教皇ベネディクト十六世の325回目の一般謁見演説 ヨハネの黙示録における祈り

9月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の325回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から始めた「祈り」についての連続講話を再開し、「ヨハネの黙示録 […]


9月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の325回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から始めた「祈り」についての連続講話を再開し、「ヨハネの黙示録における祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。休暇による中断の後、今日からバチカンにおける謁見を再開します。そして、水曜謁見で皆様とご一緒に行ってきた「祈りの学びや」を再開します。
 今日はヨハネの黙示録における祈りについてお話ししたいと思います。ご存じのとおり、ヨハネの黙示録は新約の最後の書です。ヨハネの黙示録は難解な書ですが、きわめて豊かな内容をもっています。この書は、「主の日」(黙示録1・10)に集まったキリスト者の会衆の生き生きと脈打つ祈りに触れさせてくれます。実際、テキストを動かす基調となっているのは、この祈りなのです。
 一人の朗読する人が、主から福音書記者ヨハネにゆだねられたメッセージを会衆に示します。朗読する人と会衆は、いわば、この書が展開する上での二人の主人公です。初めから終わりまで、この両者に喜びに満ちたあいさつが告げられます。「この預言のことばを朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(黙示録1・3)。この両者の絶えざる対話から、祈りの交響楽が湧き上がります。そしてこの祈りの交響楽は、結びに至るまで、きわめて多様な形で展開します。メッセージを示す朗読者に耳を傾け、また、メッセージにこたえる会衆に耳を傾け、目を注ぎながら、彼らの祈りはわたしたちの祈りとなることを目指します。
 黙示録の第一部(1・4~3・22)は、会衆の祈りの態度の中で、連続する3つの段階を示します。第一の段階(1・4-8)は、集まったばかりの会衆と朗読する人の間で行われる対話(それは新約の中に見られる唯一の対話です)から構成されます。朗読する人は祝福のあいさつを告げます。「恵みと平和があなたがたにあるように」(1・4)。朗読する人は、このあいさつがどこに由来するかを強調しながら、続けていいます。このあいさつは、父と聖霊とイエス・キリストの三位一体の神に由来します。この三位一体の神が、人類のための創造と救いの計画をともに実行するからです。会衆は耳を傾け、イエス・キリストの名が告げられるのを聞くと、喜びに震え、次の賛美の祈りをささげながら、熱狂的にこたえます。「わたしたちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださったかたに、わたしたちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司としてくださったかたに、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(1・5b-6)。キリストの愛に包まれた会衆は、罪の束縛から解放されたことを自覚し、自らをイエス・キリストによる「王」と呼びます。この「王」は、完全にイエス・キリストに属します。彼らは洗礼によって自分たちに大きな使命がゆだねられたことを認めます。それは、世に神の現存をもたらすという使命です。この賛美の祭儀を終えるにあたり、彼らはあらためてイエスに目を注ぎ、いよいよ熱狂的に、人類を救うための「栄光と力」を認めます。最後に「アーメン」をもって、キリストへの賛美の歌を締めくくります。この最初の4節は、わたしたちにきわめて豊かな示唆を与えます。それはわたしたちにこう語ります。わたしたちの祈りは何よりもまず、わたしたちに語りかける神に耳を傾けることでなければなりません。わたしたちは多くのことばに埋もれているため、耳を傾けることに不慣れです。とりわけ、外的また内的な沈黙の態度をもって、神が語ろうとすることに注意を向けることに不慣れです。さらにこの箇所はわたしたちに教えます。わたしたちの祈りはしばしば単なる願いにとどまります。しかし、祈りは何よりもまず、神への賛美とならなければなりません。神の愛のゆえにです。わたしたちに力と希望と救いをもたらした、イエス・キリストのたまもののゆえにです。
 さらに、朗読する人のもう一つのことばが、キリストの愛に捕らえられた会衆に呼びかけます。自分の生活の中で、キリストの現存を捕らえようと努めなさい。朗読する人は次のようにいいます。「見よ、そのかたが雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」(1・7a)。イエス・キリストは、超越の象徴である「雲」に覆われて天に上げられた後(使徒言行録1・9参照)、天に上げられたのと同じありさまで戻って来られます(使徒言行録1・11b参照)。今やすべての民族がこのことを認め、聖ヨハネが第4福音書で述べるとおり、「自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19・37)のです。彼らは、そのためにイエスが十字架につけられた、自分たちの罪を思い、カルワリオ(されこうべ)で直接、十字架につけられたかたを見、「胸を打った」(ルカ23・48参照)者として、イエスにゆるしを願います。それは、生涯イエスに従い、イエスが最後に戻って来られた後、イエスとの完全な交わりに入る準備をするためです。会衆はこのメッセージを考察してから、いいます。「然り、アーメン」(黙示録1・7b)。彼らはこの「然り」によって、自分たちに告げられたすべてのことを完全に受け入れることを表します。そして、それが本当に現実となることを願います。会衆の祈りは、十字架上で最高の形で示された神の愛を黙想し、キリストの弟子として一貫性をもって生きたいと願うのです。神は次のようにこたえます。「今おられ、かつておられ、やがて来られるかた、全能者がこういわれる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(1・8)。神はご自分が歴史の始まりと終わりであることを示します。それゆえ神は、会衆の願いを受け入れ、心にとめてくださいます。神は、昔も今も未来も現存し、かつてと同じように、現在も未来においても、最終目的に到達するまで、人間の歴史の中で愛をもって働かれます。これが神の約束です。わたしたちはここで、もう一つの重要な要素も見いだします。絶えざる祈りは、わたしたちのうちで、自分たちの生涯と歴史における主の現存への意識を呼び覚まします。また、この主の現存は、わたしたちを支え導き、ある種の人間的な出来事の暗闇のただ中にあっても、大きな希望を与えてくれます。さらに、あらゆる祈りは、徹底的な孤独のうちにささげる場合にも、決して孤立したものでも、むだなものでもなく、むしろ、生きた樹液として、キリスト教的生活に糧を与え、それをますます熱心で一貫したものとするのです。
 会衆の祈りの第二段階(1・9-22)は、イエス・キリストとの関係をさらに深めます。主はご自身を見させ、語り、行動します。すると共同体は、ますます主に近づいて、耳を傾け、こたえ、受け入れます。朗読する人が示すメッセージの中で、聖ヨハネはキリストと出会った個人的な体験を語ります。聖ヨハネは「神のことばとイエスのあかしのゆえに」(1・9)、パトモスという島にいました。それは「主の日」(1・10a)、すなわち、主の復活を祝う主日のことでした。聖ヨハネは「“霊”に満たされて」(1・10a)いました。聖霊が彼を満たし、新たにし、イエスを受け入れる力を大きくしました。そしてイエスは彼に、書き記すように命じます。耳を傾ける会衆の祈りは、少しずつ観想的な姿勢を身につけ始めます。この姿勢は、「見る」、「目を注ぐ」という動詞で示されます。すなわち、彼らは朗読する人が示すものを観想し、それを内面化し、自分のものとしていくのです。
 ヨハネは「ラッパのように響く大声」(1・10b)を聞きます。その声は、彼がメッセージを小アジアにある「七つの教会に」(1・11)送るようにと、また、これらの教会を通して、自分たちの牧者であるかたに結ばれた、あらゆる時代のすべての教会に送るようにと命じます。出エジプト記(同20・18参照)からとられた「ラッパの・・・・声」ということばは、シナイ山でのモーセに対する神の顕現を思い起こさせます。そして、天から、すなわちすべてを超えたところから語る神の声を示します。このことばを語るのは、復活したイエス・キリストです。復活したイエス・キリストは、父の栄光の座から、神のみ声をもって、祈る会衆に語るのです。ヨハネが「声の主を見ようとして」(1・12)振り向くと、「七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のようなかたがおられた」(1・12-13)。「人の子」は、ヨハネがとくに好んで用いる、イエスご自身を示すことばです。ろうそくに火をともした七つの燭台は、典礼の祈りをささげる、あらゆる時代の教会を表します。復活したイエス、すなわち「人の子」が、彼らのただ中におられ、旧約の大祭司の衣を着て、御父のみ前で仲介者の祭司職を果たします。ヨハネの象徴的なメッセージでは、復活したキリストの光輝く顕現が続きます。この輝きは、旧約で繰り返し現れる、神に固有の特徴です。ヨハネは「その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く」(1・14)と述べます。白は神の永遠性と(申命記7・9参照)復活の象徴です。第二の象徴は炎です。炎は旧約において、神の二つの属性を表すためにしばしば用いられます。第一の属性は、人間と契約を結ぶよう促した、神の愛の燃えるような深さです(申命記4・24参照)。これと同じ燃えるような愛の深さが、復活したイエスのまなざしのうちに見いだされます。「目はまるで燃え盛る炎」(黙示録1・14a)。第二の属性は、「焼き尽くす火」(申命記9・3)のように悪を打ち滅ぼす不屈の力です。それゆえ、悪に立ち向かい、悪を滅ぼすために歩むイエスの「足」も、「炉で精錬されたしんちゅうのように輝き」(黙示録1・15)ます。さらに「大水のとどろきのよう」(1・15c)なイエス・キリストの声は、預言者エゼキエルが述べる、エルサレムに向かう「イスラエルの神の栄光」(エゼキエル43・2参照)の大きな音を響かせます。さらに3つの象徴的な要素が続き、復活したイエスがご自分の教会にしようとしていることを示します。イエスは教会を右の手で(これもきわめて重要な象徴です)しっかりと持っておられます。イエスは右の手で教会を持ちます。鋭い剣のような鋭利なことばで教会に語りかけます。そして、ご自分の神性の輝きを教会に示します。「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1・16)。ヨハネは復活したイエスについて、このような驚くべき体験を行いました。そこで彼は、イエスの足もとに倒れて、死んだようになりました。
 使徒ヨハネがこのような啓示を体験した後、主イエスは彼の前に立っておられました。そしてイエスは、彼に語りかけ、力づけ、頭の上に手を置いて、ご自分が十字架につけられて復活した者であることを示し、ご自分のメッセージを教会に伝えるという使命をゆだねます(黙示録1・17-18参照)。神のみ前で倒れ、死んだようになるのはすばらしいことです。イエスは生涯の友であり、手を頭の上に置きます。これはわたしたちにもいえます。わたしたちはイエスの友です。そこから、復活した神、すなわち復活したキリストの啓示は、恐ろしいものではなくなり、むしろ友との出会いとなります。黙示録の共同体も、ヨハネとともに主のみ前で特別な光の時を味わいます。しかし彼らは皆、日々のイエスとの出会いを体験していました。主との豊かな触れ合いを感じていました。主は人生のあらゆるときを満たしてくださるのです。
 黙示録の第一部の第三の、そして最後の段階(黙示録2~3章)の中で、朗読する人は会衆に7つのメッセージを示します。このメッセージの中でイエスは一人称で語ります。小アジアのエフェソの周りにある7つの教会にあてたイエスの説教は、それぞれの教会の特別な状況から出発します。やがてそれはあらゆる時代の教会へと拡張されます。イエスはすぐにそれぞれの教会の状況のただ中に入り、その中にある光と闇を明らかにし、切迫した課題を告げます。「悔い改めよ」(2・5、16、3・19c)。「持っているものを固く守りなさい」(3・11)。「初めのころの行いに立ち戻れ」(2・5)。「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(3・19b)。・・・・信仰をもって耳を傾けるなら、イエスのこれらのことばはただちに効果を表し始めます。教会は、祈り、主のことばを受け入れることによって、造り変えられます。すべての教会は、主に注意深く耳を傾け、霊に心を開かなければなりません。イエスが7回、繰り返して命じたとおりです。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(2・7、11、17、29、3・6、13、22)。会衆はこのメッセージに耳を傾け、悔い改め、回心し、耐え忍び、愛を深め、歩みを方向づけるよう駆り立てられました。
 親愛なる友人の皆様。ヨハネの黙示録は、祈りによって結び合わされた共同体をわたしたちに示します。わたしたちは祈ることによって、わたしたちとともに、わたしたちのうちにイエスがおられることをますます深く感じるようになるからです。わたしたちは、絶えず深く祈れば祈るほど、いっそうイエスと似たものとなります。またイエスも本当にわたしたちの生活の中に入って来られ、わたしたちの生活を導き、喜びと平和を与えてくださいます。わたしたちは、イエスを深く知り、愛し、従うほど、しばしの間、イエスとともに祈らなければならないことをますます感じます。それは、自分たちの生活の中で落ち着きと希望と力を与えられるためです。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP