教皇ベネディクト十六世の328回目の一般謁見演説 典礼における祈り

9月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の328回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、祈りに関する連続講話を再開し、新たに「典礼における祈り」についての考察を開始し […]


9月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の328回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、祈りに関する連続講話を再開し、新たに「典礼における祈り」についての考察を開始しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 この数か月間、神のことばに照らされながら歩みを進め、いっそう真実なしかたで祈ることを学ぼうとしてきました。そのためにわたしたちは、旧約、詩編、パウロの手紙、そしてヨハネの黙示録における偉大な人物たちに目を向けました。また何よりも、天におられる父との関係におけるイエスの独自で根本的な経験に目を向けました。実際、人間はイエスと結ばれることによってのみ、イエスを愛された父に対する子として、深くまた親密なしかたで神と自分を一致させることができるのです。わたしたちはイエスと結ばれることによってのみ、本当の意味で神に向かい、愛情をこめて「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのです。使徒たちと同じように、この数週間の間、繰り返し述べてきたのと同じことばを、今日もイエスに繰り返しいいたいと思います。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。
 
さらにわたしたちは、神との個人的な関係をもっと深く生きるために、復活した主が信じる者に与えた最初のたまものである、聖霊に祈り求めることを学んできました。なぜなら、聖パウロがいうとおり、聖霊は「弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知らないからです」(ローマ8・26)。わたしたちはこれが真実であると知っています。
 
聖書における祈りについて長い連続講話を行った後、ここで次の問いが湧き上がります。わたしたちはどのようにして聖霊から祈りを学ぶことができるのでしょうか。そして、神の雰囲気のうちに歩み入り、祈ることができるようになるのでしょうか。神がそこでわたしに祈りを教え、正しいしかたで神に向かうのを助けてくれるような学びやとは、どのようなものでしょうか。祈りの第一の学びやは、これまでの数週間にお示ししたとおり、神のことば、すなわち聖書です。聖書は、神と人間の絶えざる対話です。それも、神がその中でますますわたしたちに近づいてご自身を示してくださる、継続的な対話です。わたしたちはこの対話の中で、ますます神のみ顔と声と存在を知ることができます。人は神を受け入れ、知り、神と語ることを学びます。それゆえわたしたちは、これまでの数週間の間、聖書を読みながら、この聖書における絶えざる対話を探求しました。そして、どうすれば神に触れることができるかを学びました。
 
祈りを深めるためのもう一つの貴重な「場」、もう一つの貴重な「源泉」があります。それは先に挙げたものと密接にかかわる、生きた水の湧き出る泉です。すなわち典礼です。典礼は、神が今ここでわたしたち一人ひとりに語りかけ、わたしたちのこたえを待ち望む、特別な領域です。
 
典礼とは何でしょうか。『カトリック教会のカテキズム』を開くと(『カトリック教会のカテキズム』は、常に貴重で、いわば不可欠の教材です)、次のように書かれています。「典礼」という語は元々「公衆の名で、あるいは公衆のために行われる奉仕」(同1069)という意味をもっています。キリスト教神学がこの語をギリシア世界から採用したのは、いうまでもなく、この語によってキリストから生まれた新しい神の民を表すためでした。キリストは十字架上で両手を広げ、人類を唯一の神の平和のうちに一致させたからです。「公衆のために行われる奉仕」というときの公衆(民)は、自分で存在するのではありません。むしろそれは、イエス・キリストの過越の神秘のおかげで形づくられます。実際、神の民は血縁、地縁、あるいは民族のつながりによって存在するのではありません。むしろそれは常に、神の子のわざから、御子がわたしたちに与えてくださった父との交わりから生まれるのです。
 
『カテキズム』はさらに次のように示します。「典礼」という語は、「キリスト教の伝承では、神の民が『神のみわざ』に参与することを意味しています」(同1069)。なぜなら、神の民は、本来、神のわざによってのみ存在するからです。
 
第二バチカン公会議の展開そのものがこのことをわたしたちに思い起こさせてくれます。第二バチカン公会議は50年前、典礼についての草案の議論をもって作業を開始しました。この草案は1963年12月4日に正式に承認され、公会議で最初に承認された文書となりました。典礼に関する文書が公会議の最初の成果だったことは、偶然だと考える人もいるかもしれません。多くの提案の中で、典礼に関する文書はあまり論争の余地のないものに思われました。そのため、公会議の議論の方法を覚えるためのいわば練習となることができました。しかしいうまでもなく、一見したところ偶然と思われることが、きわめて正しい選択であったことが分かりました。そのことは、テーマの序列と、教会のもっとも重要な任務から見てもいえます。実際、公会議は、「典礼」というテーマから始めることにより、神を第一に優先すべきこと、神こそが絶対的な優先課題であることを明白にしました。何にもまして神を第一に優先すべきである――典礼から出発するという公会議の選択は、このことをわたしたちに語るのです。神に目を注ぐことが決定的に重要だと考えなければ、他のすべてのことは方向性を失います。典礼にとって根本的な基準は、神への方向づけです。それは、わたしたちが神のみわざに参与することができるためです。
 
ここで次の問いが生じます。わたしたちが参与するよう招かれている、神のわざとは何でしょうか。『典礼憲章』が示す答えは、一見すると二つであるように見えます。実際、第5項はこう述べます。神のわざとは、わたしたちに救いをもたらし、イエス・キリストの死と復活によって頂点に達した、歴史における神のわざです。しかし、『典礼憲章』は第7項で、典礼祭儀そのものが「キリストのわざ」だと述べます。実際には、この二つの意味は切り離しがたく結びついています。世と人間を救うのはだれかと問うなら、答えは一つです。ナザレのイエスです。十字架につけられて復活した、主キリストです。ところで、救いをもたらすキリストの死と復活の神秘は、今日、わたしたちのため、わたしのために、どこで現実のものとなるでしょうか。答えはこれです。それは、典礼、特に聖体の秘跡とゆるしの秘跡の中で、教会を通じて、キリストが行うわざにおいてです。聖体の秘跡は、わたしたちをあがなってくださった神の子のささげた犠牲を現実化します。ゆるしの秘跡を通じて、わたしたちは罪の死から新しいいのちへと過ぎ越します。他の秘跡行為もわたしたちを聖化します(『司祭の役務と生活に関する教令』5参照)。ですから、公会議の典礼神学の中心は、キリストの死と復活による過越の神秘です。
 
もう一歩進んで、次のように問いたいと思います。このキリストの過越の神秘の現実化はどのようにして可能になるのでしょうか。福者教皇ヨハネ・パウロ二世は『典礼憲章』発布25周年に際して、次のように述べました。「キリストはご自身の過越の神秘を現実化するために、常に教会の中に、とりわけ典礼行為の中に現存されます。したがって、典礼は、キリスト信者が、神と出会い、また神が遣わされたかたであるイエス・キリスト(ヨハネ17・3参照)と出会うための特別な場です」(使徒的書簡『ヴィチェシムス・クイントゥス・アンヌス(1988年12月4日)』7:Vicesimus quintus annus)。このことに関連して『カトリック教会のカテキズム』は次のように述べます。「秘跡祭儀は、キリストと聖霊とにおける神の子らの御父との出会いです。この出会いは、動作とことばを介する対話という形で表現されます」(同1153)。それゆえ典礼祭儀をよく行うためにどうしても必要なのは、祈りと、神との対話です。まず耳を傾け、それからこたえることです。聖ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)は『戒律』(Regula)の中で、詩編を唱える態度について述べた箇所で、修道士に次のように命じます。「心が声と調和するようにしなければなりません(mens concordet voci)」(同19・7〔古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、112頁〕)。聖ベネディクトゥスは、詩編を唱えるとき、ことばがわたしたちの心より先に来なければならないと命じます。普通はこのようには行いません。わたしたちはまず初めに考える必要があります。それから、考えたことをことばにします。しかし、典礼においては逆に、ことばが先に来るのです。神がわたしたちにことばを与えてくださいます。典礼がわたしたちにことばを与えます。わたしたちがしなければならないのは、ことばの中に歩み入り、その意味を悟り、自分の心に受け入れ、ことばと自分を調和させることです。このようにしてわたしたちは神の子となり、神と似た者となります。ですから『典礼憲章』はこう述べます。祭儀がもっとも完全な効果を上げるために「信者が正しい心構えで聖なる典礼に近づき、心と声を合わせ、天来の恩恵に協力して、それをむだに受けないようにする必要がある」(同11)。典礼における神との対話にとって根本的で第一の要件は、口で唱えることと心に思うことが調和することです。わたしたちは、偉大な歴史をもつ祈りのことばに歩み入ることによって、このことばの精神に似せて形づくられ、神と語ることができるようになるのです。
 
このことに関して、わたしは、典礼の中のある瞬間についてのみ触れたいと思います。この瞬間は、今述べた調和を見いだし、典礼祭儀の中で聞き、語り、行うことと自分を一致させるようにわたしたちに呼びかけ、またそのための助けとなるものです。それは、感謝の祈りの前に司式者が唱える、次の招きのことばです。「心を上げよう(Sursum corda)」。もつれ合った自分の心配、望み、不安、不注意から出て、心を上げようではないか。わたしたちの心、自分の内面を、神のことばに向けて素直に開き、教会の祈りに集中させなければなりません。それは、わたしたちが聞き、唱えることばそのものから、神への方向づけを受け取るためです。心の目を、わたしたちのただ中におられる主に向けなければなりません。これこそが根本的な心構えです。
 
このような基本的な心構えをもって典礼に参加するとき、わたしたちの心はあたかも重力から解放されたかのように思われます。重力は心を低いところに引き寄せるからです。そしてわたしたちは内面的な意味で高いところに上げられます。真理へと、愛へと、神へと上げられます。『カトリック教会のカテキズム』が述べるとおりです。「教会の秘跡の典礼において救いの神秘を告げ、現在化し、共有化させるというキリストと聖霊の使命は、祈る人々の心の中で続けられます。霊性に造詣が深い教父たちは時として、人の心を祭壇になぞらえます」(同2655)。「わたしたちの心は神の祭壇です(altare Dei est cor nostrum)」。
 
親愛なる友人の皆様。典礼をよく祝い、味わうためには、祈りの態度のうちにとどまらなければなりません。「何かをすること」や、自分を見てもらうことを望むのではなく、むしろ心を神に向けなければなりません。祈りの態度をもって、キリストの神秘と、キリストが行う父と子の対話と一致しなければなりません。聖パウロがいうとおり(ローマ8・26参照)、わたしたちにどう祈るかを教えてくださるのは神ご自身です。神ご自身が、神に向かうための適切なことばをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちはこのようなことばを、詩編や、典礼の偉大な祈り、また感謝の祭儀の中に見いだします。主に祈ろうではありませんか。日々、典礼が神と人間のわざであることをますます自覚させてください。祈りは、聖霊とわたしたちから出て、人となられた神の御子と結ばれ、そのまま御父へと向けられるのです(『カトリック教会のカテキズム』2564参照)。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP