「カトリック情報ハンドブック2011」巻頭特集

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特集1 日韓司教交流会―15年の歩み カトリック中央協議会出版部・編

 今年2010年は、日本が朝鮮半島を植民地とした「韓国併合」から100年にあたる。菅直人首相は8月10日に、日本による植民地支配により「民族の誇りを深く傷付けられ」た韓国の人々に「痛切な反省と心からのおわび」を表明する談話を発表した。
 地理的にはまさに隣国でありながらも、過去の歴史によって距離が生じてしまっている韓国と日本。この両国の司教団の間では1996年以降毎年交流の集まりが催され、目に見える成果も生んでいる。
 本特集では、第1回からこの交流会に携わってきた岡田武夫東京大司教にインタビューを行い(2010年8月2日)、その内容を交えつつ、開始の経緯と概要、そして実りを紹介する。

 日韓司教交流会は、阪神・淡路大震災が発生した1995年に、マニラで開催された第6回アジア司教協議会連盟(FABC)総会での、当時の日本司教協議会副会長・濱尾文郎司教(のち枢機卿)と韓国司教協議会会長・李文熙(イムンヒ)大司教との出会いをきっかけにして始まった。岡田大司教によれば、総会の後に李大司教から濱尾司教のもとに1通の手紙が届いたのだという。その内容は、両国の歴史認識にかかわるものだったということを、大司教は濱尾司教から直接聞いている。
 翌1996年2月、大司教が用いた表現をそのままここに記すならば、「突如」韓国から李大司教のほか2人の司教が来日し、日本カトリック会館にて16、17日の2日間にわたり、濱尾司教、岡田浦和司教(当時)との間で懇談会が持たれた。これが日韓司教交流会の第1回目となる。この訪日については、2月8日に行われた常任司教委員会の報告事項にも挙がっており、当然アポイントメントなしの来日などではないのだが、大司教は改めて当時を振り返ってみて、それを「突如」ということばで表現した。その早急さが大司教にそのような印象を残したのであろう。しかしこのことから、韓国側の強い働きかけと意気込みが理解できるかと思う。
 この懇談会では、両国の司教団が共通の歴史認識を見いだす努力へと着手すること、そしてその努力には、若者のための両国共通の歴史教材の作成も含まれること、さらに、カトリック学校で使用できる共通の歴史教科書を作成する可能性をも探ること、この3点が合意された。つまり発足の当初は、日韓の歴史教科書問題検討や合同の歴史研究を行う場としての位置づけが明確な集まりだったのである。さらに、この両国の司教レベルでの交流は、李大司教の強いイニシアティヴ、舵取りがあってこそスタートしたのだということも特記すべき事実であろう。
 このとき李大司教は、日本側に対して次のような提案をしている。――韓国と日本、それぞれで教えられている歴史には相違が存在する。異なる歴史認識を持ったままで「ともに生きる」ことは難しい。それぞれの政府でも共通の歴史認識を見いだそうとする動きはあるだろうが、利害が絡みあい、実現には困難が予想される。韓国と日本の教会が、国の利益代表としてではなく、同じ神を信じる者どうしとして、話し合いを重ね、相互理解を深めることによって、共通の歴史認識を持ちたい。神の望む「愛」と「平和」実現のため、救いの歴史観に基づき、協力し合おうではないか……。
 この提案に対して、濱尾司教は日本司教団『平和への決意――戦後五十年にあたって』の引用により、戦争へと向かってしまった過去を真剣に検証し平和構築を決意する司教団の姿勢を示し、「ぜひともいっしょに取り組ませていただきたい」と応答した。
 この日、日韓両国の司教が、種々の困難を自覚しつつも真の理解へ向けての前進を誓い合ったのである。アジアの教会間の積極的な交流を目指し、バチカンはもっとアジアの教会に目を向けるべきであるが持論であった濱尾司教の、数ある功績の中でも大きな事項として、これを挙げることができるだろう。
 また、この懇談会ですでに一つの成果が生まれている。それは、カトリック日韓学生交流会開催への動きが始まったことである。1997年にパリで開催されるワールドユースデーにおいて、両国の青年たちが交流するための準備を始めることがこのとき確認された。岡田大司教によれば、李大司教は漢字文化圏の青年たちの交流、教会の明日を担う青年が、青年のうちから知り合い、助け合う準備をしていくことの大切さを強く感じ主張していたそうだ。こういった考えには、その人柄を思えば、濱尾司教も深く共感できたことだろうと思う。以後、この学生交流会は韓国と日本交互で開催されながら今に至り、2010年2月には第16回が東京で開かれた。
 1996年6月の定例司教総会では、前述の両国司教間の合意事項が改めて確認され、今後の作業のための日本側窓口担当者として岡田司教が選任された。
 第2回は同じく1996年の12月に、李大司教ら訪日への返礼の意味もあり、今度は濱尾、岡田両司教が韓国を訪問する形で開かれた。この会では日韓両国の歴史教育の専門家を招き講義が行われている。これを担当したのは、日本側が君島和彦教授(東京学芸大学・当時)、韓国側が鄭在貞(チョンジェジョン)教授(ソウル市立大学校)である。岡田大司教は、近現代史と日本の帝国支配を詳らかに教える韓国の歴史教育と、加害者でありながらそういったことがらにはほとんど触れない日本の教育とのあまりの差異に、このとき改めて驚きを覚えたという。
 この第2回では、まず李大司教が1年に1回程度、毎年テーマを変え、とりあえず10年会合を重ねていこうと提案した。
 一方濱尾司教は、韓国の司教を翌年2月に開催される日本の臨時司教総会に公式招待したいとの提案をした。しかし、これは実現しなかった。このとき韓国の司教協議会会長であった鄭鎭?(チョンジンソク)司教はこの提案に対して、両国民の認識の差が大きく、国民感情を刺激する可能性もあるので慎重に扱わねばならず、受け入れることは難しいとの回答を示した。また日本側にも慎重論があった。前進を切望しつつも、急速な展開が逆にひずみを生じさせる結果を生まないよう、十分な配慮がなされたのである。
 以後、あくまでも司教個々人については参加は任意で、日韓の司教が1年ごと交互に相手国を訪問するという交流会が重ねられていくことになる。日本で行われた第3回以降、参加人数も徐々に増え、現在では、自由参加ながら日本の司教はほとんど出席している。
 第3回の会合のタイトルは「日韓歴史研究懇談会」であったが、4回以降は「日韓司教交流会」となり、それまで掲げられてきた「歴史」の文字が消えた。大司教によれば、日本側は歴史にこだわっていたのだが、韓国側の、いつまでも過去にこだわるのではなく、もっと広く両国の司牧上の重要問題についての分かち合いをしていこうとの意向を受けてのことであったという。
 結果として、当初の、両国間における歴史認識の差異解消、共通の歴史教材の作成という目的は薄まっていったわけだが、扱うテーマが広がりを持ち、交流はより活発なものになっていったといえよう。そういった流れの所産として、1999年の第5回では、東ティモール問題と台湾大震災を受け、両国の参加司教の連名で東ティモールと台湾のカトリック教会に向けて、連帯と支援を表明するメッセージが送られた。
 第6回は韓国の釜山で開催されたが、これ以降は両国の各教区が開催地となっている。有識者を招いての講演も、その地の歴史や問題に沿ったテーマが選ばれ、分科会、現地学習なども積極的に行われている。李大司教は、まず10年と提案したのであったが、2004年の第10回の際にはさらなる継続が確認された。
 2009年の第15回交流会は大阪教区で開かれた。韓国の司教は14名、日本の司教は17名が参加している。講話は2題で、姜禹一(カンウイル)司教が「故金壽煥(キムスーハン)枢機卿の生涯を顧みて」と題して、2009年2月に逝去した、人権および民主主義の保護者として多くの市民に尊敬された金枢機卿の生涯を振り返った。もう1題は本田哲郎神父による「日本社会と教会・釜ヶ崎の活動から」で、大阪・釜ヶ崎における活動を通じてのカトリック教会の平和への貢献についてが語られた。現地学習は「神戸の震災の現場と教会の対応」、「在日コリアンの歴史・生野」、「殉教しなかった『転びキリシタン』の歴史と被差別部落」の3テーマであった。多くの司教たちが、この現地学習に大きな意義、収穫があったとの感想を残している。
 このとき、交流会の今後が話し合われている。隔年開催などの意見も出されたが、最終的には、毎年11月の第3週を交流会の日程とすることで合意がなされた。本年(2010年)は韓国の清洲が開催地となる。カトリックの社会福祉施設を見学することなどがスケジュールに盛り込まれているそうである。

 第15回交流会でのミサの模様(大阪教区カテドラル)

第15回交流会でのミサの模様(大阪教区カテドラル)

 先に、カトリック日韓学生交流会が始められたことを交流会の成果として挙げたが、もう一つ、『若者に伝えたい韓国の歴史――共同の歴史認識に向けて』の出版も挙げておかなければならない。この本は、2004年5月に韓国語版が、同年11月に日本語訳が刊行されている(日本語版発行は明石書店)。著者は、李元淳(イオンスン)、鄭在貞、徐毅植(ソウィシク)。日本語版の訳者は君島和彦、國分麻里、手塚崇。第2回の交流会で講義を担当した2氏が、著者と訳者にそれぞれ名を連ねているわけである。
 巻頭の発刊の辞に姜禹一司教は「この本は1996年2月16日、‘日韓教科書問題懇談会’という名前ではじまった日韓両国カトリック司教交流会に触発されて生まれた韓国側の小さな成果である。韓国語と日本語で刊行されるこの本が、韓国と日本の学生だけでなく、一般市民にも広く読まれ、未来に開かれた歴史認識を共有して、地球村時代の近くて近い隣人として、新しい歴史創出の主人公となることを希望する」と記している。
 また翻訳者あとがきで君島氏は「韓国の先生方は、精一杯未来志向的発想でこの本を書いています。私たちも同じ思考方法でこの本を読んで、一緒に考えてみようではありませんか」と呼びかけている。
 さらに日本の司教団では、岡田大司教が「歴史入門書の発刊に寄せて」というコメントを発表し、「日本側は、韓国側が日本との交渉の歴史をどのように理解しているのか、真摯に受け止めなければならない」と訴え、本書の刊行は「共通の歴史認識への大きな前進であり、こころから歓迎する」と述べた。

 サッカーワールドカップの共催や日本におけるいわゆる韓流ブームなど、両国民のスポーツ、文化の領域での交流は着実に進展しているといえるだろう。カトリック教会内でも、広島教区は2000年に釜山教区と、京都教区は2005年に済州教区と姉妹教区縁組の調印をし、教区レベルでの交流も活発化している。
 国家、政治のレベルにおいて、現時点ですべての問題が解決済みとしてしまうことには問題はあろう。しかし、よい兆しはそれとして正当に評価すべきと思う。過去を振り返ることは当然怠ってはならない。だがそこに、君島氏のことばにあるとおり、「未来志向的発想」を併せ持つことが重要だ。それがあってこそ、両者の関係をよりよい方向へと前進させることができるはずである。
 二人の司教の出会いから始まった日韓司教交流会が、両国の教会の、そして両国民のさらなる理解、交流の足がかりとなり、その裾野が信徒のレベルにも今以上に広がっていくことを期待したい。そして、両国がますます「近くて近い国」となることを心から祈るとともに、わたし自身も含め一人でも多くの人々が、一致のうちにその実現にかかわっていくことができればと思う。 (奴田原智明)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―四国編 カトリック中央協議会出版部・編

  全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第5回目。今回は「四国編」として、香川、愛媛両県内の史跡を紹介する。教区から提出された教区内巡礼地一覧も参考にしつつ、各種資料を参照して訪問先を選定した。

香川・愛媛の史跡(1)

香川県・小豆島(7月21日)
 今年は、過去に例を見ないほどの豪雨により広い範囲で甚大な被害が発生したが、出発数日前には全国的に梅雨明けが宣言された。この時期の四国旅行、当然のことながら暑さは覚悟していた。しかし、空港からのリムジンバスを昼前に高松駅前で下車すると、確かに日差しは強く気温も高いが、東京と比べ、やや過ごしやすいようにも感じた。目前の海から吹く風、その影響は大きいのだろう。
 午後1時発の高速艇に乗船、小豆島に向かう。穏やかな瀬戸内の海面は夏の日差しを受けて輝き、幾つもの小島の緑が、澄み渡る夏空と見事なコントラストを成している。
 30分で小豆島土庄港に到着。小豆島といえば、この島出身の作家・壺井栄の名作『二十四の瞳』を思い浮かべる人も多いであろう。わたしも小学生の頃にこの作品に強く感銘を受けた記憶がある。港を出ると「平和の群像」と題された、大石先生と子どもたちのブロンズ像が迎えてくれた。
 路線バスに乗車し、まずは土庄教会へと向かう。数分後に中央病院前で下車。教会は病院の北東側にあり、バス停からも屋根の十字架が見える。

小豆島・土庄教会と高山右近像

小豆島・土庄教会と高山右近像

 玄関先には1987年に建立されたキリスト教伝来記念碑とともに、高山右近の像が建っている。西山方昭作、以前に紹介した、高岡古城公園(2008年特集)、高槻城址(2010年特集)に建つものと同型、わたしにとってはすでになじみの像である。ここ土庄教会の像は、以前は大阪の玉造教会にあったのだが、2007年5月に当地に移設された。
 3度目の対面ではあるが、右近の表情を見つめつつ改めて感じた。この像が表現しているのは、右近の、地上の如何なる権威を前にしても信念を曲げることはなかった強靭な精神そのものである。しっかりと握られたキリスト磔刑の十字架をもかたどる剣、その刃が真下へと力強く伸びているさまも、それを示している。
 小豆島は、キリシタン大名小西行長の所領であった。豊臣秀吉は行長を抜擢し、天正13(1585)年にこの島の統治権を与えたのである。大名となった行長は、島に「聖堂を設けて大きい十字架を立て」(松田毅一『キリシタン研究 四国篇』)島民へのキリスト教布教を目指した。さらにイエズス会の準管区長であったガスパール・コエリョ神父に司祭派遣を願い、日本人修道士を伴ったグレゴリオ・セスペデス神父を島に迎え入れている。天正15(1587)年、秀吉が突如禁教令を発したときには、右近やオルガンチーノ神父をこの島にかくまっている。
 しかし、その生涯を辿っていくと、小西行長は強く毅然として生きたキリシタン大名であったとはいえないことに気付く。遠藤周作氏は、その評伝作品の代表作の一つ『鉄の首枷――小西行長伝』において、「面従腹背」ということばをもって、彼の生き方を描いた。たとえば彼は、無謀でしかなかった秀吉の朝鮮出兵の際には、表向きはその命に従いながらも、裏では何とか戦を回避あるいは短期に終結し、役の後には臣下にあって自分がその中枢を担える立場となれるようさまざまに画策している。また、禁教令、右近追放の際には、最初は秀吉の怒りを恐れ、彼を頼りにする宣教師たちに救いの手を差し伸べようとはしなかったのである。
 あるときには状況をわきまえない宣教師の布教方法に意見すらし、棄教を迫る秀吉の命に対しては断固拒絶の姿勢を貫いた、強者としての生を全うできた右近。彼と比べれば、黒田孝高や蒲生氏郷らとともに秀吉の前で妥協をせざるを得なかった行長は、弱者であろう。大名でありながらも右近は領土のような現世利益への執着をわずかばかりも持っていなかったが、元からの武士ではなく堺商人の家の出である行長は、あまりにも多くの地上的な執着を抱えていた。同じ臣下の、そして終生憎悪しあった加藤清正のような、戦いに生きがいを見いだすような武士にもなれず、そして、右近のように、すべてを捨て己の信念に殉ずるといった生き方もまた彼にはできなかったのである。しかし、だからといって彼の生涯がわたしたちに何も伝えないわけでは決してない。関ヶ原の敗北の後、行長はキリシタンとして斬首されたのである。
 抜けるような青空の下、マントを翻し眉根に力の入った勇猛な右近像を前にして、わたしの胸のうちにはさまざまな思いが去来していた。苛酷な生き方を強いられた戦国の世にあった二人の男、その対照的な生き様には、人によってさまざまな意見や感想があるだろう。乱世に切支丹大名と呼ばれた者のうち、右近ほど強く純粋にその信仰を全うした者は他には見当たらない。多くの人に尊敬され熱心な顕彰活動が展開されるのも当然である。一方、遠藤氏の愛読者ならば、氏が右近ではなく行長を描いたということに馳せる思いは当然あるはずだ。右近の祈り、行長の問いかけ、両者がそれぞれの意味を持ちわたしの胸に迫ってきた。

オリーブ園から瀬戸内海を望む

オリーブ園から瀬戸内海を望む

 再び路線バスに乗り、日本のオリーブ発祥の地であるオリーブの丘へと向かう。ここには小西行長が立てたという大十字架を記念する「平和の十字架塔」が立っている。
 小豆島オリーブ園の玄関を入り、丘を登っていく。途中振り返って見ると、実に見事な眺望だ。内海湾が一望でき、左手には二十四の瞳学校碑のある田浦の岬が横たわっている。空、海、そして岬の山、それぞれの異なる青が微妙なグラデーションを形成しつつ交じり合い、眼前のオリーブ畑を浮かび上がらせる。遠くにはやや霞んで、さぬき市になるのだろうか、四国本島も見晴るかすことができる。
 やがてオリーブの木立の後ろに、すっくと立つ背の高い真っ白な十字架が見えてきた。ふもとまで来て見上げると、その白色がくっきりと青空に映え、まるで地中海沿岸の一地域にでもいるような気持ちにすらなる。左に掲げた写真、カラーでお見せすることができないのがなんとも残念だ。澄んだ青空とのコントラストは、絶妙といいたいほど美しかった。

 オリーブ園大十字架

オリーブ園大十字架

 この十字架はセスペデス神父の来島、つまり島へのキリスト教伝播400年を記念して1987年に立てられた。解説板には、当時の教皇庁駐日大使ウィリアム・カルー大司教が祝福し「小豆島の繁栄と世界の平和を祈願した」と書かれている。また、教皇庁国務省長官ガザロリ枢機卿(当時)が伝えた教皇ヨハネ・パウロ二世のメッセージが彫られた碑も並んでいる。
 昼下がりの日差しは強く、ここまで丘を登ってきて全身汗まみれになった。十字架のたもとに立っていれば日を遮るものなどない。しかし、海から吹く柔らかな風が、濡れた体に心地よい。?の声は少々やかましいほどだが、一瞬取材の趣旨も忘れ、贅沢な気分に浸っていた。

小豆島マリア観音塔

小豆島マリア観音塔

 丘を下り、今度はオリーブ公園バス停に出ると、観光名所を記した地図が設置されていた。見ると、3つ先の日方というバス停の脇に「マリア観音」と記してある。そういえば、あるインターネット上のサイトで、この辺りのマリア観音が紹介されていたのを見たことがある。当初の計画では、帰りの船に乗る前に、セスペデス神父が伝道を行った地点として松田毅一氏が推測している草壁周辺を巡り八幡神社を訪れるはずであった。しかし、急遽予定を変更し、このマリア観音を見に行くことに決めた。旅先では、こういう偶然の出会いを大切にしたい。
 マリア観音は日方バス停のごく近くにある。バスを降りると目の前に「二十四番・二十五番札所 安養寺」と書かれた標識が立っていて、その横が墓地になっている。川沿いにあるこの墓地の脇に、頭の丸い石造りの塔が立っており、そこにマリア観音が収められている。
 堂の左隣の碑には「小豆島マリア観音塔 一九九四年三月二十三日 武部吉次建之」とある。武部吉次氏は地元の醤油会社タケサン株式会社の創業者である。逆側の小さな石柱には「マリア像 昭和五十一年九月 発見者松内澄子」とある。マリア像発見から二十年近くの後に、安置のための一堂が島を代表する実業家によって建てられたわけだ。
 さらに左側には、このマリア像の解説(小豆島キリシタン研究会会長の藤井豊氏による)を刻した碑も立っている。それには、セスペデス神父によって、当時1400人もの受洗者があったが迫害の時代に改宗させられたことが説明され、この隠れキリシタンの遺物と思われるマリア観音の台座にはキリストを意味する魚が描かれていると記されている。
 しかし、マリア観音が安置されているところにはガラスがはめ込まれていて、それが陽の光を反射し覗き込む自分の姿も映りこんでしまうので、しっかり見ることができない。台座前面にそれらしき文様があるような気はするのだが、どうもはっきりしない。
 解説には「中国景徳鎮窯の白磁」とある。確かに色遣いや観音の表情は日本的ではなく中国のそれだ。マリア観音といえば一般に子安観音であろうが、この観音は赤子を抱くのではなく、右手に水瓶を持っている。もともと子安観音というのは、中国の慈母観音からの影響も受けつつ、日本の子安神信仰と観音信仰が交じり合ってできあがったものだろう。その容姿が聖母マリアのイメージに結び付けやすかったので、隠れキリシタンが信心に用いたのである。辞書によっては、子安観音の次点の意味として「隠れキリシタンが礼拝した聖母像」(『大辞泉』)などと書かれている場合もある。しかし、キリシタン史研究家のフーベルト・チースリク師が指摘するように、隠れキリシタンがそこに聖母マリアを託し、実際に信心の道具であった観音像だけをマリア観音と呼ぶべきであって(『キリシタン史考』)、出自の不明瞭なものをも一緒くたにして、そう呼称するわけにはいかないのである。
 さてこの像であるが、解説によれば日方墓地から発見されたのだそうだ。詳細を知らないので判断はできないが、それでは確かな出自とはいえないような気はする。それでもこの観音像は、なかなかに美しいものである。柔らかな体の輪郭と、多少西洋風な印象もある、慈愛に満ちた涼しげなお顔がいい。優しさとともに知性が感じられる。赤を基調とした中国風の色彩もくすむことなく、鮮やかに白磁の上に浮かび上がっている。左を向けば道を挟んで海、車の往来もほとんどなく波の音だけが響くこんな静かな場所で対面していると、実に落ち着いた気持ちにさせてくれた。
 せっかくなので、坂道を上り、迫害され棄教を命じられたキリシタンが籍を置かされたという安養寺にも行ってみた。
 安養寺は小豆島八十八ヶ所霊場の第24番札所である。前述の標識に25番も列記されてあるのは、この寺の奥にある誓願寺庵も含んでのことだ。小豆島八十八ヶ所霊場は、1686年頃に島の真言宗寺院の僧侶たちによって制定されたそうである。つまり島へのキリスト教伝播からおよそ100年後ということになる。
 安養寺はこぢんまりとした寺だったが、何よりもびっくりしたのは、境内に何匹もの犬が繋がれ飼われていたことである。門をくぐると、この犬たちがいっせいに吠え出した。たいした大きさではないし牙をむいて威嚇するといった感じでもないのだが、20匹近くに同時に吠えられると、さすがに犬好きでありながらも可愛いとは思えずうろたえてしまった。如何なる事情でこんなことになっているのかは分からないが、札所を訪ねる巡礼者には少々迷惑なのではないだろうか。そんなことを思いつつ早々に引き上げた。
 しばらく待たなければ次のバスが来ないので、草壁港まで歩いた。途中にはオリーブの並木などもあり、フェリーや貨物船が浮かぶ海は、やや傾き始めた日差しを浴びて輝いている。できれば宿泊し、もう少しゆっくりとこの島を、豊かな自然を楽しみたかった。

香川・愛媛の史跡(2)

愛媛県・松山市(7月22日)
 朝、駅近くのセルフサービスの店で名物の讃岐うどんの美味を堪能し、7時36分発の特急いしづちに乗り込んだ。2時間半の列車行で松山まで向かう。10時過ぎに松山着、運転免許センター行きの路線バスに乗る。数分後に病院前(松山記念病院)で下車(地元の人に聞けば、もっと近くのバス停があるのかもしれない)。ここからちょっとした丘陵に向かって歩き始める。目的は浦上キリシタン流謫碑である。目的地はずっと手前だが、方角として丘の頂上、松山総合公園にある西洋中世の城のような奇妙な建物が目印となる。

浦上キリシタン流謫碑

浦上キリシタン流謫碑

  国道196号を越え、団地の脇を通り坂道をひたすら上っていくと、宝塔寺という寺があるのでその前を道なりに右へ、最初の十字路を左折すると右手にカトリック松山墓地がある。ドミニコ会、聖ドミニコ宣教修道女会の墓地もあるこの敷地の中央に流謫碑は立っている。
 四角錐のスマートできれいな碑だ。台座正面には「長崎浦上村住人 ペイトロ宅四郎 ペイトロ六右衛門 パオロ米蔵 ロメゴス市兵衛 ペイトロ豊吉 シワンノ八十八 マリナ テル ロメナ タネ 他数名」と彫られてある。これは赤痢の発生によりこの地で没した信徒の名である。
 浦上信徒の流刑は明治政府による弾圧で、約3千人の浦上キリシタンが19の藩に配流され、監禁、拷問を受け改宗を迫られた。
 伊予松山に流されたのは86名。三津口というところの刑場に収容された。役人は、庭に敷かれた筵に信徒たちを座らせ法華僧の説教を無理やり聞かそうとしたが、彼らは一向にそれを聞こうとはしなかった。逆に僧侶のほうが根負けしてしまい「壁に向かって物を言うのも同様だ」と説教をやめてしまった。

流謫碑前面の碑文

流謫碑前面の碑文

 碑銘に名前が挙がっている米蔵は、僧の説教場に頑として出席しなかったため、三尺牢に入れられた。すると彼はまったく飲み食いをしなくなった。それには役人のほうがうろたえてしまい「出ろ」と命じたが彼は聞かず、内から窓を締め切り食物を受け付けなかった。とうとう「悲しみ節」(四旬節)の46日間、彼は牢にとどまった。最後に役人は「信仰を続けていくがよい。ただ病気をしないように注意せよ」と声を掛けたという(浦川和三郎『浦上切支丹史』「旅の話」による)。
 この碑は1937年に山口宅助神父と有志一同によって建てられた。材質は花崗岩で、正面の筆太の碑銘が力強く印象的だ。
 今日も見事なまでの快晴、青一色の空を背景に、3メートル以上もある碑は、きりりとその輪郭を際立たせていた。

 衣山駅まで歩き、一度松山市駅に出た後、再び路線バス(北条線)に乗った。潮見保育園前で下車。保育園横の道を入る。左側には紫の朝顔に囲まれるように壱里塚石が立っていて、正面にはこんもりとした小さな山が見える。この山を半周すると、蓮花寺という寺の山門前に出る。寺は小山の頂上にある。目指すは、この先の礼拝坂(らわいざか)を上り詰めたところにある生木の地蔵だ。蓮花寺の門前に大きな絵地図があったので、それで場所を確認し、先に進んだ。

礼拝坂入口

礼拝坂入口


 生木の地蔵を収める堂

生木の地蔵を収める堂


 生木の地蔵

生木の地蔵


 地蔵裏の碑

地蔵裏の碑

 解説の板が立っているので坂の入り口はすぐに分かる。山頂の光り輝く仏体を村人が伏し拝んだところから礼拝坂の名が付いたのだという。民家が途切れると両側はみかん畑で、正面には墓地が見える。下から数分で小さなお堂の前に出る。
 まずは堂の横に掲げられた谷町町内会による由来記の内容を紹介しておこう。
 禁教下に隠れキリシタンが「マリヤ像の石柱を松の根元に植え込んで密かに崇拝していた」が、その松が「次第に大きく成長し、いつの間にか石柱のマリヤ像を抱きかかえるようになった」。その松が枯れると「里人たちは根株に抱かれたマリヤ像にいたく感動し、お堂を建立して供養するようになったと言い伝えられている」。
 これ以上のことは何も分からないし、このこと自体の信憑性も不明だ。ではなぜそんなところを訪れたのかといわれてしまいそうだが、愛媛のあるNPO法人が制作している松山城下の史跡や名所を紹介するサイトで偶然画像を見、何かしら心惹かれるものを感じたのである。
 愛媛県内では「キリシタン碑」なるものの存在が多数確認されている。これは、石柱の正面に合掌した人物の稚拙な絵(まさに稚拙で、子どものいたずら書きのような絵である)が彫られたもので、伊予のキリシタンについて研究し『山村秘史』『秘史の証言』等の著書がある牧師の堀井順次氏が命名した。その門下に学んだ小沼大八氏も『伊予のかくれキリシタン』の中で、これを詳しく紹介している。
 生木の地蔵の松が抱え込んでいる石柱も、この「キリシタン碑」と同様のものだ。人物が彫られている面が下を向いているので分かりにくいが、身をかがめて覗き込めば、顔の部分は見ることができる。
 石柱は太い二本の根でがっしりと抱え込まれ、くの字になっている。要するに折れてしまっているのだろうが、折れた部分が隠れているので、ぐにゃりと曲げられているかのように見える。巨人の足指が人間を捕らえ、弄んでいるようなぐあいだ。
 別に大木が何かを抱え込んでいるさまというのはさして珍しいものでもないが、このようにご神体のごとく鎮座していると圧倒される。キリシタンとの関係は明確ではないが、何かしらを訴える迫力は持っている。
 堂の裏に回ると「有縁無縁三界萬霊等」と彫られた供養塔があった。隣の小さな碑には天保八(1837)年とあるが、同時に建てられたものだろうか。もう少し新しいようにも思う。建立の契機も不明だが、「無縁」には当然キリシタンも含まれるのだろう(勝手な解釈だろうか)。キリシタンの時代には、キリスト教も、対立する仏教も、料簡の狭い独善的な側面を多少なりとも持っていた。しかし宗教は、本来はこの仏教のことばにあるような、広い心を備えたものであるはずだ。丘の上から松山の市街地を眺めつつ、それを改めて思った。

円明寺

円明寺


 円明寺のキリシタン燈籠

円明寺のキリシタン燈籠

 さてここから、伊予和気駅近くの四国八十八ヶ所霊場第53番札所、円明寺へと徒歩で向かった。これが少々見込みが甘く、炎天下に四苦八苦した。
 途中休みを入れつつ、1時間ほどかかっただろうか、ようやく円明寺にたどり着いた。山門をくぐると左手に「キリシタン灯ろう この奥(裏)にあります」と書かれた看板が立っている。
 各地に遺されているものと同型の、十字のような形をした織部燈籠である。この地のものに顕著な特徴があるわけではない。脇に立てられた解説には次のようにあった。「高さ四十cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある」。この説明は実に的確であると思う。「おぼしき」や「との説もある」といった表現で、これが実証あるいはほぼ確定された説ではないことを表している。織部燈籠がキリシタン遺物であると、それが定説であるかのように紹介しているところは実に多いのだが、議論の余地のあるものは、すべてこのように紹介すべきではないだろうか。
 わたしが過去に見てきた織部燈籠に較べると、正面に彫られた人物像の保存状態がややよいようにも感じる。合掌する手が割合にしっかりと識別できる。じっと見つめていると、確かにマリア像のようにも見えてくる。頭部にそれとなく柔らかさがあるのだ。解説に好感をもったからこのように感じたのだろうか。不思議なものである。
 山門脇の木陰に腰掛けて路線バスの到着を待った。周りには民家に混ざって、お遍路さんのための格安の民宿などがある。門の前は寺の駐車場である。ぼんやりと眺めていると、一台の車が止まり年配の夫婦とおぼしき男女が降りてきた。二人とも菅笠をかぶって金剛杖を持ち、洋服の上から羽織っているだけだが白衣に半袈裟もまとい、しっかりとお遍路さんの格好をしている。自分の汗まみれのシャツや日焼けした両腕と見比べ、思わず笑ってしまった。「杖要らないだろ!」そんな突っ込みを入れたくなった。別に腹が立ったり、疑問に感じたり不快に思ったりしたわけではない。夫婦の巡礼者はさわやかな印象を残し、わたしは心底愉快だった。  

香川・愛媛の史跡(3)

愛媛県・戸島(7月23日)
 朝、松山から宇和島に向かう。9時28分に宇和島駅に到着。中平寵子さんが出迎えてくれた。
 この取材旅行の一月半ほど前に、京都教区の前教区長である田中健一司教に会い、話を伺っていた。なぜなら、田中司教は宇和島の出身で、これから訪れる戸島で代々庄屋職を務めた戸島・田中家の15代に当たるかたであるからだ。元高松教区長、故・田中英吉司教は、健一司教の父である哲太郎氏の弟、つまり健一司教の叔父に当たる。戸島という小さな島、その田中家から二人の司教が輩出されているのである。驚きを感ぜずにはいられない事実だ。
 中平さんは田中健一司教の妹である。現在はおもに引退した田中司教が住まう京都司教ハウスで生活し、やや足の不自由な司教の身の回りの世話をしているが、年に幾回かは宇和島に戻られるとのことだ。
 改札前でわたしはすぐに気づき近づいていったのだが、中平さんは一向に気づかない。「お世話様です」と声を発したところでようやく認識してくださった。京都での印象はもう少し色が白かった、だから気づかなかったのだとおっしゃる。2日間ずいぶんと歩いた。だいぶ日焼けもしたようだ。
 実は京都の田中司教を訪問してから数日後に、中平さんからお手紙を頂戴した。そこには、戸島行きにご一緒したい、そう書かれてあった。これには驚いた。京都で中平さんとは、それこそ帰りがけの玄関でわずかばかり立ち話をした程度である。それなのに、旅に同行してくださるというのだ。こちらとしては、なんともありがたい話でしかなく、よろしくお願いしますと、即座に返事をしたためた。
 島へと渡る船の出港時間は11時35分。時間が十分にあったので、まずは中平さんのお宅にお邪魔した。
 通していただいた部屋には、2年前に亡くなられたというご主人が描かれた絵が多数掲げられてあった。画家志望であったそうで、ハンガリーやドイツなど旅先の情景を描いたものだ。ガリラヤ湖や宇和島の景色もあった。
 立派な家庭祭壇もある。ヨーロッパからの輸入品と思って見ていたのだが、地元宇和島の大工が説明を受けつつ製作したのだという。旧田中家からのものだそうだ。敬虔な信仰者としての父哲太郎氏の想いを伝える品なのだろう。
 ここで宇和島教会信徒の平野エスタリーナさんを紹介していただいた。彼女も同行してくださるのだという。フィリピン出身の朗らかな女性だ。

宇和島教会

宇和島教会

 その後宇和島教会に行き、主任司祭の田中正史神父に会った。田中師はこの4月に宇和島教会に主任司祭として赴任したばかりだそうで、戸島へはまだ渡ったことがなく、中平さんの勧めで、これまた同行してくださることになった。都合4名の小グループである。これはにぎやかで楽しい一日になるだろう。おのずと期待が高まった。
 田中師の運転で新内港まで行き、11時35分発の盛運汽船高速船あけぼのに乗船した。あけぼのは、宇和島湾の南に突き出た半島の各浦と戸島および嘉島を巡り新内港へと戻る45トンの高速船で、1日3便運行している。定員は81名で、この日は2割程度の乗船率だったが、ほとんどが地元の人のようであった。離島の住民にとっては欠くことのできない交通手段なのだろう。
 港を出てまもなく、右手には養殖の光景が見える。宇和島の地場産業である真珠だろうか。左手には低い緑の稜線が続く。しばらく行くと奇岩の景色などもあって飽きることがなかった。
 1時間弱で戸島に着く。海面が夏の日差しを受け、さらに山々を映し込み、みる藍色に染まっている。
 戸島は悲運のキリシタン大名パウロ一条兼定が晩年を過ごした地である。今回、取材の地を四国と決め各種資料を読み漁っていたとき、もっとも心惹かれたのがこの兼定であった。今日は、その墓がある龍集寺に行き、住職の話を聞かせていただくことになっている。

龍集寺

龍集寺


戸島庄屋田中屋敷跡碑

戸島庄屋田中屋敷跡碑


 一条兼定像(土佐一条家五代像部分)

一条兼定像(土佐一条家五代像部分)

 桟橋に下りると、中平さんの旧知のかたが軽トラックで迎えに来てくれていた。荷台に乗り込み出発、頬に当たる潮風を心地よく感じる時間もわずかで、龍集寺のふもとに到着した。
 寺へと上る細い坂道の入り口近くには「戸島庄屋田中屋敷跡」の碑がある。田中健一司教によって1993年に建てられたものだ。宇和島にあった旧田中家の土台石から彫り出されたものだと中平さんが教えてくれた。
 坂道の脇ではテングサを干している。薄茶の動物の毛のような色だったが、作業する女性によれば、2日ほど天日にさらせば白くなるのだそうだ。
 本堂正面で中平さんが声をかけると、Tシャツ姿で住職が出て来られた。千葉城圓氏である。実に気さくに迎え入れてくれた。
 長らく小学校の教師として働き校長も務められたという千葉氏は、定年後に僧侶を志し、2年間の修行を経て、たまたま空き寺となっていたこの龍集寺の住職として着くことになったのだそうだ。住職となって今年で13年になる。
 まずは土佐一条家五代像の掛軸を見せていただいた。当寺に残る兼定関連の古物はこれが唯一であるという。
 土佐一条家は、応仁の乱の戦火を逃れ、一条教房が都から土佐幡多ノ庄の荘園に下向することに始まる。荘園を直接治め町作りにも努めた教房は文明12(1480)年に58歳で没するが、その3年前に生まれた房家は、後に土佐国司に任ぜられる。ここから、房家を初代として、房冬、房基、兼定、内政の五代を土佐一条家と呼ぶ。
 掛軸には教房を含めた6人に加え、最上段には藤原鎌足が描かれている。もともと一条家は京都五摂家に数えられる名門である。鎌倉時代に九条家から分かれた家なので、もとをたどれば鎌足にたどり着くというわけだ。
 住職は龍集寺に赴任してから兼定を知り、種々の資料を集めているとのことで、兼定を描いた文学作品を2点紹介してくださった。1点は高知県出身のカトリックの作家・大原富江氏の『於雪――土佐一條家の崩壊』で、これはわたしも読んでいる。今1点は田岡典夫氏の『かげろうの館』で、こちらはこの時点では未読だった。田岡氏も高知県の出身で、直木賞も受賞している歴史小説家である(後日読んでみたのだが、なぜ兼定を描くのか、それがこの小説からはいま一つ伝わってこなかった)。
 しかし、管見の及ぶかぎりでは、さらにもう1点兼定を軸とした文学作品がある。サレジオ修道会司祭ウ・ロマニ師の戯曲『新しき?』である。戦後まもなくの1947年に中央出版社(現サンパウロ)から出版されたものなので現在は入手困難かもしれない。長曾我部元親はじめ敵側人物の言動を描写していくことで、ややヒロイックな兼定像を浮かび上がらせた作品である。

 一条兼定の墓

一条兼定の墓


 墓が収められている廟

墓が収められている廟

 しばらく本堂で話を伺った後に、兼定の墓に案内していただいた。墓は本堂真裏の墓地の一角にある。
 コンクリートの廟の中に、金襴の布に半ば覆われやや黒光りする、形の崩れた宝篋印塔が納まっている。上方の相輪部分はほとんど残っていない。廟は明治からあった祠に代わり、田中英吉司教が1973年に建立したものである。
 墓の左側には今年7月1日に営まれた426回忌法要の際の卒塔婆が置かれていた。戒名は「天真院殿自得宗性家門大居士」。戒名の決まりごとはよく知らないが、文字数も多いので立派なものなのだろう。
 島のかたがたは兼定のことを「一条様」「宮様」と敬慕を込めて呼び、毎朝お参りがあって、墓前には花が絶えることがない。また墓前の水は「一条さんのお水」と呼ばれ、いぼに効くと言い伝えられている(上掲左の写真の手前、鉢の上にスプーンが写っている。この鉢に湛えられた水のことである)。
 毎年行われている年忌法要には、多くの島民が集う。昨年は425回忌ということで、高知県から西南四国歴史文化研究会中村支部のメンバーの参加もあったそうだ。
 400年以上も前の人物、そして、はっきりいってしまえば偉業を成したわけでもなく、島民の暮らしを目に見える形で助けたり豊かにしたりしたわけでもない敗残の将が、なぜ現代においてもかくも慕われ続けているのだろうか。兼定はキリシタンであった、しかし島には一人のキリシタンもいなかった、のにである。
 一条兼定は天文12(1543)年に生まれた。永禄元(1558)年に伊予大洲城主宇都宮氏の娘をめとったが4年後に別れ、豊後の大友宗麟の娘を迎え入れている。
 江戸期の諸書には、兼定はずいぶんと悪しざまに書かれている。「性質軽薄にして、常に放蕩を好み、人の嘲(あざけり)をかへりみず、日夜只酒宴遊興に耽り、男色女色之評をなし……」(『土佐物語』)。「昼夜只酒宴遊興に耽り、又は山河に漁猟を事とし、其の上に力業を好み、異粧を専とし、佞人(ねいじん)を愛し、心の儘(まま)に民を貪り……」(『四国軍記』)。「隠れなき行儀荒き人にて、家中の侍ども少しの咎(とが)に腹を切らせなどせらるる」(『元親記』)。これら諸書の記述にどれほどの信が置けるのかは分からない。長曾我部側の視点から誇張がなされてもいるだろう。しかし、すべてがまったくの偽りというわけにもいかない。程度はどうあれ、若き日の兼定は確かに「行儀荒き」人だったのだろうと思う。
 この時期に兼定は、知に優れた老臣土井宗算を手討ちにしてしまっている。その理由には諸説あるようだが、『土佐物語』には「平田の郷」の百姓の娘お雪との出会いと彼女への惑溺、そしてそれに諫言した宗算を手討ちにするまでが、かなりドラマチックに描かれている。大原氏は『於雪』において、この宗算手討ちに青年期特有の甘えを伴った不安定な心理を見ている。小説家ならではの感性だろう。
 いずれにしろ、こういった経緯から家臣たちは合議の上兼定を豊後に追放し、その後を内政に継がせる。だが、この豊後で兼定は受洗するのである。
 フランシスコ・カブラル神父のポルトガルの管区長あて書簡(1575年9月12日付)には次のように記されている。「国王の婿にして甥に当る土佐の王は謀叛起りしため夫人なる王女とともに豊後の宮廷に滞在し、この三カ月間たえず説教を聴きて種々質問および議論をなしたるが、我等の主の御許によりデウスの教のみが真なることを悟り、キリシタンとならんと決心し、しばしば洗礼を請ひたり」(村上直次郎訳『イエズス会士日本通信下』)。しかし「かくのごとき人につきては洗礼を延期するを可とするがゆえに、更に十分了解するまで待つことを勧め」(同上)られ、それは先延ばしされたが、兼定が土佐へと戻ることになったので、ジョアン・バプチスタ神父よりパウロの名をもって洗礼が授けられた。
 イエズス会士の報告の記述だけでは、当然兼定の心の変化を理解することはできない。「かくのごとき人」とはいったいどういう人であったということなのだろうか。若き日に遊蕩を重ねた男に語りかけられ、その胸を打ったのは、いったいどのようなことばであったのだろうか。一人の男の転向の心理など歴史は伝えない。しかし分かりようもないこの謎こそ、わたしが兼定に惹かれた最大の理由であったと思う。
 土佐へと戻る兼定、それは内政を利用し勢力を拡大していた長曾我部元親から、今一度彼の地を奪還し、そこでキリストの教えを広めようとするものであった。大友宗麟の絶大な庇護を得た兼定は宿毛へと攻め進み城を陥れる。元親を敗走させ、「甚だよき町に立派なるコレジヨを建つることを命じ」「国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教を始めしめ」た(1576年9月9日付口之津発ポルトガルのイルマン等あてカブラル書簡、村上直次郎訳、同前)。しかし、領地回復はわずかな時間であった。元親軍と兼定軍は渡川(四万十川)を挟んで合戦し、今度は兼定が敗走したのである。
 住職が車で島内の幾つかの場所に案内してくださるというので「都には行けますか」と聞いてみた。島内には兼定に因む幾つかの地名が残されていることをwebマガジン「伊予細見」から知ったのだが、「都」というのは兼定の戸島上陸の地点であるらしい。住職は「道がないのでそこまではいけないが、近くまで行ってみましょう」といってくださった。

 都の浜を説明する千葉住職

都の浜を説明する千葉住職

 寺近くのトンネルを抜け海岸沿いをくねくねと走っていくと、やがて道は行き止まりになった。ここは島の北東側である。車を降りた住職は前方を指し示し、この裏手が都の浜だと教えてくれた。ごつごつとした岩が積み重なり、せり出した地には木が生え海に突き出しているので、彼方を望むことはできないが、住職によると、潮が引いている時間ならば、岩伝いに都の浜まで歩いて行けるのだそうだ。海は透明度が高く浅いところでは底まで見渡せる。右手には、二つの小さな島が浮かぶ。手前が小小島、奥が大小島で、大小島のほうには鉄塔が立っている。
 渡川の合戦で敗れた兼定は、カブラル神父の書簡では「味方の大身の城」に逃げたとされている(1576年9月9日付、村上直次郎訳、同前)。「味方の大身」とは法華津氏のことなので、現在の法華津湾辺りから兼定は戸島へと渡ったのだろうか。仮にそうだとすれば、都の浜はもっとも近く直線で結ばれる位置にある。
 帰りの船は16時28分に戸島を出る。多少時間があったので、本堂に戻りしばし休ませていただいた。雑談の中で一つの疑問を住職に投げかけてみた。「戸島での兼定は元親を恨み続け、最後まで復讐の念に燃えていたのでしょうか」。もちろん、住職の答えは「分からない」である。だれにも分からない。それは想像するしかない。
 四国統一の野心を抱く元親は、兼定暗殺を謀った。兼定の側近であった入江左近を抱きこみ、刺客として送ったのである。彼は「邸において垂れ幕(コルテイーナス)の後ろで眠って」いた兼定を襲い「顔、手、腕などに幾多致命的な傷を負わせ」た。辛くも一命は取り留めたが、「(良い)医師がいなかったので回復が捗らず、つねに臥せっており、あたかも身体障害者のようであった」とフロイス神父は記している(『日本史』松田毅一、川崎桃太訳)。
 兼定の心は当然憎しみに燃えただろう。しかし憎悪と復讐の念のみを生涯抱き続け孤独のうちに死んでいった傷だらけの武将が、果たしてその死後、何年、何百年経ったのちにも、「宮様」などと呼ばれ多くの庶民に親しまれるだろうか。
 死の4年前である天正9(1581)年に、兼定は巡察師ヴァリニャーノ神父と面談している。豊後へと向かうヴァリニャーノ神父が兼定のもとに使者を送ったのだが、彼は神父が近くにいることを知ると「家臣とともに小舟で(巡察)師を迎えに行」き「ある浜辺で二、三時間あまりをともに過ごした。ドン・パウロは深い喜びと慰めに包まれ、(巡察)師はそのような彼の善良さに接して心を打たれた」と『日本史』にはある(同前)。これはわたしのまったくの想像に過ぎないが、体が不自由となった兼定は、それがゆえに、最晩年には心の平安を得たのではないだろうか。だから、一人もキリシタンがいない島で、信仰を保ち、キリスト者としての生を全うできたのではないだろうか。

 高速船窓外に見る都の浜

高速船窓外に見る都の浜

 帰りの船上から都の浜を見ることができると住職に教えてもらっていたので、地図を頭に思い浮かべ左舷側の席に腰掛けた。わたしは極度の方向音痴なので、船が何度か向きを変えるうちに右も左も分からなくなってしまう可能性が大いにある。なので、大小島、小小島から目を離さぬよう、少々緊張して海に視線を向けていた。大小島の脇を通り過ぎると、左手に浜が見えた。奥行きも幅もわずかばかりの小さな浜だ。視界から外れるまで見つめ続けた。
 兼定はヴァリニャーノ神父に対して、自分が現在異教徒の中で生活していることを説明し、死の際には、異教徒の儀式によるのではなく「真のキリシタンとして我らの習慣どおりに埋葬してもらいたい」、そして自分のためにミサを捧げてほしいとの願いを告げた。しかし、その願いは叶わなかった。
 42年の生涯を終えたキリシタン大名一条兼定は仏式で葬られ、その墓は浄土宗の龍集寺にある。しかし、死後426年が経っても、島民がその墓を詣で墓前に花を手向けているのだ。そして島出身のカトリックの司教が建てた廟が、その墓を風雨から守っている。それでいい、いや、それがいいのだと強く思った。天の兼定も、微笑をたたえ、その様子を見ているのではないだろうか。

香川・愛媛の史跡(4)

愛媛県・大洲市(7月24日)
 前日夜のうちに大洲に入った。実は昨夜の宇和島は、3日間かけて行われる和霊大祭の2日目で、アーケードでは、さまざまなグループの踊りの列が、途切れることなく続いていた。和霊大祭は四国の中でも大きな祭りの一つで、中平さんの話によると、昔は祭りの際には戸島はからっぽになり、皆一年分の稼ぎをすべて使ってしまったのだそうだ。なんとも後ろ髪引かれる想いであったが、時間は限られているのでしかたがない。
 大洲でまず訪れたのは小さな子安観音堂である。日野郁子さんという愛媛在住のかたに『伊予路のかくれキリシタン』という著作があり、そこに収録されたこの子安観音堂の写真を見て興味をもったのである。そこには堂内に観音とともに収められている絵と、民俗学者の谷川健一氏が編んだ『かくれキリシタンの聖画』に収められている絵との構図の類似が指摘されている。この本はわたしも以前に買い求め所持しているので、さっそく同様の絵を捜してみた。だが、いくらページを手繰っても似た構図の絵はない。しかしあえていえば、どれというわけではなく、全体的な印象や雰囲気が、谷川氏が調査した生月の隠れキリシタンの絵との類似をなんとなく感じさせるのだ。すべてが曖昧としてはいるが、とりあえず現物を見てみようと思った。
 本には大洲市内としか記されていないのだが、ネット検索などによって、どうやら若宮という地区にあるらしいことが分かった。玉石混淆ではあるが、最近は地域密着のブログなどが充実していて、こういうものすらインターネットで捜せてしまう。しかしこれだけの情報では、土地勘のない人間には行き着けないだろう。悩んだ末、宿泊する大洲のホテルあてに、このお堂を見たいのだが場所が分からないだろうか、分かれば当日で構わないので教えてほしいと、画像プリントを添えた手紙を書いた。
 23日夜にホテルに着くと、とても丁寧に調べてくれていて、住宅地図を出して、場所を指し示してくれた。このお堂の向かいに住むかたがどうやら管理者で鍵を持っているらしいのですがと、ネットから得た知識をさらに話してみると、この家だろうと見当をつけ、連絡まで取ってくれた。そして明日の朝、車で送ってくださるという。ホテルのかたの親切には心から感謝したい。
 さて場所なのだが、伊予大洲駅裏手の、肱川との間の道を線路に沿って五郎駅方面に1キロほど進んだところである。駅表側から行くならば、国道56号(大洲街道)が予讃線の線路に接する辺りだ。

 大洲の子安観音堂

大洲の子安観音堂


観音堂内に掲げられている絵

観音堂内に掲げられている絵


子安観音像

子安観音像

 さっそく鍵を開けていただき拝観した。
 まずは件の絵である。上に雲のようなものに乗り左手に数珠を持った僧侶が描かれ、頭の辺りから光を放っている。下には布団の上に横座りになって赤子を抱き、なぜか鉢巻をしている女性がいる。後ろの襖には「降兵衣流血」などの文字が読み取れる。
 絵の具の落剥のぐあいなどから、ある程度の年代を経ているものとは推測できるが、キリスト教を思わせる要素はどこにもないように感じた。生月の隠れキリシタンの絵は、人物は和服を着て日本的でありながらも、聖書の場面や聖人の姿など、キリスト教的な要素をそこから酌むことができる。十字架など直接的な象徴が描き込まれているわけでもない。おそらくこれは仏教説話の一場面なのではないだろうか。
 気になるのは右隅にある「平井満雄」という署名だ。この署名だけは墨が黒々としているようにも見えるので、後代に書き加えられたものかもしれない。しかし、こういった絵になぜ署名があるのだろうか。以前の持ち主の名なのだろうか。
 一方、本尊の子安観音だが、片膝を立ててそれにひじを付き、頬に手を当て、左手には赤子を抱いている。この赤子の頭が小さ過ぎて体も細長く、そこだけを見ると多少奇異な印象も受けるのだが、実はそれが全体の丸みを帯びたなだらかな曲線の一部を担っていて、優しげな雰囲気を醸し出している。首に露わな補修の跡があるのだが、『伊予路のかくれキリシタン』には、以前お堂にトラックが突っ込み首が折れてしまったと説明されている。
 中に「昭和61年7月24日、改築落成記念」と書かれた写真額が掲げられてあった。住宅地にひっそりとある、長らく大切にされてきた文化財、そのことだけは間違いない。

 伊予大洲駅から、1時間に1本の一両編成ワンマン電車に乗り二つ目の伊予平野駅で下車。これから向かうのは「一条兼定仮寓の地」である。駅からの交通手段は何もない。とにかく歩かなければならない。天気は快晴。これからは気温が上昇していく時間だ。気を引き締めた。
 中学校と小学校が並ぶ前を通り県道234号に出る。これを川沿いに山のほう(西)へと歩いていく。川は小さな流れだが、水は澄み、魚の泳ぐ様子が上からも見える。手前に田、奥に背の低い山、曇は一つもない。歩く人はおろか車もほとんど通らない。鳥と?の声ばかりが響いている。途中、稲穂が頭を垂れる田もあった。これが小学生の頃社会科で習った二期作だ。もう収穫の時期だろう。

林道入口

林道入口


 一条兼定仮寓の地跡

一条兼定仮寓の地跡

 くねくねとした爪先上がりの県道を、メモを取り、写真を撮りながら40分ほど歩くと、右手に土居地区の集会所があり、その横に山へと分け入る林道が続いている。これを進むのだが、さすがに暑さで参っていたので、集会所前の日陰でしばし休んでから出発した。
 先ほどの県道より傾斜ははるかにきつい。しかし、杉木立が鬱蒼とするところでは涼しいとすら感じた。小川のせせらぎも心地よい。目の前をまるで道案内をするかのように、カラスアゲハがゆったりと優雅に飛んでいく。
 20分ほど行くと、木立が途絶えぱっと明るくなり、前方には小さな集落が見えてきた。途中道が二手に分かれるところが1箇所あったが、おそらくこちらだろうと見当を付け、右手に道をとった。
 やがて道の舗装がなくなり、幅も狭くなってきた。だいぶ歩いてきたような気がする。間違えたのだろうか。引き返そうか。でもこちらの道が正しかったら……。あれこれと思い迷ったが、とりあえず前には進んでいた。しかし、行き当たらない。汗はとめどなく流れてくる。もう引き返すしかない、そう思ったそのとき、「へんろみち」と書かれた小さな矢印の指示板が目に入った。正しかったのである。ほっとした。指示に従い林道をそれると、左手にすぐ石垣のようなものが現れ、解説を記した板が見えた。「キリシタン大名一条兼定仮寓の地」とある。流れる汗を拭いつつ本文を読んだ。しかし、あまりにも単純な誤認が多すぎる文章で、とても参考にはならない。
 ここが兼定仮寓の地とされる根拠については、小沼大八氏が『伊予のかくれキリシタン』で示している。『伊豫温故録』(宮脇通赫著、明治27年)の西宇和郡の高森城の項には「天正の初土佐國司一條兼定當城に二三年奇寓あり土佐へ歸國の時の書状」が収録されており、この表現から、兼定がここ平地に一時滞在していたことが類推されるのである。
 兼定が豊後へ流されたのが天正2年2月、渡川の合戦はその翌年に起きているので、「二三年」といわれると計算が合わない。これが1年だったとしても、兼定はほとんど豊後にはいなかったことになってしまう。
 小沼氏は、戦いに備え伊予の土豪を味方につけるための滞在だったのではと推測し、そして、この地に兼定によって「キリシタン信仰の種子が播かれ」たと述べ、青銅製キリスト像が当地で発見されたことを紹介している。
 山中にぽっかりとできたこの空間には、何を記念したものかよく分からない大きな石碑が立っていて、その裏に大洲市指定天然記念物である怪しげな格好に枝を伸ばしたヤマモモの巨木があり、それと並んで妙見菩薩像を収めた小さな堂がある。

妙見菩薩像とそれを収める堂

妙見菩薩像とそれを収める堂


妙見菩薩像

妙見菩薩像

 堂自体はさして古くはない。開けると中に堂再建の際の寄付者の名前を記した板が立て掛けてあり昭和30年と記されていた。小沼氏によれば「旧態どおりに施工した」ものだそうだ。破風の部分に二つ並んで十字の透かし彫りがある。
 妙見菩薩像は素朴な感じのする半跏の姿の石像だ。掲げた右手には剣はなく、折れてしまったようにも見える。石の台座の上に置かれていて、この台座になぜかそこだけ赤く塗られた矢筈十字が浮き彫られている。
 小沼氏はこの妙見菩薩像に矢筈十字を見た際の驚きを記している。そして「この地で土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、妙見信仰と習合した姿なのだろう」と述べているが、これはどうかと思う。日蓮宗の霊場、能勢妙見山の寺紋は、能勢家と同じで矢筈十字である。だから妙見菩薩に矢筈十字という組み合わせは珍しくはないのではないだろうか(もっとも矢筈十字自体にキリシタンの影響を指摘する説もあるが)。キリシタンの信仰が何かと混じった形といった推測は、よっぽどの根拠がないかぎり、軽々とはいわないでほしいと思う。
 並びにある墓地の中の特に古そうな墓石を幾つか見たりした後、遍路みちをもう少し先へ歩いてみようと思った。するとすぐに蜘蛛の巣に邪魔をされた。この特集取材では毎回のようなことだ。どこへ行ってもこれに困らせられる。適当な枝を拾い、振り回しながら先に進んだが、何せ夏真っ盛り、下草の伸び方が尋常ではない。あまりにも鬱蒼としていて、やむなく断念した。
 帰りは下りなのでいささかは楽だ。羽を輝かしてヤンマが飛んでいく。鶯の声が山間に響く。杉の根方で咲いている背の高い百合のような花が印象的だったが、名は分からない(戻ってから調べたのだが、おそらくウバユリという名の花だと思う)。栗の木には青い実が生っている。
 ようやく集会所のところまで来ると、一気に疲労を覚えた。これだけの暑さの中を歩くとさすがに疲れる。これから先、県道には日を遮るものはない。宇和島で田中神父に、愛媛では日に焼けることを「焦げる」というと教えてもらったのだが、今日一日だけでもずいぶんと「焦げた」だろう。
 駅に向かってとぼとぼ歩いていると、向こうから中学生らしき制服を着た少女が自転車で上ってくる。こんな坂道を毎日自転車で通学しているのかと驚きの目で見ていたのだが、その距離が狭まったとき、突然「こんにちは」とあいさつされた。うっかりして帽子を取るのを忘れたが、あわててこちらもあいさつを返した。肩の辺りに力を込め右に左に体を揺すって懸命にペダルをこぐ彼女は、それでも颯爽といいたくなる印象を残し去っていった。
 お遍路さんの文化になじむこの土地では、見知らぬよそ者にあいさつをすることが、当たり前のこととして定着しているのだろう。それにしても、なんとも清々しい気持ちになった。計らずも与えられた、旅の最高の締めくくりであった。日に焼けた少女の頬に浮んだ笑みが、いつまでも脳裏を離れなかった。

 四国編と題した今回の特集だが、時間的な制約もあり、十分なものとはならなかったことは承知している。また、「史跡をめぐる」という本特集の性格もあって、讃岐で殉教したアントニオ石原孫右衛門や、土佐出身で日本205福者に数えられるパウロ田中・マリア田中夫妻などを取り上げることができなかったことは心残りに感じている。地元のかたには何卒ご寛恕願いたい。
(奴田原智明)

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