教皇ベネディクト十六世の2012年9月9日の「お告げの祈り」のことば エッファタ

教皇ベネディクト十六世は、年間第23主日の9月9日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第23主日の9月9日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は、9月14日(金)から16日(日)にかけて行うレバノン訪問を前にして、フランス語で次のように述べました。なお、同テキストはアラビア語・イタリア語訳も合わせて発表されています。
「ここにおられる親愛なる巡礼者の皆様、またラジオやテレビを通じてこの『お告げの祈り』に参加しておられる皆様。数日後、わたしはレバノンに使徒的訪問を行います。それは、2010年10月に開催された中東のための世界代表司教会議(シノドス)特別総会の実りであるシノドス後の使徒的勧告に署名するためです。この訪問で、レバノン国民と政府関係者、また愛するレバノンのキリスト信者と近隣諸国から来たキリスト信者の皆様にお会いできることをうれしく思います。わたしはこの地域の人々が経験してきた、しばしば悲惨な状況をよく存じております。彼らは長い間、絶え間のない紛争によって傷つけられてきたからです。わたしは多くの中東の人々の苦悩を理解します。彼らは日々、さまざまな苦しみを味わっており、この苦しみは、残念ながら、ときには個人と家族の生命をも奪っているからです。わたしは、平和な場所を求めて家庭生活と職業生活を離れ、不安定な難民生活を送っている人々にも思いを致します。この地域にかかわるさまざまな問題の解決を見いだすのは困難に見えます。しかし、暴力と緊張の激化に屈してはなりません。対話と和解のための努力を、すべての関係者が優先しなければなりません。この努力を国際社会も支えなければなりません。国際社会は、中東地域全体の安定した恒久的平和が全世界にとっても重要であることをますます意識しているからです。わたしのレバノンへの、そして広い意味で中東全体への使徒的訪問は、平和のしるしのもとに行われ、次のキリストのことばをテーマとします。『わたしは、あなたがたにわたしの平和を与える』(ヨハネ14・27)。神がレバノンと中東を祝福してくださいますように。皆様をも祝福してくださいますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の福音(マルコ7・31-37)の中心にあるのは、きわめて重要な短いことばです。このことばは、深い意味で、キリストのメッセージとわざの全体を要約します。福音書記者マルコはこのことばをイエスの用いた言語自体で伝えます。イエスがご自分の言語でこのことばを唱えるため、わたしたちはいっそう生き生きとそれを感じるのです。このことばは「エッファタ」です。「エッファタ」とは「開け」という意味です。このことばが位置づけられる文脈を見てみたいと思います。イエスは、沿岸部のティルスやシドンを経て、「デカポリス」と呼ばれる地方を通り、ガリラヤに来られました。それゆえ、これはユダヤ教でない地域です。人々は、いやしてもらうために、耳が聞こえず舌の回らない人をイエスのところに連れて来ます。いうまでもなく、イエスの評判がこの地方にも広まっていたからです。イエスはその人を連れ出し、耳と舌に触れ、それから天を仰いで深く息をついて、いわれます。「エッファタ」。これはまさに「開け」という意味です。するとその人はたちまち耳が開き、はっきり話すことができるようになります(マルコ7・35参照)。それゆえ、このことばの歴史的な、文字通りの意味はこれです。イエスのわざのおかげで、この耳が聞こえず舌の回らない人が「開かれます」。それまで彼は閉じこもり、孤立していました。彼にとってコミュニケーションを行うことはきわめて困難でした。彼にとって、いやしは、他者と世界に「開かれること」でした。この開放は、聞き、話すための器官から始めて、彼の人格と生活の全体に及びました。ついに彼はコミュニケーションを行い、そこから、新しいしかたで自分を伝えることが可能となりました。
 しかし、わたしたち皆が知っているとおり、この人が閉ざされ、孤立していたのは、感覚器官のせいだけではありません。それは、聖書が「心」と呼ぶ、人格の深い中心にかかわる、内的な閉塞です。この「心」を開き、解放するためにイエスは来られました。それは、わたしたちが神と他の人々との関係を完全に生きることができるようにするためです。だからわたしは、この「エッファタ(開け)」という短いことばが、それだけでキリストの使命全体を要約すると述べたのです。キリストが人となられたのは、罪によって耳が聞こえず舌の回らなくなった人間が、神のことばを聞くことができるようにするためです。人間の心に語りかける、愛であるかたのことばを聞くことができるようにするためです。そこから人間は、自らも愛のことばを語り、神また他の人々と語り合うことを学ぶことができるようになります。そのため「エッファタ」ということばと動作は、洗礼式の意味を説明するしるしとして、洗礼式に取り入れられました。司祭は、受洗者の口と耳に触れながら「エッファタ」と唱えます。そして、受洗者が神のことばを聞き、信仰を宣言できるように祈ります。人間は、洗礼によって、いわば聖霊を「呼吸」し始めます。イエスはこの聖霊を、耳が聞こえず舌の回らない人をいやすために、深く息をついて御父に祈り求めたのです。
 昨日わたしたちは聖マリアの誕生を祝いました。至聖なるマリアに祈りたいと思います。マリアは、受肉したみことばとの独自の関係のゆえに、主の愛へと完全に「開かれた」かたです。マリアの心はつねに主のことばに耳を傾けます。マリアの母としての執り成しによって、わたしたちが日々、信仰のうちに、「エッファタ」の奇跡を体験することができますように。神と兄弟との交わりを生きることができますように。

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