教皇ベネディクト十六世の319回目の一般謁見演説 父である神の計画に対する賛美(エフェソ1・3-14)

6月20日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の319回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


6月20日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の319回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第10回として、「父である神の計画に対する賛美(エフェソ1・3-14)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、イタリア語で、ナイジェリアのテロ行為に関する呼びかけを行いました。
「ナイジェリアからもたらされるニュースを深い懸念をもって見守っています。ナイジェリアではとくにキリスト信者に直接向けられたテロ攻撃が続いているからです。わたしは犠牲者とけがをした人々のために祈りをささげるとともに、暴力に責任を負う人々に呼びかけます。多くの罪のない人の血を流すことをただちにやめてください。さらにわたしは願います。ナイジェリア社会を構成するすべての人々は完全に協力して、復讐の道を歩まないでください。むしろ全市民が、自分の信仰を自由に告白する権利が完全に尊重される、平和で一致した社会の建設に協力してください」。
ナイジェリアでは6月17日(日)、北部カドゥナ州のキリスト教会3か所でイスラーム過激派ボコ・ハラムによる連続爆破事件が起き、それに続く報復によるものと合わせて50人以上が死亡しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちの祈りはしばしば必要な助けを求めます。これは人間にとって正常なことでもあります。わたしたちは助けを必要とし、他者を必要とし、また神を必要とするからです。ですから、わたしたちが神に何ごとかを願うこと、神の助けを求めることは、正常なことです。主がわたしたちに教えてくださった祈りである「主の祈り」は、願いの祈りであることを忘れてはなりません。主はこの祈りによって、わたしたちの祈りの優先順位を教えてくださいます。主はわたしたちの望みを清め、そこから、わたしたちの心を洗い清めてくださいます。それゆえ、祈りの中で何ごとかを願うのはそれ自体としては正常なことですが、ただ願うだけではいけません。わたしたちには感謝しなければならないこともあります。すこし注意してみるなら、わたしたちは神から多くのよいものを与えられていることが分かります。神はわたしたちに対していつくしみ深いかたです。だから、感謝することはふさわしく、必要です。感謝は賛美の祈りにもならなければなりません。たとえ多くの問題があっても、心を開くなら、わたしたちは神の被造物のすばらしさを、神が被造物の中で示されるいつくしみを見いだします。それゆえ、ただ願うだけでなく、賛美と感謝をささげなければなりません。そのようにするとき初めてわたしたちの祈りは完全なものとなります。
 聖パウロは手紙の中で祈りについて語るだけではありません。パウロが願いの祈りを述べているのは確かです。しかし彼は、神が人類の歴史の中でかつて行い、今も実現し続けておられることをたたえ、賛美する祈りについても述べるのです。
 今日はエフェソの信徒への手紙の1章について考えてみたいと思います。エフェソの信徒への手紙はまさに祈りから始まります。この祈りは賛美の賛歌であり、感謝と喜びの表現です。聖パウロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神を賛美します。神は「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださった」(エフェソ1・9)からです。実際、神が隠されたものを知らせてくださったのなら、感謝すべきです。隠されたものとは、わたしたちとともに、わたしたちのために神が抱いておられるみ心です。「秘められた計画(ミュステーリオン〔神秘〕)」ということばは、聖書と典礼の中でしばしば用いられます。ここでは言語学の問題には立ち入りません。このことばは、普通の用法として、知ることのできないもの、わたしたちの知性で把握不能なものを示します。エフェソの信徒への手紙の冒頭の賛歌は、わたしたちの手をとって、このことばの深い意味と、それがわたしたちに示すことがらへと導いてくれます。信じる者にとって「神秘」は、不可知なものであるというよりも、むしろ神のあわれみ深いみ心です。神の愛の計画です。この愛の計画はイエス・キリストのうちに完全に現され、わたしたちが「すべての聖なる者たちとともに、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、・・・・この愛を知る」(エフェソ3・18-19)ことを可能にしてくれます。神の「知られざる神秘」が示されました。この神秘とは、神がわたしたちを愛してくださること、初めから、永遠にわたしたちを愛してくださることです。
 それゆえ、この荘厳で深い祈りについてすこし考えてみたいと思います。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(エフェソ1・3)。聖パウロは「エウロゲイン」という動詞を用います。この動詞は通常、ヘブライ語の「バーラク」の訳語です。「バーラク」とは、救いの恵みの源である父である神をほめたたえ、あがめ、感謝することです。神は「わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(同)。
 使徒パウロは感謝し、賛美すると同時に、わたしたちを賛美へと促す理由も考察して、神の計画の本質的な要素とその諸段階を示します。何よりもまずわたしたちが父である神を賛美しなければならないのは、(聖パウロが述べるとおり)神が「天地創造の前に、わたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった」(4節)からです。わたしたちを聖なる者、汚れのない者とするのは、愛です。神はわたしたちを存在へと、そればかりか聖性へと招きました。この選びは天地創造にさえ先立ちます。わたしたちは永遠の昔から神の計画と思いのうちにいます。預言者エレミヤとともにわたしたちもこういうことができます。神はわたしたちを母の胎内に造る前から、わたしたちを知っておられました(エレミヤ1・5参照)。そして、わたしたちを知っておられる神は、わたしたちを愛してくださいました。聖性、すなわち神との交わりへの呼びかけは、この神の永遠の計画に属します。この計画は歴史を通じて延長し、世のすべての人を包みます。それは普遍的な呼びかけだからです。神はだれをも除外なさいません。神の計画はただひたすら、愛の計画だからです。聖ヨアンネス・クリュソストモス(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)はいいます。「神ご自身がわれわれを聖なる者とされる。しかし、われわれは聖なる者であり続けるよう招かれている。聖なる者とは、信仰を生きる者のことである」(『エフェソ書講話』1・1・4)。
 聖パウロは続けていいます。神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にし」、独り子のからだに組み入れようと、前もって定め、選ばれました。使徒パウロは、人類に対する神のこの驚くべき計画が無償のものであることを強調します。神がわたしたちを選んだのは、わたしたちがよい者だったからではなく、神がよいかただったからです。善についての古代の格言があります。「善は自己の存在を周囲におし拡げるものである(bonum est diffusivum sui)」(トマス・アクィナス『神学大全』:Summa theologiae I, q. 5, a. 4 ad 2〔山田晶訳、『世界の名著続5 トマス・アクィナス』中央公論社、1975年、205-206頁〕参照)。善は自らを伝えます。自らを伝えること、自らを拡張することは、善の本質に属します。それは、神が善であり、善の伝達であり、善を伝えることを望むものだからです。神が創造するのは、自らの善性をわたしたちに伝え、わたしたちをよい者、聖なる者とすることを望むからです。
 使徒パウロは、賛美の祈りの中心で、愛する御子キリストのうちに御父の救いの計画が実現されるしかたを示します。パウロは述べます。「わたしたちはこの御子において、その血によってあがなわれ、罪をゆるされました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1・7)。キリストの十字架のいけにえは、御父がわたしたちに対する愛を、ことばだけでなく、具体的な形で、輝かしく示された、唯一、一度限りの出来事です。神は具体的なかたであり、その愛も具体的です。だから神は歴史の中に歩み入り、人間となります。それは、造られた世界において存在し生きるとはいかなることかを感じるためです。そして神は、受難の苦しみの道を受け入れ、死までも味わいます。神の愛はきわめて具体的なものなので、神は、わたしたちの存在だけでなく、わたしたちの苦しみと死までも共有するのです。十字架のいけにえによって、わたしたちは「神の所有物」となります。なぜなら、キリストの血がわたしたちを罪からあがない、悪から洗い清め、罪と死の束縛から引き上げてくれたからです。聖パウロはこう招きます。神の愛の深さを考えなさい。神の愛は歴史を造り変えます。それは自分の生涯をキリスト教徒の迫害者からうむことのない福音の使徒へと造り変えました。ローマの信徒への手紙の確信に満ちたことばがあらためてこだまします。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたかたは、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。・・・・わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・31-32、38-39)。神はわたしたちの味方です。何ものも神の愛からわたしたちを引き離すことはできません。神の愛はいかなるものより強いからです。――わたしたちはこのような確信を、自分の存在のうちに、キリスト信者の良心のうちに根づかせなければなりません。
 最後に、神への賛美は、わたしたちの心に注がれる聖霊への言及で結ばれます。わたしたちはこの弁護者を約束の証印として与えられました。パウロはいいます。「この聖霊は、わたしたちがみ国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちはあがなわれて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ1・14)。パウロが述べるとおり、あがないはまだ完結していません。むしろそれは、神がご自分のものとされた人々が完全に救われるとき、完全に実現します。わたしたちはまだ、あがなわれる途上にいます。あがないの本質は、イエスの死と復活によって与えられました。わたしたちは、決定的なあがない、すなわち、神が子らを完全に解放するときに向けた道を歩んでいます。聖霊は、神がご自身の救いの計画を完成してくださることの保証です。そのときには「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1・10)。聖ヨアンネス・クリュソストモスはこのことについて解説していいます。「神はわれわれを信仰のゆえに選び、将来の栄光を受け継ぐための証印をわれわれのうちに刻まれた」(『エフェソ書講話』2・11-14)。わたしたちは、わたしたちもあがないの道を歩むのだということを受け入れなければなりません。神は、自由に「はい」ということのできる、自由な被造物を望まれたからです。しかし、あがないの道を歩まれるのは何よりもまず、神ご自身です。わたしたちは神のみ手のうちにあるからです。わたしたちの自由は、神が開いてくださった道を歩むことだからです。わたしたちは、キリストとともにこのあがないの道を歩むことによって、あがないが完全に実現されるのを見いだします。
 聖パウロがこの偉大な賛美の祈りによってわたしたちに示す展望は、至聖なる三位一体の三つのペルソナの働きを観想するようわたしたちを導きます。御父は、天地の造られる前からわたしたちをお選びになりました。御父はわたしたちのことを思い、わたしたちを創造されました。御子は、ご自身の血によってわたしたちをあがないました。聖霊は、わたしたちのあがないと将来の栄光の保証です。わたしたちも聖パウロと同じように、絶えざる祈りと、日々の神との関係を通して、この計画とみわざのしるしをますますはっきりと見分けられるようにならなければなりません。それを、被造物から現れる造り主の美のうちに見分けなければなりません(エフェソ3・9参照)。アッシジの聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)が歌ったように。「わたしの主よ、あなたはたたえられますように、すべての、あなたの造られたものとともに」(「太陽の歌」3:FF 263〔『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、50頁〕)。今の休暇の時期にも、被造物の美しさに目を向け、この美しさのうちに現れた神のみ顔を見いだすことが大切です。聖人たちはその生涯の中で、神の力が人間の弱さのうちになしうることを輝かしいしかたで示します。神の力はわたしたちのうちでも同じことをすることが可能です。救いの歴史全体を通して、神はわたしたちに近づき、忍耐強くわたしたちの歩みを待ち望まれます。そして神は、わたしたちの不忠実を知りながら、わたしたちの努力を励まし、わたしたちを導いてくださいます。
 わたしたちは祈りの中で、教会の歩みにおけるこのようなあわれみに満ちた計画のしるしを見いだすことを学びます。こうしてわたしたちは神への愛を深めます。そして、至聖なる三位一体の神が来てわたしたちのうちに住まい、照らし、温め、わたしたちの生涯を導いてくださるように、扉を開きます。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)。イエスはこのようにいって、すべてのことを教えてくださる聖霊のたまものを弟子たちに約束されます。聖エイレナイオス(Eirenaios; Irenaeus 130/140-200年頃)はあるところで、受肉によって聖霊が人間のうちに住むことに慣れたといっています(『異端反駁』:Adversus haereses III, 17, 1〔小林稔訳、『キリスト教教父著作集 エイレナイオス3 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、88頁〕参照)。わたしたちは祈りの中で、神とともにいることに慣れなければなりません。神とともにいることを学ぶこと――このことはとても大切です。そうすれば、神とともにいることのすばらしさが分かるようになります。それがあがないだからです。
 親愛なる友人の皆様。祈りが自分の霊的生活を深めるなら、わたしたちは、聖パウロが清い良心の中の「信仰の秘められた真理」(一テモテ3・9参照)と呼んだものを保つことができるようになります。神とともにいることに「慣れる」方法である祈りは、利己主義や所有欲や権力欲によってではなく、惜しみない心と、愛することへの望みと、奉仕したいという欲求によって動かされる人を生み出します。神から動かされる人を生み出します。このようにして初めて、わたしたちは世の闇に光をもたらすことができるのです。
 ローマの信徒への手紙の結びのことばをもってこの講話を終えたいと思います。わたしたちも聖パウロとともに神をたたえようではありませんか。神はイエス・キリストのうちにご自身についてのすべてのことをわたしたちに語られ、真理の霊である慰め主をわたしたちに与えてくださいました。ローマの信徒への手紙の終わりに聖パウロは述べます。「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(ローマ16・25-27)。ご清聴ありがとうございます。

略号
FF  Fonti Francescane. Scritti e biografie di san Francesco d’Assisi, Cronache e altre testimonianze del primo secolo francescano, Scritti e biografie di santa Chiara d’Assisi, cura di Movimento Francescano Assisi, 3. ed. Padova 1983.

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