教皇ベネディクト十六世の2012年7月29日の「お告げの祈り」のことば パンの増加の奇跡

教皇ベネディクト十六世は、年間第17主日の7月29日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第17主日の7月29日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 シリアにおけるますます悪化する悲惨な暴力的事態を懸念をもって見守り続けています。この事態は、悲しむべきことに、市民の間にも死者とけが人を生じ、膨大な数の国内避難民と近隣国への難民を生み出しています。そのためわたしは、必要な人道支援と連帯に基づく援助が保障されることを願います。わたしはあらためて、苦しみのうちにあるシリア国民に寄り添い、祈りの中で彼らを思い起こすとともに、緊急の呼びかけを行います。あらゆる暴力と流血をやめてください。わたしは、特に大きな責任を担う人々に、心の知恵が与えられることを神に願います。国際社会も、紛争の適切な政治的解決を目指す、対話と和解による平和の追求のために努力を惜しまないでください。わたしの思いは愛するイラク国民にも向かいます。イラク国民は、数日前、多くの深刻な攻撃の被害を受け、この攻撃は多くの死者とけが人を生じたからです。この偉大な国イラクが安定と和解と平和の道を見いだすことができますように」。
シリアでは北部の都市アレッポと首都ダマスカス周辺で政府軍と反体制派の間で激しい戦闘が続いており、7月28日、アレッポでは30人以上が死亡、全土で少なくとも190人が死亡しています。7月22日、非政府組織(NGO)のシリア人権監視団は、2011年3月の反体制派の蜂起以降、暴力により19,000人以上が死亡したと発表しています。
イラクでは7月23日(月)早朝、首都バグダッドなど18都市で爆破テロや襲撃事件が同時に発生し、報道によると少なくとも108人が死亡しています。

続いて教皇は2013年のWYD(ワールドユースデー)リオデジャネイロ大会に向けて次のようにイタリア語で述べました。
「1年後のちょうど今の時期に、ブラジルのリオデジャネイロで第28回WYD(ワールドユースデー)が開催されます。WYD(ワールドユースデー)は多くの若者が、教会に帰属し信仰を生きることの喜びとすばらしさを味わう貴重な機会です。この行事を希望をもって待ち望みながら、開催者、特にリオデジャネイロ大司教区を励まし、感謝したいと思います。彼らは、この重要な教会行事に世界中から参加する若者を迎え入れるために熱心に準備しておられるからです」。
WYD(ワールドユースデー)リオデジャネイロ大会は2013年7月23日から28日に開催されます。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日からヨハネによる福音書6章の朗読が開始されます。ヨハネによる福音書6章はパンの増加の情景から始まります。後にイエスは、カファルナウムの会堂でこの出来事を解説し、ご自身がいのちを与える「パン」であることを示します。イエスが行ったこのわざは、最後の晩餐でのわざと並行します。福音書はいいます。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(ヨハネ6・11)。分け与えられる「パン」というテーマ、そして、感謝する(11節、ギリシア語「エウカリステーサス」)ということばは、聖体を思い起こさせます。聖体は、世の救いのためのキリストのいけにえです。
 福音書記者ヨハネは、過越祭が近づいていたと述べます(4節参照)。わたしたちのまなざしは、愛のたまものである十字架と、このたまものを永続化する聖体に向かいます。キリストは人類のためにご自身をいのちのパンとするのです。聖アウグスティヌス(354-430年)は解説していいます。「天のパンは、キリスト以外の何者であろうか。しかし、人が天使のパンを食べることができるために、天使たちの主であるかたが人となられる。このことが起こらなければ、わたしたちは主のからだを受けることもなかったであろう。われわれは、主ご自身のからだを受けなければ、祭壇のパンを食べることもできないであろう」(『説教』:Sermones 130, 2)。聖体は、人間と神の偉大な永遠の出会いです。聖体のうちで、主はわたしたちの食物となり、ご自身を与えることにより、わたしたちをご自身へと造り変えます。
 パンの増加の情景の中で、ある少年の存在も指摘されます。この少年は、多くの群衆を満腹させることの困難を前にして、パン五つと魚二匹という、自分がもっていたわずかのものを皆に差し出します(ヨハネ6・9参照)。奇跡は無から生じるのではなく、まず、素朴な少年がもっていたもののささやかな分かち合いから生まれます。イエスはわたしたちに、わたしたちがもっていないものを求めません。むしろイエスは、一人ひとりが自分のもっているわずかなものを与えるなら、そのたびに奇跡を起こすことができることをわたしたちに悟らせます。神には、わたしたちの小さな愛のわざを増加させ、わたしたちをご自分のたまものにあずからせることが可能です。群衆は不思議なわざに感動しました。群衆は、イエスのうちに、支配者にふさわしい新しいモーセを見いだします。そして、新しいマナのうちに確かな未来を見いだします。しかし彼らは、自分たちが食べた物質的な要素にとどまります。すると主は「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6・15)。イエスは主権をふるう地上の王ではなく、仕える王です。彼は人間に身をかがめ、物質的な飢餓だけでなく、何よりももっと深い渇きを満たします。すなわち、目標と意味と真理への渇きです。神への渇きです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主に願い求めようではありませんか。パンだけでなく、真理、愛、キリスト、キリストのからだによって養われることの大切さを再発見させてください。忠実に、深い自覚をもって感謝の祭儀にあずかり、ますますキリストと深く一致することの大切さを再発見させてください。「実際、聖体の食物がわたしたちに変わるのではなく、わたしたちが神秘的なしかたで聖体の食物によって変えられるのです。キリストは、わたしたちをご自身と結びつけながら、わたしたちを養います。『キリストはわたしたちをご自身に引き寄せます』」(使徒的勧告『愛の秘跡』70)。同時に、祈りたいと思います。だれも品位のある生活のために必要なパンを欠くことがありませんように。そして、暴力の武器によってではなく、分かち合いと愛によって、格差がなくなりますように。
 おとめマリアに信頼しながら、自分と自分の愛する人々の上にマリアの母としての執り成しを祈り求めたいと思います。

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