教皇ベネディクト十六世の324回目の一般謁見演説 預言者にして殉教者、洗礼者聖ヨハネ

8月29日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の324回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日「 […]


8月29日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の324回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日「洗礼者聖ヨハネの殉教」が記念されるのにちなんで、「預言者にして殉教者、洗礼者聖ヨハネ」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 8月の最後の水曜日である今日、イエスの先行者である洗礼者聖ヨハネの殉教が記念されます。ローマ典礼暦の中で、洗礼者聖ヨハネは、その誕生(6月24日)と殉教による死がともに祝われる唯一の聖人です。今日の記念日はサマリアのセバステの地下聖堂の献堂に遡ります。この地下聖堂では、すでに4世紀半ばに洗礼者聖ヨハネの首が崇敬されていました。やがてこの崇敬は、「洗礼者聖ヨハネの斬首」という呼び名で、エルサレム、東方教会、そしてローマへと広まりました。『ローマ殉教録』は、ローマのカンポ・マルツィオ区のサン・シルヴェストロ教会に特別な機会に移転された、聖ヨハネの貴重な聖遺物の再発見のことを記載しています。
 この小さな歴史的記述は、洗礼者聖ヨハネがどれほど古くから深く崇敬されてきたかを理解させてくれます。福音書の中で、イエスとの関係における聖ヨハネの役割は際立っています。とくに聖ルカは、聖ヨハネの誕生、荒れ野での生活、そして説教について語り、聖マルコは、今日の福音の中で(マルコ6・17-29参照)、彼の悲惨な死について述べます。洗礼者ヨハネはその説教を、ティベリウス帝(在位14-37年)の治下の紀元後27-28年に開始します。聖ヨハネは、彼のことばを聞こうと集まった群衆に対してはっきりとこう呼びかけました。主を受け入れるために道を整えよ。徹底的な回心によって、自分の生き方の曲がった道をまっすぐにせよ(ルカ3・4参照)。しかし、洗礼者ヨハネは悔い改めと回心を説教しただけではありせん。彼はイエスを、世の罪を取り除くために来られた「神の小羊」(ヨハネ1・29)として認め、深いへりくだりをもって、イエスがまことに神から遣わされた者であることを示します。そして、キリストが栄え、人々がキリストに耳を傾け、従うことができるために、自分を脇に置きます。最後のわざとして、洗礼者ヨハネは、血をもって神のおきてへの忠実をあかしします。譲ることもひるむこともなく、自分の使命を極みまで果たしたのです。8世紀の修道士の聖ベーダ(Beda Venerabilis 673/674-735年)は、説教の中で述べます。「聖ヨハネは、イエス・キリストを否むよう命じられたのでなく、ただ真理について沈黙するよう命じられたにすぎないが、(キリスト)のためにいのちをささげた」(『説教23』:Homiliae evangelii 23, CCL 122, 354)。聖ヨハネは、真理であるキリストのために、真理について沈黙せずに、死んだのです。彼は真理への愛のゆえに、神の道からそれた者に対して、妥協することも恐れることもなく、力強いことばを用いました。
 激しい情熱をもって権力者に抵抗した、この偉大な人物に目を向けたいと思います。わたしたちは問います。神のために完全にささげられ、イエスへの道を準備した、この生涯と、その強靭で正しく一貫した内面性は、どこから来るのでしょうか。答えは簡単です。それは、神との関係、すなわち祈りからもたらされました。祈りこそが、聖ヨハネの全生涯を導く糸だったからです。ヨハネは両親のザカリアとエリサベトが長い間願い求めた末に与えられた、神のたまものです(ルカ1・13参照)。それは人間の望みを超えた、偉大なたまものです。なぜなら、夫も妻も年老い、エリサベトは不妊の女だったからです(ルカ1・7参照)。しかし、神にできないことは何一つありません(ルカ1・36参照)。聖ヨハネの誕生の告知は、エルサレム神殿での祈りの中で行われます。そればかりか、告知は、ザカリアが主に香をささげるために神殿の聖所に入るのを特別に許されたときに行われます(ルカ1・8-20参照)。洗礼者ヨハネの誕生も、祈りによって特徴づけられます。すなわち、ザカリアが主にささげた、喜びと賛美と感謝の賛歌です。わたしたちもこの賛歌を朝の祈りのたびに唱えます。この「ザカリアの歌」(Benedictus)は、歴史の中でなされた神のわざをたたえ、息子ヨハネの使命を預言的に示します。ヨハネは肉となった神の子に先立って行き、その道を整えます(ルカ1・67-79参照)。イエスの先行者ヨハネの全生涯は、神との関係によって深められました。とくに荒れ野で過ごした時期にそれがいえます(ルカ1・80参照)。荒れ野は、誘惑の場ですが、人が物質的な支えと安定を奪われ、自らの貧しさを味わう場でもあります。こうして人は、唯一の堅固な基準が神ご自身であることを悟ります。しかし、洗礼者ヨハネは、祈りの人、絶えず神に触れた人であるだけではありません。彼は神との関係への導きでもあります。福音書記者ルカは、イエスが弟子たちに教えた祈り、すなわち「主の祈り」について述べる際に、弟子たちが次のように願ったと述べます。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。洗礼者聖ヨハネの殉教の記念は、わたしたち現代のキリスト信者に次のことを思い起こさせてくれます。キリストとそのみことば、真理を愛することにおいて、妥協してはなりません。真理は真理です。そこに妥協はありえません。キリスト教的生活は、いわば、日々、福音に忠実に従って「殉教すること」を求めます。すなわち、わたしたちのうちでキリストを成長させ、自分の思いと行動を方向づけてもらう勇気を求めます。けれども、生活の中でこのことが可能となるには、神との堅固な関係をもたなければなりません。祈りは時間の無駄ではありません。祈りは活動の時間も、使徒的活動の時間も奪いません。むしろその反対です。忠実で、耐えることのない、信頼をこめた祈りの生活をもつことができるとき初めて、神ご自身が、幸福で落ち着いた生活を送り、困難を乗り越え、勇気をもって神をあかしする可能性と力を与えてくださいます。洗礼者聖ヨハネよ、わたしたちが生活の中でつねに神を第一に優先し続けることができるように、わたしたちのために執り成してください。ご清聴ありがとうございます。

略号
CCL  Corpus Christianorum Series Latina

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