教皇ベネディクト十六世の2012年6月17日の「お告げの祈り」のことば 種のたとえ話

教皇ベネディクト十六世は、年間第11主日の6月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第11主日の6月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今週の水曜日の6月20日は、国連が主催する『世界難民の日』です。『世界難民の日』は、武力紛争や深刻な暴力に脅かされたために自分の土地を逃れることを強いられた多くの人、とくに家族の置かれた状況に国際社会の目を向けることを目的としています。これらの試練にさらされた兄弟姉妹のために祈り、聖座が絶えず配慮することを約束するとともに、難民の権利がつねに尊重され、難民が速やかに家族と再会できることを願います。
 今日、アイルランドで、国際聖体大会の閉会ミサが行われます。国際聖体大会は、この一週間、ダブリンを聖体の町にしました。ダブリンでは多くの人が集まって、祭壇の秘跡のうちに現存されるキリストに祈りをささげたからです。イエスは聖体の秘跡によってわたしたちとともにとどまり、わたしたちをご自分と一致させ、また互いに一致させようと望まれます。この数日間の考察と祈りで深められた実りを至聖なるマリアにゆだねます。
 最後に、今日の午後、チーヴィタ・カステッラーナ教区のネーピで、わずか18歳で亡くなったチェチリア・エウセピ(Cecilia Eusepi 1910-1918年)が列福されることを喜びをもって思い起こします。宣教修道女になりたいと望みながら、病気のために修道院を離れることを余儀なくされたこの少女は、揺るぎない信仰をもって生き、霊魂の救いのために犠牲をささげる大きな力を示しました。彼女は生涯の最後の日々に、十字架につけられたキリストとの深い一致のうちに、繰り返してこう述べました。『わたしたちのためにすべてをささげられたイエスに自分をささげるのは、すばらしいことです』」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の典礼はイエスの二つの短いたとえ話を示します。すなわち、ひとりでに成長する種のたとえ話と、からし種のたとえ話です(マルコ4・26-34参照)。主は農業の世界からとられたイメージを用いて、みことばと神の国の神秘を提示します。そして、わたしたちの希望と務めの理由を示します。
 第一のたとえ話の中では、種の力に関心が向けられます。土に蒔(ま)かれた種は、農夫が寝起きしているうちに、ひとりでに芽を出して成長します。人は、自分の労働が実を結ぶことを信じて種を蒔きます。日々、労苦する農夫を支えるのは、種の力とよい土地への信頼です。このたとえ話は、創造とあがないの神秘、すなわち、歴史における神の実り豊かなわざの神秘を思い起こさせます。神はみ国の主であり、人はその慎ましい協力者です。人は神の創造のわざを仰ぎ見て喜び、忍耐をもって実りを待ち望みます。最終的な収穫は、世の終わりにおける神の最後の到来のことをわたしたちに考えさせます。そのとき神はみ国を完全に実現するのです。現在の時は種蒔きの時です。そして、種が成長することを保証するのは主です。それゆえ、すべてのキリスト信者は、自分にできることをすべて行うべきであること、しかし、最終的な結果は神にかかっていることを知らなければなりません。この自覚が、とくに困難な状況における日々のあらゆる労苦を支えます。そのため聖イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556年)は述べます。「すべてがあなたにかかっているかのように行いなさい。同時に、実際にはすべては神にかかっていることを知りなさい」(ペドロ・デ・リバデネイラ『聖イグナティウス・デ・ロヨラ伝』:Vita di S. Ignazio di Loyola, Milano 1998参照)。
 第二のたとえ話も種のイメージを用います。しかし、ここで語られるのは、からし種という特別な種です。からし種はあらゆる種の中で最小のものと考えられていました。ところで、からし種は、それほど小さいにもかかわらず、生命力に満ち、蒔かれて成長する芽は、地面を突き破り、日の光を浴びて、「どんな野菜よりも大きくなり」(マルコ4・32参照)ます。弱さは種の力です。砕かれることが、種の力です。神の国も同じです。神の国は、人間的に考えれば小さなものです。それは、心の貧しい人々、自分の力にではなく神の愛の力に頼る人々、世の目から見れば重要でない人々から成るからです。にもかかわらず、このような人々を通してキリストの力があふれ出し、取るに足らないように見える人々を造り変えるのです。
 イエスは種のイメージを特別に好みました。それは神の国の神秘をよく表すからです。今日の二つのたとえ話の中で、種は「成長」と「対比」を示します。この成長は種そのものに備わる力に由来します。対比は、種の小ささと、そこから生み出される大きさの間に存在します。メッセージは明らかです。たとえわたしたちの協力も必要だとはいえ、神の国は何よりもまず、主の与えてくださるたまものであり、人間とその行為に先立つ恵みです。わたしたちの小さな力は、世のさまざまな問題に対して無力であるように見えます。しかし、神の力のうちに導き入れられるなら、それはどんな障害も恐れません。なぜなら、主が勝利されることは確実だからです。これが神の愛の奇跡です。神の愛は、地に蒔かれたあらゆる善の種を芽吹かせ、成長させます。そしてわたしたちは、この愛の奇跡を体験することによって、困難や苦しみや不幸に出会っても、楽観的でいられます。種は芽を出して成長します。神の愛がそれを成長させるからです。神のことばの種を「よい土地」のように受け入れられたおとめマリアが、わたしたちのこのような信仰と希望を強めてくださいますように。

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