教皇ベネディクト十六世の2012年9月23日の「お告げの祈り」のことば わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる

教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月23日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月23日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「昨日(9月22日)、フランスの町トロワで、19世紀の人で、フランソア・ド・サル奉献修道会創立者のルイ・ブリッソン(Louis Brisson 1817-1908年)が列福されました。わたしもトロワの教区共同体と新しい福者の霊的子らとともに喜びのうちに感謝します」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 聖マルコによる福音書とともに歩むわたしたちは、先週の主日から福音書の後半に歩み入りました。すなわち、イエスの使命の頂点であるエルサレムへ向かう最後の旅です。ペトロが弟子たちを代表してイエスへの信仰を告白し、イエスはメシアだと認めた後(マルコ8・29参照)、イエスは最後に起こる出来事についてはっきりと話し始めました。福音書記者マルコは、8、9、10章で三度、死と復活の予告が行われたことを述べます。この予告の中で、イエスは、自分を待ち受ける運命と、それがどうしても必要であることをますますはっきりと告げます。今日の主日の箇所ではこの告知の第二のものが示されます。イエスはいいます。「人の子(これはイエスご自身を意味することばです)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9・31)。弟子たちは「このことばが分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)。
 実際、マルコの記事のこの部分を読むと、イエスと弟子たちの間に深い内的な隔たりがあったことが明らかになります。そこにはいわば二つの異なる波長が存在します。そのため、師であるかたの話が理解できないのです。あるいは、表面的な意味でしか理解できないのです。使徒ペトロは、イエスへの信仰を告白した後すぐ、イエスをいさめます。イエスが、自分は排斥され、殺されなければならないと予告したからです。受難の第二の予告の後、弟子たちは自分たちの中でだれがいちばん偉いか議論し合います(マルコ9・34参照)。そして第三の予告の後、ヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けるとき、その右と左に座らせてほしいと願います(マルコ10・35-40参照)。しかし、この隔たりを示す別のしるしもあります。たとえば、弟子たちは癲癇(てんかん)を患う若者をいやすことができません。そこでイエスは祈りの力によってこの若者をいやします(マルコ9・14-29参照)。また、子どもたちがイエスに触れてもらうために連れて来られたとき、弟子たちは人々を叱りつけます。しかしイエスは憤り、子どもたちをとどまらせて、こういわれます。子どものような者でなければ神の国に入ることはできないと(マルコ10・13-16参照)。
 これらすべてのことはわたしたちに何を語っているでしょうか。それは、神の考え方が常にわたしたちの考え方と「異なる」ことを思い起こさせてくれます。神ご自身が預言者イザヤの口を借りて示しておられるとおりです。
 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なる」(イザヤ55・8)。
そのため、主に従うことは、人間に、すなわちわたしたち皆に、深い回心を常に要求します。考え方、生き方の転換を要求します。心を開いて耳を傾け、内的に照らされ、造り変えてもらうことを要求します。神と人間の違いの中心は、傲慢にあります。神には傲慢はありません。神はすべてにおいて完全であり、愛し、いのちを与えるために完全に身をささげるからです。これに対して、人間においては、傲慢が深く根を下ろしており、絶えざる警戒と清めが必要です。わたしたちは小さな者なので、偉く見えること、いちばん先になることを望みます。しかし、神は真に偉大なかたなので、へりくだって、いちばん後になることを恐れません。おとめマリアは完全な意味で神と「波長の合った」かたです。信頼を込めてマリアに祈り求めようではありませんか。どうかイエスに忠実に従って愛と謙遜の道を歩めるよう、わたしたちを教え導いてください。

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