教皇ベネディクト十六世の2012年7月8日の「お告げの祈り」のことば 預言者は故郷で受け入れられない

教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月8日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月8日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 美しい歌声をご披露くださったドレスデンの若者たちに感謝します。
 今日の主日の福音の記事について簡単に考察したいと思います。これは、そこから有名な格言「預言者は故郷で受け入れられない(Nemo propheta in patria)」が作られたテキストです。預言者は、彼が大人になるのを見ていた自分の民の間では受け入れられません(マルコ6・4参照)。実際、約三十歳のイエスは、ナザレを出て、しばらくの間、別なところを巡って説教し、いやしのわざを行ってから、再び故郷に戻り、会堂で教え始めます。イエスの同郷の人々は彼の知恵に「驚」きます。しかし、イエスが「マリアの息子」で、自分たちと一緒に住んでいた「大工」であることを認めると、信仰をもってイエスを受け入れる代わりに、彼につまずきます(マルコ6・2-3参照)。これは無理もないことです。人間的な次元での親しみは、この親しみを超えて、神的な次元に心を開くのを困難にするからです。この大工が神の子であるなどと信じることは、彼らにとって困難です。イエスも、まさに自分たちの故郷で嘲られたイスラエルの預言者たちの経験を例に挙げて、自分もこの預言者たちと同じだといいます。この霊的な頑なさのために、イエスはナザレで「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(マルコ6・5)。実際、キリストの奇跡は、力の顕示ではなく、神の愛のしるしです。神の愛は人間の信仰が見いだされるところで働きます。神の愛と人間の信仰は互いに関わり合います。オリゲネス(Origenes 185頃-253/254年)はいいます。「物体は、磁石と鉄のように、互いに引きつけ合う。それと同じように・・・・信仰は神の力を引き寄せるのである」(『マタイ福音書注解』:Commentarii in Matthaeum 10, 19)。
 それゆえイエスは、ナザレで遭遇したよそよそしい扱いを、いわば、仕方なく感じられたように思われます。しかし、わたしたちは記事の終わりに、反対のことが述べられているのを見いだします。福音書記者はいいます。イエスは「人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6・6)。つまずいた故郷の人々の驚きに、イエスの驚きが対応します。ある意味で、イエスもつまずかれるのです。イエスは、預言者が故郷で受け入れられないことを知っておられます。とはいえ、故郷の人々の心の頑なさは、イエスにとって不可解で、理解しづらいものです。真理の光を認めないなどということがどうして可能なのでしょうか。人は、わたしたちの人間性を共有しようと望まれる神のいつくしみになぜ心を開かないのでしょうか。実際、ナザレのイエスという人は、神を示すかたです。このかたのうちに神が完全なしかたで住んでおられるからです。わたしたちも、常に他のしるしを、他の奇跡を求めます。そして、まことのしるしは、肉となった神、イエスであることを受け入れません。イエスこそ、全宇宙の中で最大の奇跡です。神の愛のすべてが、この人間の心のうちに、この人間のみ顔のうちに隠れています。
 このことを本当に悟ったかたは、おとめマリアです。マリアは、信じたがゆえに幸いなかただからです(ルカ1・45参照)。マリアは御子につまずきません。イエスに対するマリアの驚きは、信仰と愛と喜びに満たされています。マリアは、イエスが人間でありながら神であることを認めるからです。それゆえ、わたしたちの信仰の母であるマリアから、キリストの人性のうちに神の完全な啓示を見いだすことを学ぼうではありませんか。

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