教皇ベネディクト十六世の2012年5月20日の「アレルヤの祈り」のことば 主の昇天

教皇ベネディクト十六世は、5月20日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は […]


教皇ベネディクト十六世は、5月20日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日は『世界広報の日』が行われます。今年の『世界広報の日』のテーマは「沈黙とみことば――福音宣教の歩み」です。沈黙はコミュニケーションの不可欠の部分です。沈黙は神のことばと出会い、またわたしたちの兄弟姉妹と出会うための特別な場です。皆様にお願いします。あらゆるコミュニケーションがつねに相互の尊敬と傾聴と分かち合いに基づく、隣人との真の対話を築くものとなるよう、祈ってください。
 今週の木曜日の5月24日は、上海の聖母巡礼所で『キリスト信者の助け』として深くあがめられている佘山(シェシャン)の聖母の記念日です。わたしたちは中国に住むすべてのカトリック信者と心を合わせて祈ります。中国のカトリック信者が、死んで復活されたキリストをへりくだりと喜びをもって告げ知らせ、キリストの教会とペトロの後継者に忠実に従い、自分たちが告白する信仰に一致したしかたで日々を生きることができますように。忠実なおとめであるマリアよ。中国のカトリック信者の歩みを支え、彼らの祈りをいっそう深く、また主のみ前で貴いものとしてください。また、中国にある教会の歩みに対する普遍教会の愛情と参加を強めてください。
 ・・・・さまざまな学校の生徒の皆様にごあいさつ申し上げます。ここで今日、昨日の卑劣な暴行に巻き込まれたブリンディジの少年少女の皆様を思い起こさなければならないことを残念に思います。けがをされたかた、とくに重傷を負ったかた、とくに残虐な暴力による罪のない犠牲者であるメリッサさんと、悲しみのうちにあるそのご家族のためにともに祈りたいと思います。数時間前に地震の被害に遭ったエミリア=ロマーニャ州の愛する住民の皆様にも心から思いを致します。この災害で苦しむかたがたに霊的に寄り添います。神が亡くなったかたをあわれみ、けがをされたかたの苦しみを和らげてくださるよう、願いたいと思います」。
イタリア南部ブリンディジでは5月19日(土)朝、専門学校前で爆発があり、同校の女子生徒メリッサ・バッシさん(16歳)が死亡しました。
イタリア北部では20日(日)午前4時過ぎ、ボローニャから北北西36キロを震源とするマグニチュード6.0の地震が起き、21日までに7名が死亡しています。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 使徒言行録によれば、復活の四十日後、イエスは天に上りました。すなわち、そこから世に遣わされた、御父のもとに帰りました。多くの国々ではこの神秘は先週の木曜日(5月17日)ではなく、木曜日の後の今日の主日に祝われます。主の昇天は、受肉によって始まる救いの完成を示します。イエスは弟子たちに最後の教えを与えた後に、天に上りました(マルコ16・19参照)。しかしイエスは、「わたしたちの状態からご自身を切り離されることがありません」(叙唱参照)。実際、イエスはご自身の人性のうちに、御父との親しさのうちに人類を受け入れ、このことを通して、わたしたちの地上の旅路の最終的な目的を示しました。イエスは、わたしたちのために天から降り、わたしたちのために十字架上で苦しんで死なれたのと同じように、わたしたちのために復活して神のもとに上りました。それゆえ神は、もはや遠くにおられるのではなく、「わたしたちの神」、「わたしたちの父」(ヨハネ20・17参照)となります。主の昇天は、わたしたちを罪の軛(くびき)から解放する最終的なわざです。「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行かれた」(エフェソ4・8)と使徒パウロがいうとおりです。大聖レオ(400頃-461年、教皇在位440-没年)は解説していいます。この神秘によって「霊魂の不死性だけでなく肉体の不死性も公示されたのである。今日われわれは、楽園の所有権を確認されただけでなく、キリストのうちにあって、諸天の高みにまで登っていったのである」(「主の昇天についての説教」:De Ascensione Domini, Tractatus 73, 2; 4, CCL 138A, 451; 453〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965/1993年、79-80頁〕)。そのため弟子たちは、師であるかたが地上から上げられて天に登るのを見たとき、失望せず、むしろ深い喜びを体験し、キリストの死に対する勝利を告げ知らせずにはいられないと感じました(マルコ16・20参照)。復活した主も彼らとともに働き、弟子たちにそれぞれのたまものを分け与えました。こうしてキリスト教共同体全体は、天の調和のとれた豊かさを反映しました。だから聖パウロは述べるのです。「人々にたまものを分け与えられた。・・・・そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、・・・・キリストのからだを造り上げてゆき、ついには、・・・・キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4・8、11-13)。
 親愛なる友人の皆様。主の昇天はわたしたちにこう語ります。わたしたちの人間性はキリストと結ばれて神の高みにまで導かれます。それゆえ、わたしたちが祈るたびごとに、地は天と結ばれます。香をたくとき、かぐわしい香りの煙が天に立ち上ります。それと同じように、わたしたちがキリストと結ばれながら熱心に信頼を込めて主に祈りをささげるとき、その祈りは諸天を超えて、神の玉座に達します。神は祈りに耳を傾け、聞き入れてくださいます。十字架の聖ヨハネ(1542-1591年)の有名な著作『カルメル山登攀』にはこう書かれています。「われわれが心のうちに抱いている願いを果たすためには、われわれの祈りの力を神のみ心にかなうことに注ぐより優れた方法はない。そのときには、神は、われわれが願い求める救いだけではなく、願わないことでも、それがわれわれにとってふさわしいもの、よいものと思われるものならば、それをお与えくださるものである」(同:Salita del Monte Carmelo Libro III, cap. 44, 2, Roma 1991, 335〔奥村一郎訳、ドン・ボスコ社、1969/1989年、401頁〕)。
 おとめマリアに祈り願おうではありませんか。わたしたちを助けてください。どうか主が約束してくださった天の宝を仰ぎ見ることができますように。そして、ますます神のいのちの信頼の置ける証人となることができますように。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina

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