教皇ベネディクト十六世の321回目の一般謁見演説 聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリの祈りに関する教え

8月1日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の321回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念 […]


8月1日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の321回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念される、司教、教会博士、聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ(Alfonso Maria de’Liguori 1696-1787年)の祈りに関する教えについて考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリの記念日です。聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリは、司教、教会博士、レデンプトール会(至聖贖罪主会)の創立者、倫理神学者と聴罪司祭の守護聖人です。聖アルフォンソは、その単純で率直な文体と、ゆるしの秘跡に関する教えのゆえに、18世紀でもっとも人気のある聖人の一人です。ジャンセニストの影響から生じた、徹底した厳格主義の時代にあって、聖アルフォンソは聴罪司祭にこう勧めました。ゆるしの秘跡を授けるにあたり、父である神が喜んで迎え入れてくださることを示しなさい。父である神は、その限りないあわれみのゆえに、悔い改める子らをうむことなく受け入れてくださるからです。今日の聖アルフォンソの記念日は、彼の祈りに関する教えを考察する機会を与えてくれます。この教えはきわめて貴重で、霊感に満ちたものです。聖アルフォンソは、1759年に書いた論考『祈りという偉大な手段』(Del gran mezzo della Preghiera)を、自らの全著作の中でもっとも有益なものと考えていました。実際彼は、祈りは「救いと、救いを得るために必要なすべての恵みを得るために必要で確実な手段」(Introduzione)だと述べています。このことばはアルフォンソの祈りについての理解を要約しています。
 まず、祈りは手段だということにより、アルフォンソはわたしたちが到達すべき目的を思い起こさせます。神が愛のゆえに創造のわざを行ったのは、わたしたちに完全ないのちを与えることを可能にするためです。しかし、罪のために、この完全ないのちという目的はいわば遠ざかりました。わたしたち皆が知っているとおりです。そして、神の恵みだけがこの目的に近づくことを可能にします。聖アルフォンソは、この基本的な事実を説明し、人間がどれほど現実に「迷子になる」恐れがあるかをじかに理解させるために、きわめて有名で分かりやすい格言を作りました。それは次のものです。「祈る者は救われる。祈らない者は地獄に落ちる」。この格言を説明するために、彼は続けていいます。「じつに、祈ることなしに救われるのは、至難のわざであるばかりか、不可能です。・・・・しかし、祈ることにより、救いは確実でいともたやすいことがらとなります」(II, Conclusione)。聖アルフォンソはさらにこう述べます。「祈らなければ、わたしたちは弁解することができません。祈る恵みはだれにでも与えられているからです。・・・・もし救われないなら、すべてはわたしたち自身の罪です。わたしたちが祈らなかったからです」(ibid.)。聖アルフォンソが、祈りは必要な手段だというとき、彼がいおうとしたのは次のことです。生涯のあらゆる状況で、とくに試練や困難のときに、祈らずにすますことはできません。わたしたちは主の門を信頼をもってたたかなければなりません。万事において、主はその子らを、すなわちわたしたちを心にかけてくださると自覚しながら。だからわたしたちは、恐れることなく主に立ち帰り、必要なものが与えられることを確信しつつ、信頼をこめて自分の望みを主に打ち明けるよう招かれています。
 親愛なる友人の皆様。中心的な問いかけはこれです。わたしの生涯で本当に必要なのは何でしょうか。聖アルフォンソとともに、わたしはこう答えます。「救いと、そのために必要なすべての恵みです」(ibid.)。いうまでもなく、聖アルフォンソがいいたいのは、身体の健康だけではなく、何よりもまず、イエスが与えてくださる魂の救いです。他の何にもまして、わたしたちは、わたしたちに解放をもたらしてくださるイエスがともにいてくださることを必要としています。イエスの現存こそが、わたしたちの存在を真に完全な意味で人間らしいものとし、それゆえ喜びに満ちたものとしてくれるからです。わたしたちは祈りを通じて初めてイエスとその恵みを受け入れることができます。イエスは、どんな状況においてもわたしたちを照らして、わたしたちが本当の善を見分けることを可能にします。わたしたちを強めて、わたしたちが意志を働かすことを可能にします。すなわち、認識した善を実行することを可能にするのです。わたしたちは、善を認識しても、実行できないことがしばしばあります。わたしたちは祈ることを通じて善を実現できるようになるのです。主の弟子は、自分がつねに誘惑にさらされていることを知っています。しかし彼は、誘惑に打ち勝つために、祈りの中で神の助けを願い続けます。
 聖アルフォンソは、きわめて興味深いことに、聖フィリッポ・ネリ(Filippo Neri 1515-1595年)を例に挙げます。聖フィリッポ・ネリは「朝、目覚めた最初の瞬間から神にこう語りかけました。『主よ、今日もフィリッポの上にみ手を置いてください。み手を置いてくださらなければ、フィリッポは御身を裏切るからです』」(III, 3)。フィリッポ・ネリはなんと現実的な人でしょうか。彼は神が自分にみ手を置いてくださるよう願います。わたしたちも、自分の弱さを自覚しながら、謙遜に、豊かな御あわれみにより頼みながら、神の助けを願わなければなりません。別のところで聖アルフォンソはいいます。「わたしたちは万事において貧しい者です。けれども、祈り求めるなら、わたしたちはもはや貧しい者ではありません。わたしたちが貧しくても、神は豊かなかただからです」(II, 4)。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)の後に従いながら、聖アルフォンソはすべてのキリスト信者をこう招きます。祈りによって、自分がもっておらず、なおかつ善を行うために必要な力を神から与えていただくことを恐れてはなりません。主は謙遜に祈る者に助けを与えるのを拒まないことを確信すべきです(III, 3参照)。親愛なる友人の皆様。聖アルフォンソは、神との関係がわたしたちの生活に不可欠であることを思い起こさせてくれます。神との関係がなければ、根本的な関係を欠くことになります。ところで、神との関係は、神と語ること、日々、個人的に祈ること、秘跡にあずかることによって築かれます。こうして神との関係がわたしたちのうちで深まることが可能になります。そして、神との関係はわたしたちのうちでますます神がともにいてくださることを可能にします。このことが、わたしたちの歩みを導き、照らし、困難と危険のただ中でも、安心と落ち着きをもたらします。ご清聴ありがとうございます。

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