教皇ベネディクト十六世の322回目の一般謁見演説 グスマンの聖ドミニクスの祈りの生活

8月8日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の322回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念 […]


8月8日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の322回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念される、司祭、説教者兄弟会(ドミニコ会)の創立者の、グスマンの聖ドミニクス(Dominicus 1170頃-1221年)の祈りの生活について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日、教会は、司祭、説教者兄弟会(ドミニコ会)の創立者である、グスマンの聖ドミニクスを記念します。先の講話*の中で、わたしはすでにこの著名な人物と、彼が当時の教会の刷新に対してなした根本的な貢献についてお示ししました。今日わたしは聖ドミニクスの霊性の本質的な側面を強調したいと思います。すなわち、彼の祈りの生活です。聖ドミニクスは祈りの人でした。神に心を捕らえられた彼は、ただ、人々の霊魂、とくに当時の異端の網にかかった人々の霊魂の救いのみを望みました。聖ドミニクスはキリストに倣う人として、三つの福音的勧告(清貧・従順・貞潔)を徹底的に実践し、みことばの宣教と貧しい生活のあかしを結びつけました。彼は聖霊の導きのもとに、キリスト教的完徳の道を進みました。あらゆるときに、祈りは、彼の使徒的活動を刷新し、ますます実り豊かなものとする力となりました。
 聖ドミニクスの後継者としてドミニコ会を導いた福者ザクセンのヨルダヌス(Jordanus de Saxonia; Jordan von Sachsen 1237年没)は、こう述べます。「昼間、彼よりも人付き合いのよい人はいなかった。・・・・夜もまた、彼ほど熱心に目覚めて祈る人はいなかった。彼は昼を隣人にささげ、夜を神にささげたのだ」(P. Filippini, San Domenico visto dai suoi contemporanei, Bologna 1982, p. 133)。わたしたちは聖ドミニクスのうちに神の神秘の観想と使徒的活動の調和的な融合の模範を見いだすことができます。聖ドミニクスのそば近くにいた人の証言によれば、「彼はつねに神とともに、神について語りました」。この所見は、聖ドミニクスが主と深く一致していたこととともに、彼が他の人をこのような神との交わりへと導こうと努めたことを示します。聖ドミニクスは祈りに関する著作を残しませんでしたが、ドミニコ会の伝統は、『聖ドミニクスの祈りの九つの方法』という標題の書物のうちに、彼の生き生きとした体験をまとめ、伝えています。この書物は、あるドミニコ会士によって1260年から1288年の間に書かれました。それは、聖ドミニクスの内的生活の一側面を理解する助けとなるとともに、どれほど困難でも、いかに祈ればよいかをわたしたちが学ぶ上でのなにがしかの助けとなります。
 それゆえ、聖ドミニクスによれば、祈りの九つの方法があります。これらの方法の一つひとつ(聖ドミニクスはそれをつねに十字架につけられたイエスのみ前で実践しました)は、身体と精神の態度を表します。この二つの態度は、密接に補い合いながら、精神の集中と熱意を深めます。最初の七つの方法は、神との一致、三位一体の神との一致を目指す歩みの段階として、上昇の道をたどります。聖ドミニクスは、へりくだりを表すために、立って頭を垂れて祈ります。自分の罪のゆるしを願うために、地にひれ伏します。主の苦難にあずかるために、ひざまずいて悔い改めます。最高の愛を観想するために、手を広げ、十字架につけられたかたに目を注ぎます。天に目を向け、自分が神の世界に引き寄せられるのを感じながら。それゆえ、祈りの姿勢には三つあります。立つこと、ひざまずくこと、地にひれ伏すことです。しかし、いずれの場合にも、十字架につけられた主につねに目を注ぎます。しかし、わたしが簡単に考察したい最後の二つの方法は、聖ドミニクスが通常実践していた二つの信心業に対応します。第一は個人としての黙想です。黙想において、祈りはますます内的で、熱意に満ち、力を与えるものとなります。時課の典礼を唱え終わった後や、ミサをささげた後、聖ドミニクスは時間の制限を設けることなしに、神との対話を続けました。彼は落ち着いて座り、耳を傾ける態度をもって自分自身に精神を集中させ、書物を読んだり、十字架につけられた主に目を注ぎました。彼はこの神との関係の時を深く過ごしたので、場合により、外からも、彼が喜んだり涙を流したりする姿を見ることができました。それゆえ、黙想によって、彼は信仰の内容を内面化しました。目撃者が語るところによれば、彼はときには一種の脱魂に陥り、顔を輝かせました。しかし、天上から来る力に強められた彼は、その後すぐに、へりくだりのうちに日々の活動を再開しました。また、修道院から修道院へと旅する間にも彼は祈りました。彼は同行者とともに、朝の祈り、昼の祈り、晩の祈りを唱え、谷や丘を通るときは被造物の美しさを観想しました。そのようなときに、彼の心から神への賛美と感謝の歌が湧き起こりました。多くのたまもの、とくに、キリストがもたらしたあがないという、最大の奇跡のゆえにです。
 親愛なる友人の皆様。聖ドミニクスは次のことを思い起こさせてくれます。すべてのキリスト信者が、家庭の中で、仕事や社会的活動を行うとき、また休暇の際にも、信仰のあかしの出発点としなければならないのは、祈りです。神に個人的に触れることです。この神との実際の関係だけが、すべての出来事、とくに苦しみの時を深く生き抜く力をわたしたちに与えるのです。聖ドミニクスは、わたしたちが祈るときの外的な姿勢の重要性をも思い起こさせてくれます。ひざまずくこと、主のみ前に立つこと、十字架につけられた主に目を注ぐこと、しばしの間、沈黙のうちに精神を集中させることは、二義的なことではありません。むしろそれは、わたしたちが全人格をもって内的に神との関係に入る助けとなります。わたしは、わたしたちの霊的生活にとって、日々、静かな心で祈る時間を見いだすのが必要なことをあらためて強調したいと思います。わたしたちはとくに休暇の間、このような祈りの時をもたなければなりません。神と語るために少しの時間をとらなければなりません。それは、わたしたちの周りにいる人を神の現存の輝く光に導き入れる助けともなります。神こそが、わたしたちが必要とする平和と愛をもたらすかたです。ご清聴ありがとうございます。

訳注
* 2010年2月3日の一般謁見(教皇ベネディクト十六世『中世の神学者』カトリック中央協議会、2011年、250-257頁)参照。

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