教皇ベネディクト十六世の320回目の一般謁見演説 キリスト賛歌(フィリピ2・5-11参照)

6月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の320回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


6月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の320回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第11回として、「キリスト賛歌(フィリピ2・5-11参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの水曜謁見の中で考察してきたとおり、わたしたちの祈りは、沈黙、ことば、歌、そして、唇と思い、また心とからだ全体を含む、全人格にかかわる動作をもってささげられます。これは、ユダヤ教の祈り、とくに詩編に見られる特徴です。今日はキリスト教の伝統の中で最古の歌ないし賛歌の一つについてお話ししたいと思います。聖パウロはこの賛歌を、フィリピの信徒への手紙という、ある意味で彼の霊的遺言の中に残してくれました。実際、フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがおそらくローマの獄中で口述した手紙です。パウロは死が迫っていることを感じています。なぜなら彼は自分のいのちがいけにえとしてささげられようとしていると述べているからです(フィリピ2・17参照)。
 自分の肉体的な安全が深刻な危険にさらされているという状況にもかかわらず、聖パウロは手紙全体を通じて喜びを表します。それは、キリストの弟子であることの喜び、キリストと出会うことのできた喜びです。そこからパウロは、死ぬことは損失ではなく利益であるとみなすまでに至ります。手紙の最後の章では、喜びへの強い招きが行われます。喜びは、わたしたちがキリスト者であることの、またわたしたちの祈りの根本的な特徴だからです。聖パウロはいいます。「主においてつねに喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい」(フィリピ4・4)。しかし、どうすれば死刑宣告を間近にしながら喜ぶことができるでしょうか。聖パウロは、殉教と、自らの血の注ぎに向かうための落ち着きと力と勇気を、どこから、あるいはもっと適切にいえば、だれから引き出すのでしょうか。
 わたしたちはその答えをフィリピの信徒への手紙の中心の、キリスト教が伝統的に「キリストへの歌」(carmen Christo)、あるいは、普通「キリスト賛歌」と呼ぶもののうちに見いだします。この賛歌の中で、すべての関心はキリストの「思い」に向けられます。キリストの「思い」とは、キリストの考え方と、キリストが具体的に生きた態度のことです。この祈りは次の勧告から始まります。「キリスト・イエスが抱いておられたのと同じ思いを抱きなさい」(フィリピ2・5〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。この思いは、続く節の中に示されます。すなわち、愛、寛大さ、へりくだり、神への従順、そして自分をささげることです。求められているのは、単に道徳的な次元でイエスの模範に従うことだけではありません。むしろ、自分の考え方と行動の仕方を含めた、全存在を用いることです。祈りは、ますます主を知り、主との愛の一致を深めるように人を導かなければなりません。それは、主と同じように、主のうちに、そして主のために考え、行動し、愛することができるようになるためです。このことを実践し、イエスの思いを学ぶことが、キリスト教的生活の道にほかなりません。
 ここでこの内容豊かな賛歌のいくつかの要素について簡単に考察したいと思います。この賛歌は、神の子の、神としてまた人としての歩みの全体を要約するとともに、人間の歴史全体を包括します。すなわち、神の身分であることから、受肉し、十字架上で死に、御父の栄光へと上げられるまでです。賛歌は人祖アダムのとった行動も暗示します。このキリスト賛歌は、キリストが(ギリシア語テキストがいうとおり)「神の形である(エン・モルフェー・トゥー・テウー)」こと、すなわち「神の身分である」ことから出発します。まことの神であり、まことの人間であるイエスは、ご自分の支配権を勝ち誇ったり、認めさせたりするために「神と等しいあり方」で過ごすことも、この支配権をご自分の所有物、特権、大切な宝と考えることもありませんでした。むしろイエスは、「服を脱ぎ」、自分を空しくして、ギリシア語テキストがいうとおり「しもべの形(モルフェー・ドゥーロス)」をとります。それは苦しみと貧しさと死によって特徴づけられるあり方です。イエスは、罪を除いて完全に人間と同じものになります。それは、他者に完全に奉仕するしもべとして生きるためです。このことに関連して、4世紀のカイサレイアのエウセビオス(Eusebios 263/265頃-339/340年)はいいます。「彼は苦しむ人々の労苦を担った。われわれの卑しい病気をご自分のものとした。われわれのために苦しみ、患った。これらすべてのことは彼の人類に対する深い愛に沿うものだった」(『福音の論証』:Demonstratio evangelica 10, 1, 22)。聖パウロはこのイエスのへりくだりが実現された「歴史的」な状況を強調しながら、続けて述べます。「へりくだって、死に至るまで・・・・従順でした」(フィリピ2・8)。神の子は本当の意味で人となり、ご自分のいのちを最高の犠牲としてささげるに至るまで、御父のみ心に完全に忠実に従う道をまっとうしました。さらに使徒パウロは、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」と明示します。イエス・キリストは十字架上で最低のはずかしめを受けました。なぜなら、十字架刑は奴隷すなわち自由人でない者にのみ課される刑罰だったからです。キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)は「十字架のもっともむごたらしい死(mors turpissima crucis)」(『ウェッレース弾劾』:In Verrem V, 64, 165参照)と述べています。
 キリストの十字架によって人間はあがなわれ、アダムのしたことは逆転します。神の像と似姿として造られたアダムは、自分の力で神と同じようなものとなり、神に取って代わることができると思い上がり、そのために、自分に与えられた最初の尊厳を失いました。その反対に、イエスは「神の身分でありながら」、へりくだって、御父に完全に忠実に従い、人間の状態に身を沈めます。それは、わたしたちの内なるアダムをあがない、失われた尊厳を人間に再び与えるためです。教父たちは次のことを強調します。イエスは従順な者となって、ご自分の人間性と従順を通して、アダムの不従順のために失われたものを人間本性に回復するのです。
 わたしたちは、祈り、すなわち神との関係の中で、思いと心と意志を聖霊の働きへと開きます。それは、今述べたのと同じいのちの動きに歩み入るためです。今日記念するアレクサンドレイアの聖キュリロス(Kyrillos 370/380-444 年)がいうとおりです。「聖霊のわざは、恵みを通じて、わたしたちをキリストのへりくだりの完全な写しに造り変えようとする」(『復活祭書簡』:Epistulae paschales 10, 4)。これに対して、人間の考え方は、しばしば権力と支配と強力な手段による自己実現を求めます。人間は自力でバベルの塔を築いて、神の高みに達し、神と同じような者になろうと望み続けます。受肉と十字架はわたしたちに次のことを思い起こさせます。完全な自己実現は、自分の人間としての意志を神のみ心と一致させ、自らの利己主義を放棄し、愛、それも神の愛に満たされること、そこから、本当の意味で他者を愛することができるようになることのうちにあります。人間は、自分のうちに閉じこもり、自己主張することによって自らを見いだすことはできません。人間は、自分から出ることによって初めて自らを見いだします。わたしたちは、自分から出ることによって初めて自らを見いだします。アダムが神に倣おうとしたのは、それ自体としては悪いことではありません。しかしアダムは、神について誤った考えを抱いていたのです。神は偉大さだけを望むかたではありません。神は愛です。この愛は、すでに三位一体のうちに、後に創造において、自らを与えます。それゆえ、神に倣うとは、自分から出て、愛のうちに自らを与えることなのです。
 フィリピの信徒への手紙の「キリスト賛歌」の後半では、テーマが変わります。テーマとなるのは、もはやキリストではなく、父である神です。聖パウロは次のことを強調します。まさに御父のみ心に従ったことにより、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2・9)。しもべの身分をとり、深くへりくだったかたは、御父によって、すべてのものを超えた高みにまで上げられます。そして御父はこのかたに、最高の尊厳と主権を表す「主(キュリオス)」という名を与えます。実際、旧約における神の名そのものである、この新しい名の前で、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて・・・・ひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです」(10-11節)。高く上げられたイエスは、二階の広間のイエスです。すなわち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、かがんで使徒たちの足を洗い、使徒たちにこう求めたかたです。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのようにいうのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13・12-14)。わたしたちの祈りと生活の中でつねに次のことを思い起こすことは大切です。「神への上昇はまさに謙遜な奉仕という下降のうちに、愛の下降のうちに起きるのです。愛は神の本質です。それゆえ、神を認め、神を見ることを可能にする、真に清める力は愛の下降のうちに現れるのです」(『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret, Milano 2007, p. 120〔里野泰昭訳、春秋社、134頁〕)。
 フィリピの信徒への手紙の賛歌はここで、わたしたちの祈りのために二つの重要な示唆を与えてくれます。第一は、父の右の座に座るイエス・キリストに向けた「主」という呼びかけです。わたしたちの人生を教え導こうとする多くの「支配者」がいる中で、イエス・キリストこそがわたしたちの人生の唯一の主です。ですから、価値の序列がなければなりません。この序列の中で、第一の座を占めるのは神です。それは、聖パウロとともに次のようにいうためです。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3・8)。パウロは、復活した主との出会いにより、主こそが自分の人生を費やすに値する唯一の宝であると悟ったのです。
 第二の示唆は、ひざまずくこと、すなわち、天上のもの、地上のものが「すべて膝をかがめる」ことです。この表現は、すべての被造物が神を礼拝しなければならないと命じる、預言者イザヤのことばを思い起こさせます(イザヤ45・23参照)。至聖なる秘跡の前でひざまずいて祈ること、あるいは、祈るときにひざまずくことは、身体も用いて神を礼拝する態度を表します。それゆえ、習慣的に性急なしかたによってではなく、深い自覚をもってこの動作を行うことが大切です。主の前に膝をかがめるとき、わたしたちは、主への信仰を告白し、このかたこそわたしたちの人生の唯一の主であることを認めるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。祈りの中で、十字架につけられたかたに目を注ごうではありませんか。もっと多くの時間を用いて聖体を礼拝しようではありませんか。それは、神の愛を生きるようになるためです。神は、わたしたちをご自身へと上げるために、へりくだりのうちに降って来られたからです。わたしたちはこの講話の初めに、聖パウロが、殉教と自らの血の注ぎという切迫した危険を前にして、どうして喜ぶことができたのかと問いました。このようなことが可能だったのは、使徒パウロが、キリストの死の姿にあやかるに至るまで、キリストから決して目を離すことがなかったからにほかなりません。彼は「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3・11)。十字架上のキリストを前にした聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)と同じように、わたしたちも次のようにいうことができますように。この上なく高く、栄光に満ちておられる神、わたしの心の闇を照らして、正しい信仰、確かな希望、そして、完全な愛を、さらに、理解と認識をお与えください。このようにして、主よ、あなたの聖にして真実なおきてをわたしが実行できますように。アーメン(「十字架上の主のみ前でささげられた祈り」:FF 276〔庄司篤訳、『アシジの聖フランシスコの小品集』聖母の騎士社、1988年、207-208頁〕参照)。

略号
FF  Fonti Francescane. Scritti e biografie di san Francesco d’Assisi, Cronache e altre testimonianze del primo secolo francescano, Scritti e biografie di santa Chiara d’Assisi, cura di Movimento Francescano Assisi, 3. ed. Padova 1983.

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