このような状態からわたしたちを解放してくれるのは、わたしたちの意志でも律法でもなく、聖霊です。そして、「主の霊のおられるところに自由があります」(二コリント3・17)。だからわたしたちは、祈りによって、霊の与える自由を体験するのです。これが真の意味での自由です。それは、悪と罪からの自由であり、善といのちと神に向けた自由だからです。聖パウロは続けていいます。霊の自由は、放縦でも、悪を選ぶ自由でもありません。それは「霊の結ぶ実」すなわち「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。善とまことの喜びと神との交わりへの望みに本当に従うことができること、そして、わたしたちを他の方向へと導く状態に隷属しないこと――これこそがまことの自由です。
 自らの中でキリストの霊に働いていただくときに、わたしたちの生活の中に見られるようになる第二の結果はこれです。それは、いかなる現実や状況によっても損なわれないほどに神との関係が深まることです。そこでわたしたちは次のことを悟ります。わたしたちは祈りによって試練や苦しみから解放されるわけではありません。むしろわたしたちは、キリストと一致しながら、キリストの苦しみとともに、そして、キリストの栄光にあずかるという展望のうちに、試練と苦しみを体験することができるようになるのです(ローマ8・17参照)。わたしたちは祈りの中で、身体的・精神的な苦しみから解放してくださるようにと、何度も神に願います。それも深い信頼を込めてそう願います。にもかかわらず、わたしたちはしばしば神が願いを聞き入れてくださらないという印象を抱きます。すると、失望し、忍耐を失う恐れがあります。実際には、神に聞き入れてもらえないような人間の叫びなどありません。そしてわたしたちは、たえず忠実に祈りをささげるとき、聖パウロとともに次のことを悟ります。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ローマ8・18)。祈りはわたしたちから試練と苦しみを免除してくれません。むしろわたしたちは、聖パウロがいうとおり、「神の子とされること、つまり、からだのあがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ8・23)。聖パウロはいいます。祈りはわたしたちから苦しみを免除してはくれません。けれども、祈りは、新たな力をもって、すなわちイエスと同じ信頼をもって苦しみを味わい、苦しみに立ち向かうことを可能にしてくれます。ヘブライ人への手紙がいうとおり、イエスは「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5・7)。父である神が、子とその激しい叫び声と涙に示したこたえは、苦しみと十字架と死からの解放ではありませんでした。むしろ神は、より偉大なしかたで子の願いを聞き入れられました。より深くこたえられました。十字架と死を経て、神は、御子の復活と、新しいいのちをもってこたえられたのです。聖霊に促された祈りにより、わたしたちも、日々、試練と苦しみに満ちた人生の道を、神への完全な希望と信頼をもって歩むよう導かれます。神は御子にこたえてくださったとの同じようにこたえてくださるからです。
 第三の結果はこれです。信じる者の祈りは、人類と被造物全体の諸次元にも開かれています。じつに「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8・19)。すなわち、祈りは、わたしたちの奥深くで語りかけるキリストの霊に支えられます。このような祈りは、自分だけに閉じこもることも、わたしのためだけの祈りとなることもできません。むしろそれは、現代の他の人々の苦しみを共有するよう開かれます。それは他の人々のための執り成しとなります。こうしてそれはわたしからの解放ともなります。祈りは全被造物のための希望の川となり、神の愛の表れとなるのです。わたしたちに与えられた聖霊によって、この神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5・5参照)。これこそが真の祈りであることのしるしです。真の祈りは、自分たちの中で終わることなく、むしろ、他者へと開かれ、わたしを解放します。そこから祈りは、世のあがないの助けとなるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖パウロはわたしたちにこう教えてくれます。わたしたちは祈るとき、心を聖霊の現存に開かなければなりません。聖霊はことばに表せないうめきをもってわたしたちの中で祈ってくださいます。それは、わたしたちが全身全霊で神と一致するようわたしたちを導くためです。キリストの霊は、「弱い」わたしたちの祈りの力、「消え入りそうな」わたしたちの祈りの光、「乾燥した」わたしたちの祈りの炎となって、わたしたちにまことの内的な自由を与えてくださいます。わたしたちは独りきりではないという確信をもって、人生の試練に立ち向かいながら生きることを教えてくださいます。人類と、「ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっている」(ローマ8・22)被造物の世界へとわたしたちを開いてくださいます。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL Patrologia Latina

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