教皇ベネディクト十六世の2012年8月12日の「お告げの祈り」のことば 永遠のいのちを与えるパンであるイエス

教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月12日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月12日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 このときにあたり、わたしの思いはアジア、とくに激しい降雨に見舞われたフィリピンと中華人民共和国と、強い地震の被害を受けたイラン北西部に向かいます。これらの災害により多くの死者とけが人、何百万人の避難民と甚大な被害が生じています。皆様にお願いします。いのちを失ったかたがたと、この多くの被害をもたらした災害によって苦しむ人々のためにわたしとともに祈ってください。これらの兄弟がわたしたちの連帯と支援を欠くことがありませんように」。
フィリピンでは7月末からの大雨による河川の増水と土砂崩れのために、国家災害調整局によれば8月12日までに85名が死亡しています。
中国では8日(水)未明に上海市の南約200キロの浙江省象山県に台風11号が上陸し、浙江省で約155万人、上海市で約25万人が避難しました。中国国営メディアは11日(土)、少なくとも10名が死亡したと発表しています。
イラン北西部では現地時間11日午後4時53分頃、東アゼルバイジャン州の州都タブリーズ北東約60キロの地点でマグニチュード6.4の地震が発生、その約11分後にタブリーズの北東約50キロでマグニチュード6.3の地震が発生しました。現地当局によるとこの地震で12日夜現在、少なくとも227人が死亡しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 最近の主日の中でわたしたちとともに歩んでいる、ヨハネによる福音書6章の朗読は、次のことを考察するようわたしたちを導きました。一つはパンの増加です。主はこのパンにより五千人の群衆を満腹させました。そして、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働くようにという、満腹させられた人々に対するイエスの招きです。イエスは、ご自分がなさった奇跡の深い意味を悟れるように人々を助けようと望みます。イエスは、奇跡によって彼らの肉体的な飢えを満たすことによって、次の知らせを受け入れることができるよう人々を整えます。すなわち、イエスは、決定的なしかたで飢えを満たしてくれる、天から降って来たパンです(ヨハネ6・41参照)。ユダヤの民も、長い荒れ野の旅の間に、マナという、天から降って来たパンを味わいました。マナは、約束の地に到達するまでユダヤの民を支えました。今やイエスは、ご自身が天から降って来たパンだといいます。このパンは、一時的に、あるいは旅の間にいのちを支えるだけではなく、永遠にいのちを保つことができます。イエスは永遠のいのちを与える食物です。イエスは御父のふところにいる神の独り子だからです。この独り子は、人間に完全ないのちを与えるため、人間を神のいのちへと導くために来られたからです。
 ユダヤ思想において、イスラエル人を養った天からのまことのパンが、神のことばである律法であることは明らかでした。イスラエルの民ははっきりとこう認識していました。トーラー(律法)はモーセが与えた根本的で永続的なたまものです。そして、イスラエルの民を他の民から区別する基本的な要素は、神のみ心を知ること、それゆえ、正しく生きる道を知ることのうちにあります。今やイエスは、ご自身が天からのパンであることを示すことによって、ご自分が人となった神のことばであり、受肉したみことばであることをあかしします。この受肉したみことばを通して、人は神のみ心を自分の食物とし(ヨハネ4・34参照)、それを生活の方向づけまた支えとすることができるのです。
 ですから、今日の福音書の記事のユダヤ人たちが行ったように、イエスの神性を疑うことは、神のわざに逆らうことを意味します。実際、ユダヤ人たちはいいます。これはヨセフの息子ではないか。われわれはその父も母も知っている(ヨハネ6・42参照)。彼らはイエスの地上の出自を超えることがありません。そのためにイエスを肉となった神のことばとして受け入れることを拒みます。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)はヨハネによる福音書の注解の中で、次のように解説します。「ユダヤ人たちは天からのパンからはるかに遠ざかっていたし、それに対する飢えを知っていなかった。彼らの心の深みは不活発であった・・・・。実際、このパンは内なる人の飢えを求めている」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 26,1〔金子晴勇訳、『アウグスティヌス著作集24 ヨハネによる福音書講解説教(2)』教文館、1993年、40頁〕)。わたしたちも自らに問いかけなければなりません。わたしたちは本当にこの飢えを感じているでしょうか。神のことばへの飢えを感じているでしょうか。人生のまことの意味を知ることへの飢えを感じているでしょうか。父である神によって引き寄せられ、このかたに耳を傾け、このかたから学ばせていただく者だけが、イエスを信じ、イエスと出会い、イエスによって養っていただくことができます。そこから、まことのいのちを見いだすことができます。いのちと正義と真理と愛の道を見いだすことができます。聖アウグスティヌスは続けていいます。「主は・・・・ご自身が天から降って来たパンであるといい、わたしたちが彼を信じるように励ましたもう。というのは、彼を信じるとは、すなわち生けるパンを食べることであるから。信じる者は食べている。見えないしかたで再生されているのであるから、見えないしかたでもてなされているのである。彼は内において幼子であり、内において新しい人である。新しくされているところで彼は満ち足りている」(同:ibid.〔前掲金子晴勇訳、41頁〕)。
 至聖なるマリアに祈り願いたいと思います。イエスと出会えるようにわたしたちを導いてください。わたしたちのイエスとの友愛がますます強められますように。マリアに願いたいと思います。天から降って来た生きたパンである御子との完全な愛の交わりへとわたしたちを導き入れてください。御子がわたしたちを存在の内なるところで新たにしてくださいますように。

PAGE TOP