教皇ベネディクト十六世の318回目の一般謁見演説 パウロにおける観想の体験

6月13日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の318回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


6月13日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の318回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第9回として、「聖パウロの手紙における祈り――パウロにおける観想の祈りの体験」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、6月10日(日)から17日(日)までアイルランドのダブリンで開催されている第50回国際聖体大会に向けて、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「この時にあたり、わたしはアイルランドの教会に深く思いを致し、祝福のあいさつを送ります。アイルランドのダブリンでは、わたしの代理のマルク・ウエレット枢機卿の臨席のもとに、第50回国際聖体大会が開催されているからです。今回の聖体大会のテーマは『聖体――キリストとの一致、わたしたち同士の一致』です。諸大陸から来た多くの司教、司祭、奉献生活者、信徒がこの重要な教会行事に参加しています。
 国際聖体大会は聖体が教会生活において占める中心的な意味を再確認するよい機会です。十字架上での最高の愛のいけにえによって祭壇の秘跡のうちに現実に現存されるイエスは、ご自身をわたしたちに与えます。そして、わたしたちをご自身に一致させ、ご自身との交わりをもたせるために、わたしたちの糧となってくださいます。この交わりを通して、わたしたちも互いに一致し、イエスのうちに一つになり、互いに部分となります。
 皆様にお願いします。アイルランドと世界のキリスト信者と霊的に一致しながら、大会のテーマのために祈ってください。聖体がつねに全教会のいのちの鼓動となることができますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 日々主と出会い、頻繁に秘跡にあずかることは、わたしたちの思いと心が主の現存とことばとわざに開かれることを可能にしてくれます。祈りは単なる霊魂の息抜きではありません。むしろ祈りは、たとえていうなら、平和のオアシスともなります。わたしたちはこのオアシスの中で、自らの霊的生活を養い、生活を造り変えてくれる水を飲むことができるのです。神はまたわたしたちをご自身へと引き寄せ、聖性の山へと登らせます。それは、道を歩むわたしたちに光と慰めを与えて、ますます神に近づかせるためです。これが、コリントの信徒への手紙二の12章の中で聖パウロが述べる、パウロ自らの体験です。今日はこの箇所について考えてみたいと思います。自分が使徒であることの正統性に異議を唱える人々に対して、パウロは、自らが立てた共同体の数や、歩んだ長い距離を数え上げるだけではありません。彼は、福音を告げ知らせるために遭遇した困難や数々の反対を思い起こすだけにとどまりません。むしろ彼は主との関係を示します。それは、しばしば脱魂と深い観想によって特徴づけられた深い関係です(二コリント12・1参照)。それゆえパウロは、自分の業績や力や活動や成功を誇らず、むしろ神が自分のうちに、自分を通してなさったわざを誇ります。実際彼は、深い慎みをもって、神のおられる天に上げられるという特別な体験をした時のことを語ります。彼は述べます。手紙を送る14年前、自分は「第三の天にまで引き上げられたのです」(2節)。聖パウロはこのことについて、言い表しえないことを語る言語と語り方により、三人称さえ用いていいます。その人は神の園、すなわち「楽園」にまで引き上げられました。観想があまりに深いものだったので、使徒パウロは自分が受けた啓示の内容を思い起こすことさえできません。しかし、回心のときにダマスコへの道で起きたのと同じように、主が自分を完全に捕らえ、ご自分に引き寄せた時と状況ははっきりと自覚できました(フィリピ3・12参照)。
 聖パウロは続けていいます。自分が受けた啓示のすばらしさのゆえに思い上がることのないように、彼の身には「とげ」、すなわち苦しみが与えられました(二コリント12・7)。彼は悪い者の使いから、すなわちこの肉に刺さったとげの痛みから解放してくださるように、復活した主に強く願いました。彼はいいます。わたしはこの試練から引き離されることを三度主に願いました。するとこのような状況の中で、神についての深い観想のうちに、彼は「人が口にするのを許されない、言い表しえないことばを耳にしたのです」(4節)。彼は願いに対するこたえを与えられました。復活した主ははっきりとしたことばで彼を元気づけていわれます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)。
 このことばについてのパウロの解説は驚くべきものかもしれません。しかしそれは、真の福音の使徒とはいかなる者かを、パウロがどのように考えていたかを示します。実際、パウロは叫んでいいます。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(9b-10節)。つまり、彼は自分のわざではなく、まさに自分の弱さの中で示されるキリストの働きを誇るのです。聖パウロがキリストを告げ知らせるために西洋への旅を開始する前の、沈黙と観想のうちに過ごしていた時期に起こったこの出来事についてもう少し考えてみたいと思います。なぜなら、ご自身を現される神に対する深いへりくだりと信頼の態度は、わたしたちの祈りと生活、またわたしたちの神との関係、自分の弱さとの関係にとっても、根本的なものだからです。
 まず、使徒パウロが語る弱さとは何でしょうか。肉に刺さった「とげ」とは何のことでしょうか。わたしたちには分かりませんし、パウロも語っていません。しかし、パウロの態度は次のことを理解させてくれます。キリストに従い、キリストの福音をあかしする上でのあらゆる困難は、信頼をもって主のわざに心を開くことによって乗り越えることが可能です。聖パウロは、自分が「取るに足りないしもべ」(ルカ17・10)――偉大なわざをなさるのは主であって、自分ではないからです――であり、「土の器」(二コリント4・7)であることをよく自覚しています。神はこの「土の器」に、豊かで力に満ちたご自分の恵みを注ぎ入れるのです。聖パウロはこの深い観想の時の中で、あらゆる出来事、とくに苦しみと困難と迫害にどのように立ち向かうべきかをはっきりと悟ります。自らの弱さを体験するとき、神の力が示されます。神の力はわたしたちを見捨てることも独りきりにすることもありません。むしろそれは支えと力となってくれるのです。確かにパウロはこの苦しみの「とげ」から解放されるほうがよいと考えました。しかし神はいわれます。「いや、むしろそれはあなたにとって必要である。あなたは抵抗し、なさねばならないことを行うのに十分な恵みを与えられる」。これはわたしたちにも当てはまります。主はわたしたちを悪から解放せず、むしろ、わたしたちが苦しみと困難と迫害の中で成長できるように助けてくださいます。それゆえ、信仰はわたしたちに語ります。もしわたしたちが神のうちにとどまるなら、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていき、多くの困難に遭遇するとしても、『内なる人』は日々新たにされ、試練の中で成長していきます」(二コリント4・16参照)。使徒パウロはコリントのキリスト信者に伝えます。わたしたちにも伝えます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(同4・17)。実際には、人間の目から見れば、困難の重みは軽いものではなく、むしろ深刻です。けれども、神の愛と比べれば、神に愛されていることのすばらしさに比べれば、それは軽いものに思われます。栄光の大きさは比べものがないほどだからです。それゆえ、わたしたちも、主と一致すればするほど、また祈りを深めれば深めるほど、本質的なことがらに目を向けるようになります。そして、こう理解するようになります。神の国を実現するのは、わたしたちの富、徳、能力の力ではありません。神が、まさにわたしたちの弱さと、なすべき務めに対する至らなさを通して、奇跡を行われるのです。それゆえわたしたちは、へりくだりをもって、自分だけに信頼を置くのではなく、主に助けられながら、主のぶどう畑で働かなければなりません。こわれやすい「土の器」である自分を主にゆだねながら。
 聖パウロは、二つの特別な啓示が自分の人生を根底から変えたと語ります。わたしたちが知っているとおり、第一の啓示は、ダマスコに向かう道での驚くべき問いかけです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9・4)。この問いかけが、生きてともにおられるキリストの発見と、このかたとの出会いへとパウロを導きました。そしてパウロは、福音の使徒となることへの招きを感じました。第二の啓示は、わたしたちが考察している、観想の祈りの体験の中で語りかけられた主のことばです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。神のわざと、わたしたちを見捨てることのない神のいつくしみへの信仰と信頼のみが、働きが空しいものとならないことの保証です。こうして主の恵みは力となって、福音を広めるために途轍もない労苦を味わった聖パウロに同伴しました。そしてパウロの心はキリストの心の中に歩み入り、わたしたちのために死んで復活したかたへと他の人々を導くことができるようになりました。
 それゆえわたしたちも、祈りの中で主に心を開かなければなりません。それは、主が来て、わたしたちの弱さのうちに住み、わたしたちの弱さを福音のための力に造り変えてくださるためです。主がわたしたちのこわれやすい人間性の中に宿ることを述べるためにパウロが用いたギリシア語も意味深いものです。パウロは「エピスケーノオー」という語を用います。わたしたちはこの語を「自分の幕屋を張る」と訳すことができます。主はわたしたちのうちに、わたしたちのただ中にご自分の幕屋を張り続けてくださいます。これが受肉の神秘です。わたしたちの人間性のうちに宿るために来られた神のみことばご自身が、わたしたちのうちに住み、わたしたちのうちにご自身の幕屋を張って、わたしたちの生涯と世界を照らし、造り変えることを望まれるのです。
 聖パウロが体験した、神についての深い観想は、タボル山での弟子たちの観想を思い起こさせます。姿が変わり、光り輝いたイエスを見て、ペトロはいいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(マルコ9・5)。聖マルコは続けていいます。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」(同9・6)。主を仰ぎ見ることは、魅惑的であると同時に戦慄的です。それが魅惑的なのは、主がわたしたちをご自身へと引き寄せ、わたしたちの心を天へと奪い去るからです。わたしたちは天へと導かれて、そこで平安と主の愛のすばらしさを味わうからです。それが戦慄的なのは、わたしたちのいのちを脅かす悪い者、すなわち、わたしたちの肉にも刺さったとげに打ち勝つための、自分の人間的な弱さと至らなさと労苦があらわにされるからです。わたしたちは祈り、日々主を観想することによって、神の愛の力を与えられます。そして、聖パウロがローマの信徒に述べたことばは真実だと感じます。「わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38-39)。
 人間的な富の効果と力だけに頼る恐れがあるこの世界の中で、わたしたちは神の力を再発見し、あかしするよう招かれています。神の力は祈りの中で伝えられます。そしてわたしたちは、この神の力によって日々、自分のいのちをキリストのいのちにいっそう似たものとしていきます。パウロはいいます。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きています」(二コリント13・4)。
 親愛なる友人の皆様。20世紀のプロテスタント神学者で、ノーベル平和賞受賞者のアルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer 1875-1965年)はいいます。「パウロは神秘主義者であり、また神秘主義者以外の何者でもない」。すなわち、パウロは真の意味でキリストに心を捕らえられ、「キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2・20)ということができるまでにキリストと一致した人です。聖パウロの神秘主義の基盤となったのは、彼が体験した特別な出来事だけではありません。恵みをもって彼をつねに支えてくれた、主との日々の深い関係もそうなのです。この神秘主義はパウロを現実から遠ざけませんでした。反対にそれは、日々キリストのために生き、当時の世界の果てまで教会を築くための力を彼に与えました。神との一致はわたしたちを世から遠ざけません。むしろそれは、わたしたちが本当に世にとどまり、世においてなすべきことを行う力を与えてくれます。それゆえわたしたちは、自分の祈りの生活においても、もしかすると特別に深い体験をし、その中で主の現存をいっそう生き生きと感じることがあるかもしれません。しかし、大切なのは、変わることなく忠実な神との関係です。とくに乾燥と困難と苦しみと神が不在であるように思われる状況の中で、そのような神との関係をもつことです。わたしたちは、キリストの愛に捕らえられたときに初めて、パウロと同じように、あらゆる逆境に立ち向かうことができるようになります。わたしたちを強めてくださるかたのおかげで、わたしたちにはすべてが可能だと確信しながら(フィリピ4・13参照)。それゆえわたしたちは、祈りに時間を当てれば当てるほど、自分の生活が神の愛の具体的な力によって造り変えられ、力づけられるのをいっそう感じるようになります。たとえばコルカタの福者マザー・テレサ(1910-1997年)の場合のようにです。マザー・テレサは、イエスを観想することのうちに、それも長い乾燥した時期の中に、自分の弱さにもかかわらず、貧しい人、見捨てられた人のうちにイエスを見いだす究極的な理由と信じられないほどの力を与えられました。すでに述べたとおり、生活の中でキリストを観想することは、わたしたちを現実から遠ざけません。むしろそれは、わたしたちをいっそう人間の暮らしにかかわらせます。なぜなら、主は、祈りの中でわたしたちをご自身へと引き寄せながら、わたしたちが主の愛のうちにすべての兄弟のそばに寄り添うことを可能にしてくださるからです。ご清聴ありがとうございます。

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