教皇ベネディクト十六世の315回目の一般謁見演説 霊と、信者が「アッバ、父よ」と叫ぶこと (ガラテヤ4・6-7、ローマ8・14-17参照)

5月23日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の315回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第7回として、「霊と、信者が『アッバ』と叫ぶこと(ガラテヤ4・6-7、ローマ8・14-17参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日に、聖パウロが次のように述べていることをお示ししました。聖霊は偉大な祈りの師であり、子としての愛を込めたことばで「アッバ、父よ」と呼びかけながら父に向かうよう教えてくださいます。イエスもそのようになさいました。イエスは、地上の生涯のもっとも悲惨なときにも、御父への信頼を決して失わず、つねに愛された子としての親しみを込めて御父に呼びかけました。ゲツセマネで死の苦しみを感じたとき、イエスはこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。
 教会は歩み始めた最初から、とくに主の祈りにおいて、この呼びかけのことばを受け入れ、自分のものとしました。わたしたちは主の祈りの中で毎日こう唱えます。「天におられるわたしたちの父よ、・・・・み心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6・9-10)。この呼びかけのことばは聖パウロの手紙の中に二回見いだされます。たった今朗読されたとおり、使徒パウロはガラテヤの信徒に次のように書き送ります。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4・6)。また、ローマの信徒への手紙8章の霊の賛歌の中心で、聖パウロはいいます。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8・15)。キリスト教は、恐れに基づく宗教ではなく、わたしたちを愛してくださる御父への信頼と愛に基づく宗教です。パウロが述べたこの二つの内容豊かなことばは、復活したかたのたまものである、聖霊が遣わされ、わたしたちがそれを受け入れることについて語ります。この聖霊がわたしたちを独り子であるキリストに結ばれた子とします。そして、わたしたちを神との子としての関係のうちに置きます。それは幼子と同じような、深い信頼に基づく関係です。この子としての関係は、イエスの神との関係と類似しています。たとえ関係の由来と深さは異なるにしてもです。イエスは肉となられた神の永遠の御子です。これに対して、わたしたちは、イエスと結ばれて、信仰と洗礼と堅信の秘跡を通じて、少しずつ子となります。わたしたちはこの二つの秘跡のおかげでキリストの過越の神秘に浸されるのです。聖霊は、わたしたちを神の子とする、貴重で必要なたまものです。聖霊は、すべての人が招かれている、神の養子とされるわざを実現します。なぜなら、エフェソの信徒への手紙の神への賛美が述べているとおり、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1・4-5)。
 わたしたちは「父」ということばによって祈りの中で神に向かうことができます。しかし、現代人は、この「父」ということばに含まれるすばらしさ、偉大さ、深い慰めを感じ取れないかもしれません。なぜなら、現代、多くの場合、父の姿は十分なしかたで存在しないからです。そればかりか、父の姿は多くの場合、日常生活の中で十分積極的なしかたで存在しないからです。父の不在、すなわち、父が子どもの生活の中にいないという問題は、現代の大問題です。そのため、神がわたしたちの父であるということの深い意味を理解するのが困難になっています。わたしたちは、イエスご自身と、その神との子としての関係から、「父」ということばの本来の意味を、また、天におられる父のまことの本性が何であるかを学ぶことができます。宗教批判者は、「父」や神について語るのは、自分の父を天に投影したものにすぎないと述べてきました。しかし、事実はその反対です。福音書の中でキリストは、父とはだれであり、まことの父がいかなるかたであるかをわたしたちに示します。そこからわたしたちは、まことの父の愛を知り、また学ぶことができるのです。山上の説教におけるイエスのことばを考えてみたいと思います。その中でこういわれています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5・44-45)。そして、十字架上でご自身をささげられるまでの、独り子イエスの愛こそが、御父のまことの本性をわたしたちに示してくださいます。御父は愛です。そしてわたしたちも、子としての祈りの中で、この愛の流れの中に歩み入ります。神の愛はわたしたちの望みと態度を清めます。わたしたちの望みと態度は、古い人に典型的に見られる、閉塞と自己満足と利己主義を特徴とするからです。
 神の父としての愛について、少しだけ考えてみたいと思います。それは、イエスが完全に知らせてくださったこの深い現実によって心を掻き立てていただくためです。また、わたしたちの祈りがそこから深められるためです。ところで、御父であることは神において二つの側面をもっているといえると思います。第一に、神はわたしたちの父です。神はわたしたちの造り主だからです。わたしたちは男も女も皆、神の奇跡です。わたしたちは皆、神から望まれ、一人ひとり神から知られています。創世記が、人間は神の像に従って造られたと述べるとき(創世記1・27参照)、そこでいいたいのはこのことです。神はわたしたちの父です。神にとってわたしたちは匿名の存在でも、一般的な存在でもありません。むしろわたしたちは名前をもっています。詩編の一つのことばを唱えるとき、わたしはつねに感動を覚えます。「み手がわたしを造ってくださいました」(詩編119・73)。わたしたちは皆、このすばらしいたとえを用いて神との個人的な関係について述べることができます。「み手がわたしを造ってくださいました。あなたはわたしを思い、造り、望んでくださいました」。しかし、それでも十分ではありません。キリストの霊はわたしたちを、創造を超えた、神の父としての愛の第二の側面に向けて開きます。なぜなら、わたしたちが信仰宣言の中で唱えるとおり、イエスは「御父と同一本質」の、完全な意味での「子」だからです。受肉と死と復活により、わたしたちと同じ人間となったイエスは、ご自身が人であり御子であることのうちにわたしたちを受け入れてくださいます。こうしてわたしたちも、イエスが特別な意味で神に属することのうちに歩み入ることができるようになります。確かにわたしたちは、イエスと同じように完全なしかたで神の子であるわけではありません。わたしたちは、キリスト教的生活の歩み全体の中で、つねにますます子とならなければなりません。そのために、いっそうキリストに従い、キリストとの交わりのうちに、わたしたちの人生を支えてくださる父である神との愛の関係をますます深めなければなりません。そして、わたしたちが聖霊に心を開き、聖霊がわたしたちに「アッバ」、父よと神に呼びかけさせてくださるとき、わたしたちに示されるのはこの根本的な現実です。わたしたちは、創造を超えて、イエスとともに本当に養子とされます。わたしたちは神と本当に一つに結ばれ、新たなしかたで、新たな次元で子となるのです。
 しかし、ここで、祈りにおける聖霊の働きをめぐってわたしたちが考察している、聖パウロの二つの箇所に戻りたいと思います。ここでも、二つの箇所は対応しますが、そこにはニュアンスの違いも含まれます。実際、ガラテヤの信徒への手紙の中で使徒パウロは、霊がわたしたちの中で「アッバ、父よ」と叫ぶと述べます。ローマの信徒への手紙の中でも、パウロは、わたしたちが「アッバ、父よ」と叫ぶと述べます。聖パウロはわたしたちに次のことを理解させようと望みます。キリスト教の祈りは、わたしたちから神への一方向のものではなく、そうなることもありません。それは単なる「わたしたちの行為」ではありません。むしろキリスト教の祈りは、相互関係の表れです。この相互関係の中で第一に働かれるのは神です。また、わたしたちの中で叫ぶのは聖霊です。わたしたちが叫ぶことができるのは、聖霊に促されるからです。心の奥深くに神の望みが、神の子であることが刻み込まれていなければ、わたしたちは祈ることができません。「人類(homo sapiens)」は、存在したときからつねに神を探し求めてきました。神とともに語ることを求めてきました。なぜなら、神はご自身をわたしたちの心のうちに刻み込んだからです。それゆえ、最初の働きかけは神からもたらされます。そして、洗礼により、神は新たにわたしたちのうちで働きます。聖霊がわたしたちのうちで働きます。祈りを最初に開始するのも聖霊です。こうしてわたしたちは本当に神とともに語り、神に「アッバ」と呼びかけることができるのです。それゆえ、聖霊の現存がわたしたちの祈りと生活を開いてくださいます。三位一体の神と教会の世界へとわたしたちを開いてくださるのです。
 さらにわたしたちは次のことを理解します――これが第二の点です――。わたしたちのうちなるキリストの霊の祈りと、キリストの霊におけるわたしたちの祈りは、単なる個人の行為ではなく、教会全体の行為です。祈りの中でわたしたちの心は開かれます。そしてわたしたちは、神との交わりをもつだけでなく、すべての神の子との交わりをもつようになります。なぜなら、わたしたち神の子は一体だからです。わたしたちは、自分の部屋の中で、沈黙と精神の集中のうちに御父に向かうときも、決して独りきりでいるのではありません。神とともに語る人は独りきりではありません。わたしたちは教会の偉大な祈りの中にいます。わたしたちは、地上のあらゆるところ、あらゆる時代に散らばるキリスト教共同体が神にささげる、偉大な交響曲の一部です。確かに、演奏家と楽器はさまざまです(そしてそのことは豊かさの一要素です)。しかし、賛美のメロディーは唯一であり、一致しています。ですから、「アッバ、父よ」と叫んでいうたびに、教会、すなわち祈る人間の交わり全体が、わたしたちの祈りを支えます。またわたしたちの祈りも教会の祈りとなります。このことは、わたしたちが共同体の中で果たす、カリスマ、奉仕職、任務の豊かさにも反映します。聖パウロはコリントのキリスト者に向けてこう述べます。「たまものにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(一コリント12・4-6)。聖霊はわたしたちに、キリストとともに、キリストのうちに「アッバ、父よ」と語らせます。この聖霊に導かれた祈りは、わたしたちを神の家族の唯一の偉大なモザイク画に組み入れます。このモザイク画の中で、わたしたち一人ひとりが、全体との深い一致のうちに、場所と重要な役割をもっています。
 最後に指摘したいことはこれです。わたしたちはまた、マリアとともに、「アッバ、父よ」と叫ぶことを学びます。マリアは神の子の母だからです。パウロがガラテヤの信徒への手紙で語るとおり(同4・4参照)、マリアが「はい」といったとき、すなわち、マリアが神のみ心に完全に従ったときに、時が満ちました。「わたしは主のはしためです」(ルカ1・38)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。祈りの中で学ぼうではありませんか。神の友であることの、そればかりか、神の子であることのすばらしさを。幼子が自分を愛してくれる両親に抱く確信と信頼をもって、神に呼びかけられることのすばらしさを。自分たちの祈りを聖霊のわざに向けて開こうではありませんか。わたしたちが「アッバ、父よ」と神に叫ぶことができますように。そして、わたしたちの祈りが、たえず自分の思いと行いを変化させ、転換し、独り子イエス・キリストの思いと行いにますます似たものとすることができますように。ご清聴ありがとうございます。

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