教皇ベネディクト十六世の323回目の一般謁見演説 天の元后聖マリア

8月22日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の中庭で、教皇ベネディクト十六世の323回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念される「天の元后聖マリア」について考 […]


8月22日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の中庭で、教皇ベネディクト十六世の323回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日記念される「天の元后聖マリア」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は「元后」という称号で呼ばれる聖なるおとめマリアを記念します。この祝日は、古くからある信心とはいえ、最近になって定められたものです。実際、この祝日は1954年のマリア年の終わりに、尊者ピオ十二世(在位1939-1958年)によって制定されました。祝日の日付は5月31日とされました(回勅『元后マリアの祝日にあたって(1954年10月11日)』:Ad caeli Reginam, AAS 46 [1954], 625-640)。教皇は祝日を定めるにあたり、こう述べました。マリアは、その魂が高く上げられたこと、卓越したたまものを受けたことのゆえに、他のあらゆる被造物を超えた元后です。マリアはその愛と気遣いのあらゆる宝を人類に与え続けます(「元后マリアをたたえる説教(1954年11月1日)」参照)。現在では、公会議後の典礼暦年の改訂により、この祝日は聖母の被昇天の8日後に位置づけられます。それは、マリアが元后であることと、御子と並んで霊魂も身体も栄光のうちに上げられたことの密接な関係を強調するためです。第二バチカン公会議の『教会憲章』は次のようにいいます。「マリアは肉身と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められた。それは・・・・自分の子に、マリアがよく似たものとなるためであった」(同59)。
 今日の祝日の根拠はこれです。マリアは、地上の歩みにおいても天の栄光においても、御子と独自のしかたで結ばれているがゆえに、元后です。シリアの偉大な聖人、シリアのエフラエム(Ephraem Syrus 306頃- 373年)は、マリアが元后であることについてこう述べます。それはマリアが母であることに由来します。マリアは王の中の王である主の母です(イザヤ9・1-6参照)。そしてマリアはわたしたちに、わたしたちのいのち、救い、希望としてイエスを示します。神のしもべパウロ六世(在位1963-1978年)は使徒的勧告『マリアリス・クルトゥス』の中でこう述べます。「おとめマリアにおいては、一切がキリストと関連を有しており、またキリストに依存しています。父である神は永遠の昔から彼女をもっとも聖なる母として選び、ほかの被造物には与えられなかった聖霊のたまものをもって彼女を満たされたことは、ひとえにキリストのためでありました」(同25)。
 しかし、ここでわたしたちは自問します。マリアが元后であるとは、いかなることでしょうか。それはさまざまな称号の一つにすぎないのでしょうか。他のものとともに置かれる王冠、飾りにすぎないのでしょうか。それはどのような意味なのでしょうか。元后とはいかなることでしょうか。すでに指摘したとおり、元后であることは、マリアが御子と結ばれていること、マリアが天におられること、すなわち神との交わりのうちにあることの結果です。マリアは、世に対する神の責務、世に対する神の愛にあずかります。普通の王または元后の概念は、王または元后は権力と富をもった人だということです。しかし、これはイエスとマリアの王・元后としての姿には当てはまりません。主について考えてみたいと思います。キリストが王であることは、へりくだりと奉仕と愛と結び合わされています。王であるとは、何よりもまず、仕えること、助けること、愛することです。ピラトが「ユダヤ人の王」(マルコ15・26参照)という罪状書きを書いたことによって、イエスが十字架上で王となったことを思い起こしたいと思います。このとき、十字架上で、イエスが王であることが示されます。イエスはどのようにして王となるのでしょうか。わたしたちとともに、わたしたちのために苦しみ、この上なく愛することによってです。このようにしてイエスは治め、真理と愛と正義を作り出します。また別のときのことを考えてみたいと思います。最後の晩餐のとき、イエスはかがみこんで弟子たちの足を洗います。それゆえ、イエスが王であることは、地上の権力者に見られる王権とは無関係です。イエスはご自分の奉仕者に仕える王です。イエスはこのことを生涯全体で示しました。同じことがマリアにもいえます。マリアは、神と人類に仕えることによって元后です。マリアは愛の元后です。このかたは、人間を救う計画にあずかるために、自らを神にささげるからです。マリアは天使にこたえていいます。わたしは主のはしためです(ルカ1・38参照)。またマリアは「マリアの賛歌」の中で歌います。神は、身分の低い、この主のはしためにも目をとめてくださいました(ルカ1・48参照)。マリアはわたしたちを助けてくださいます。マリアは、わたしたちを愛し、わたしたちが困っているとき、いつも助けてくださるがゆえに元后なのです。マリアはわたしたちの姉妹であり、へりくだったはしためです。
 そこからわたしたちは中心に達しました。マリアはどのようなしかたで奉仕と愛の元后としてのわざをなさるのでしょうか。子であるわたしたちを見守ることによってです。この子らは、マリアに向かって祈ります。マリアに感謝し、その母としてのご保護と天からの助けを願います――道に迷い、悲しく辛い人生のさまざまな出来事に襲われて、苦悩と悲しみに打ちひしがれながら。平安のときも、生涯の暗闇の中でも、わたしたちはマリアに向かい、その絶えざる執り成しに自らをゆだねます。この世の旅路を歩むために必要なあらゆる恵みとあわれみを御子が与えてくださるように。わたしたちは、この世を治め、宇宙の定めを握っておられるかたに、おとめマリアを通して、信頼をもって向かいます。何世紀にもわたって、マリアは天の元后と呼ばれてきました。ロザリオの後、ロレトの連願では、わたしたちは8回、マリアに呼びかけます。天使の元后、太祖の元后、預言者の元后、使徒の元后、殉教者の元后、証聖者の元后、おとめの元后、すべての聖人と家族の元后と。この古来の祈願や、日々、たとえば『元后あわれみの母』(Salve Regina)を唱えることは、次のことを理解する助けとなります。すなわち、聖なるおとめは、御子イエスと並んで天の栄光のうちにおられるわたしたちの母として、わたしたちの日々の出来事の中で、いつもわたしたちとともにいてくださいます。
 それゆえ、元后という称号は、信頼と喜びと愛の称号です。ですからわたしたちは知っています。世の行く末に対してマリアがもっておられるのは、いつくしみです。マリアはわたしたちを愛し、困難のときにわたしたちを助けてくださいます。
 親愛なる友人の皆様。聖母への信心は霊的生活の中で大切な要素です。わたしたちが祈るとき、いつも信頼をもってマリアに向かうことができますように。マリアは御子のそばで、いつもわたしたちのために執り成してくださいます。マリアに目を注ぎながら、学ぼうではありませんか。信じ、神の愛の計画に完全にこたえ、心からイエスを迎え入れることを。マリアによって生きることを学ぼうではありませんか。マリアは神の近くにおられる天の元后でありながら、わたしたち一人ひとりの近くにおられる母でもあります。このかたはわたしたちを愛し、わたしたちの声に耳を傾けてくださるのです。ご清聴ありがとうございます。 

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