教皇ベネディクト十六世の316回目の一般謁見演説 イエス・キリストにおける神の忠実な「然り」と 教会の「アーメン」(二コリント1・3-14、19-20)

5月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の316回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


5月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の316回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第8回として、「イエス・キリストにおける神の忠実な『然り』と教会の『アーメン』(二コリント1・3-14、19-20)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりにイタリア語で行ったあいさつの中で、教皇は次のように述べました。
「最近、教皇庁とわたしの協力者の周辺で起きた出来事はわたしの心を悲しませました。しかし、それによってわたしの確信が揺らぐことは決してありません。人間の弱さと困難と試練にもかかわらず、教会は聖霊によって導かれます。そして、主は教会の歩みを支えるために助けを与え続けてくださいます。しかし、一部メディアによってさまざまな推測が広まっています。これらのメディアは根拠なしに、事実を超えて、現実とかけ離れた聖座のイメージを与えています。そのためわたしは、わたしの身近で働く協力者と、日々、忠実に犠牲と沈黙の精神をもってわたしが自分の奉仕職を果たすための助けとなってくださるすべてのかたがたをあらためて信頼し、彼らを励ましたいと思います。
 最後にわたしは、またも強い地震の被害に遭った愛するエミリア州の人々に再び思いを向けます。地震は犠牲者を出し、とくに教会に甚大な損害をもたらしました。わたしは、けがをしたかた、地震直後の不自由を味わっておられるかたに祈りと愛をもって寄り添います。そして、亡くなったかたのご家族に心からお悔やみ申し上げます。すべての人による支援とイタリア全土の連帯によって、深い苦しみのうちにある被災地で速やかに通常の生活が再開できるようになることを願っています」。
バチカンでは今年2月14日、教皇庁広報部が教皇庁内の内部情報漏洩を遺憾とする声明を発表し、4月25日、情報漏洩を正式に調査する枢機卿委員会が設置されたことが発表されました。教皇は同委員会委員長として教皇庁法文評議会名誉議長のフリアン・エランツ枢機卿を、委員として教皇庁福音宣教省名誉長官のジョゼフ・トムコ枢機卿とパレルモ名誉大司教のサルヴァトーレ・デ・ジョルジ枢機卿を任命しました。第1回会議は4月24日に開催されました。5月17日にイタリアのジャーナリストのジャンルイジ・ヌッツィ氏が著書で教皇庁内の内部文書を公表したことを受けて、5月19日、教皇庁広報部はこれが犯罪であると非難する声明を発表しました。5月26日、教皇庁広報部は、バチカン警察が23日、バチカン居住区の内部文書を所持していた容疑で、教皇の補佐官のパオロ・ガブリエレ氏(46歳)を逮捕したことを発表しました。
イタリア北部では、20日にマグニチュード6.0の地震が起こり7名が死亡したのに続いて、モデナ近郊で29日(火)午前9時(日本時間同日午後4時)頃、マグニチュード5.8の地震があり、30日までに少なくとも16名が死亡しています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 最近の講話の中で、聖パウロの手紙における祈りを考察しています。わたしたちは、キリスト教の祈りを、キリストのうちに聖霊を通して行われる、父である神とのまことの個人的出会いとして考えようと努めています。今日の謁見では、神の忠実な「然り」と信者の信頼を込めた「アーメン」の対話を取り上げます。そして、この対話のダイナミズムを、コリントの信徒への手紙二の考察を通して強調したいと思います。聖パウロはこの情熱的な手紙を、自分の使徒性について何度も議論していた教会に書き送ります。そしてパウロは、手紙の受け取り手に自分がキリストと福音に忠実であることを納得してもらうために、心を開きます。コリントの信徒への手紙二は、新約における最高の賛美の祈りをもって始まります。その祈りは次のように述べます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(二コリント1・3-4)。
 それゆえパウロは、大きな苦難に遭い、多くの困難と苦しみを経験しなければなりませんでした。しかし彼は決して失望に陥りはしませんでした。主イエス・キリストの恵みと、このかたがそばにいてくださることによって支えられていたからです。パウロはこのかたのために使徒となり、自分の全生涯をそのみ手にささげたのです。だからパウロはこの手紙を神への賛美と感謝の祈りをもって始めます。キリストの使徒としての生活の中で、彼があわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた父の支えを感じないことは一瞬たりともなかったからです。この手紙の中に書いているとおり、パウロは深く苦しみました。しかし、これから先の道が見えないかのように思われる、どのような苦しい状況にあっても、彼は神から慰めと励ましを与えられました。パウロはキリストをのべ伝えたがゆえに、ただちに迫害に遭い、投獄されるに至りました。しかし彼はつねに内的な自由を感じていました。キリストの現存に励まされ、福音の希望のことばを告げ知らせたいという望みに駆られたからです。そこで彼は獄中から、自分の忠実な協力者であるテモテに手紙を書き送ります。鎖につながれながら、パウロは述べます。「しかし、神のことばはつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光とともに得るためです」(二テモテ2・9b-10)。パウロはキリストのために苦しむことのうちに、神の慰めを味わいます。パウロはいいます。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(二コリント1・5)。
 それゆえ、コリントの信徒への手紙二の冒頭の賛美の祈りの中で、苦難というテーマと並んで中心となっているのは、慰めというテーマです。この慰めを単なる気休めのように理解してはなりません。むしろそれは何よりもまず、苦難と困難に打ち負かされないようにという、励ましと勧めなのです。それは、どのような状況もキリストと一つに結ばれて生きるようにという招きです。キリストは、世のすべての苦しみと罪をご自身の身に負って、光と希望とあがないをもたらされるからです。そこからイエスは、わたしたちも、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることを可能にしてくださいます。祈りによるキリストとの深い一致と、キリストの現存への信頼は、兄弟の苦しみと苦難を進んで共有するようわたしたちを導きます。パウロはいいます。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(二コリント11・29)。このような苦しみの共有は、単なる善意や人間的な寛大さ、あるいは利他精神から生まれるものではありません。むしろそれは主の慰めから、すなわち、「神のものであって、わたしたちから出たものでない、並外れて偉大な力」(二コリント4・7)の揺るぎない支えから流れ出ます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちの人生の歩みは、しばしば困難や誤解や苦しみによって特徴づけられます。わたしたちは皆そのことを知っています。わたしたちも、主との忠実な関係のうちに、日々、絶えずささげる祈りによって、神から来る慰めを具体的に味わうことが可能です。このことはわたしたちの信仰を力づけます。なぜなら、わたしたちはそれによって、神がキリストにおいて人間を、わたしたちを、わたしを「然り」としてくださったことを具体的なしかたで体験できるからです。わたしたちは、十字架上で御子をささげるほどの、神の忠実な愛を感じられるからです。聖パウロはいいます。「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間でのべ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったようなかたではありません。このかたにおいては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこのかたにおいて『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、このかたを通して『アーメン』と唱えます」(二コリント1・19-20)。神の「然り」は中途半端なものではありません。「然り」と「否」の間を行き来するようなものではありません。むしろそれは単純で確かな「然り」です。そしてこの「然り」に対して、わたしたちも自らの「然り」をもって、「アーメン」をもってこたえます。こうしてわたしたちは神の「然り」のうちに確実にとどまります。
 信仰は元来、人間の行為ではありません。むしろそれは神の無償のたまものです。このたまものは、神の忠実さ、神の「然り」に基づきます。この神の「然り」によって、わたしたちは、どのようにして神と兄弟を愛しながら生涯を生きればよいかを理解することができます。救いの歴史全体を通じて、わたしたちの不忠実と拒絶にもかかわらず、この神の忠実さが少しずつ現されました。そこでわたしたちは「神のたまものと招きとは取り消されない」ことを確信できます。ローマの信徒への手紙で使徒パウロが述べるとおりです(ローマ11・29)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。神のなさり方――それはわたしたちのそれとは大きく異なります――は、わたしたちに慰めと力と希望を与えます。なぜなら、神はご自身の「然り」を取り消されないからです。わたしたちは、人間関係の中に、それもしばしば家族にさえ対立が存在するのを目にして、無償の愛を与え続けることをやめがちです。無償の愛は、献身と犠牲を必要とします。これに対して、神はうむことなくわたしたちとともにいてくださいます。うむことなくわたしたちに忍耐を示されます。そして、はかりしれないあわれみをもって、つねにわたしたちの前を歩まれます。神が先にわたしたちに会いに来られます。わたしたちは神の「然り」に絶対的に信頼を置くことができます。神は十字架という出来事によって、決して計ることのできないご自身の愛の大きさを示してくださいます。聖パウロはテトスへの手紙の中で述べます。「わたしたちの救い主である神のいつくしみと、人間に対する愛とが現れた」(テトス3・4)。そして、この神の「然り」が日々新たにされるために、「わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」(二コリント1・21b-22)。
 実際、聖霊はキリスト・イエスのうちに神の「然り」を絶えず生き生きと現前させ、わたしたちの心にキリストに従いたいという望みを造り出します。それは、いつの日かキリストの愛のうちに完全にあずかり、天において人の手で作ったのでない住まいが与えられるためです。この忠実な愛が訪れ、呼びかけることのない人はだれもいません。この愛は、「否」という拒絶をもって、あるいは心の頑なさをもってこたえ続ける人をも待っていることができるからです。神はわたしたちに期待しています。神はつねにわたしたちを捜しておられます。神はご自身との交わりにわたしたちを受け入れ、わたしたち一人ひとりに完全ないのちと希望と平和を与えることを望まれます。
 典礼のすべての行為の中に響き渡る、教会の「アーメン」は、この神の忠実な「然り」に接ぎ木されています。「アーメン」という応答は、つねに個人と共同体の祈りを締めくくります。そしてそれは、神の呼びかけにわたしたちが「はい」とこたえることを表します。わたしたちは祈りの中で、その深い意味を理解することなしに、しばしば習慣的に「アーメン」と唱えます。このことばは「アマン(’aman)」に由来します。「アマン」は、ヘブライ語とアラム語で、「確かなものとする」、「強める」、そこから、「確信する」、「真実を述べる」を意味します。聖書を読むと、この「アーメン」は祝福と賛美の詩編の終わりに述べられているのが分かります。たとえば詩編41では、次のようにいわれます。「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに、み前に立たせてください。主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」(13-14節)。またこのことばは、神への忠実を表します。すなわち、イスラエルの民がバビロニアへの流謫から喜びにあふれて帰還したとき、彼らは神とその律法に「然り」、「アーメン」と述べます。ネヘミヤ記にはこう述べられています。流謫から帰還したとき、「エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその(律法の)書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和した」(ネヘミヤ8・5-6)。
 それゆえ、初めから、ユダヤ教の典礼の「アーメン」は初期キリスト教共同体の「アーメン」となりました。そこで、優れた意味でのキリスト教の典礼書であるヨハネの黙示録は、教会の「アーメン」から始まります。「わたしたちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださったかたに、わたしたちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司としてくださったかたに、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙示録1・5b-6)。これが黙示録の1章です。同じ黙示録は「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22・20)という祈願をもって結ばれます。
 親愛なる友人の皆様。祈りは生きておられるかたとの出会いです。わたしたちはこのかたのことばに耳を傾け、このかたと対話しなければなりません。祈りは神との出会いです。神はご自身の揺るぎない忠実さを、人間に対する、わたしたち一人ひとりに対する「然り」を、いつも新たに示されます。それは、生活の嵐のただ中でご自身の慰めをわたしたちに与え、わたしたちが神と結ばれて、喜びといつくしみに満ちた生活を送れるようにしてくださるためです。この生活は永遠のいのちのうちに完成します。
 わたしたちは祈りの中で神に「はい」というよう招かれます。生涯を通して、一致と忠実に満ちた「アーメン」をもって神にこたえるよう招かれます。わたしたちは自分の力でこの忠実を獲得することができません。この忠実は単なる日々の努力から得られる結果ではありません。この忠実は神に由来し、また、キリストの「然り」を基盤としています。キリストはこういわれるからです。わたしの食べ物とは、父のみ心を行うことである(ヨハネ4・34参照)。わたしたちはこの「然り」に歩み入らなければなりません。神のみ心に忠実に従いながら、このキリストの「然り」に歩み入らなければなりません。それは、聖パウロとともに、こう言うことができるようになるためです。生きているのは、もはやわたしたちではありません。キリストがわたしたちのうちに生きておられるのです。こうしてわたしたちの個人また共同体としての祈りの「アーメン」は、わたしたちの生活全体を包み込み、変容させます。わたしたちの生活は、神の慰めに満ちた生活、永遠の揺るぎない愛に満たされた生活となるのです。ご清聴ありがとうございます。

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