教皇ベネディクト十六世の330回目の一般謁見演説 第二バチカン公会議文書について

10月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の330回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、第二バチカン公会議開幕50周年の前日にあたり、公会議文書について考察しました […]


10月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の330回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、第二バチカン公会議開幕50周年の前日にあたり、公会議文書について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

この日、教皇は謁見の中で初めてアラビア語を用いて次のあいさつを行いました。
「教皇はアラビア語を話すすべてのかたがたのために祈ります。神が皆様を祝福してくださいますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 明日、わたしたちは第二バチカン公会議開幕50周年と「信仰年」開始を祝います。今日の講話から、わたしはささやかな考えをもって、公会議という教会の偉大な出来事の考察を始めたいと思います。わたしはこの出来事を直接目の当たりにしたからです。公会議はいわば、聖霊の導きのもとに、多様性をもって描かれた大きなフレスコ画のように思われます。そしてわたしたちは、優れた絵の前に立つのと同じように、現代においてもこの恵みの時から特別な豊かさをくみ取り、特別なことばとテキストと断片を再発見し続けます。
 福者ヨハネ・パウロ二世は第三千年期の初めにあたって、こう述べました。「わたしは、教会が20世紀を豊かにした最大の恵みとして公会議を指し示す義務を、今までより深く感じています。この中に、わたしたちに新しい世紀の歩みの方向性を与える確実な羅針盤が提供されているのです」(使徒的書簡『新千年期の初めに』57:Novo millennio ineunte)。わたしはこのたとえはきわめて豊かな意味をもっていると思います。ところで、多くの出版物はしばしば第二バチカン公会議公文書を示すのでなく隠蔽してしまいます。わたしたちはこれらの出版物から公会議公文書を解放して、公文書に立ち戻る必要があります。現代においても、公会議公文書は、嵐のときであれ凪(なぎ)のときであれ、教会という船が大海を進むことを可能にする羅針盤です。こうして教会は安全に航海して目的地に到着することができます。
 わたしは当時のことをよく覚えています。当時わたしはボン大学の若き基礎神学教授でした。そして、わたしの人間としてまた司祭としての基準であったケルン大司教のフリングス枢機卿が、わたしを神学顧問としてローマに伴ったのです。やがてわたしは公会議の顧問神学者にもなりました。わたしにとってそれは特別な体験でした。準備期間の興奮と熱狂の後、わたしは生きた教会を目の当たりにすることができました。全世界から来た約3000人の公会議教父が使徒ペトロの後継者の指導のもとに集まりました。そして教皇は聖霊の学びやに身を置きました。聖霊こそが公会議のまことの導き手だからです。当時のように、教会の普遍性にいわば具体的に「触れる」機会は歴史の中で滅多にありません。それは、教会が福音をあらゆる時代、世界のあらゆる場所にもたらす使命を果たす偉大な瞬間でした。現代でも、この大公会議が開幕される映像をテレビや他のメディアを通して見るなら、皆様もこの偉大な光輝く出来事に参加することがわたしたち皆に与えた喜びと希望と励ましを感じることができるに違いありません。その光は現代までも照らし続けています。
 皆様もご存じと思いますが、教会史の中では第二バチカン公会議に先立ってさまざまな公会議が開催されました。通常、こうした大きな教会会議は、信仰の根本的な要素を決定するため、とくに信仰を危険にさらすような誤謬を正すために招集されました。たとえば、325年のニカイア公会議は、アレイオス派の異端を否定し、父である神の独り子イエスの神性をあらためて明確に主張しました。また、431年のエフェソス公会議は、マリアが神の母であることを定めました。451年のカルケドン公会議は、キリストが、神性と人性という二つの本性をもつ唯一のペルソナであることを主張しました。もっとわたしたちに近い時代の公会議として、16世紀のトリエント公会議(1545-1563年)を挙げなければなりません。トリエント公会議は、プロテスタント教会の宗教改革に対して、カトリック教理の本質的な点を明らかにしました。第一バチカン公会議(1869-1870年)は、さまざまなテーマを考察するために開始しましたが、二つの文書を作成する時間しかありませんでした。一つは神の認識、啓示、信仰と理性の関係についての文書、もう一つは教皇の首位性と不可謬性についての文書です。公会議は1870年9月のローマ占領によって中断されたからです。
 第二バチカン公会議に目を向けると、次のことが分かります。当時、教会の歩みの中で、正すべきまたは断罪すべき特別な信仰上の誤謬は存在せず、また、明らかにすべき教理上、規律上の特別な問題もありませんでした。そこから、1959年1月25日、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂付属ベネディクト修道院の聖堂参事会会議室に集まった数名の枢機卿の驚きが理解できます。そのとき福者ヨハネ二十三世は、ローマ教区教会会議と普遍教会の公会議の招集を告知したのです。この大きな行事を準備する際に問われた最初の問いは次のものでした。この公会議をどのように開始するのか。公会議がなすべき任務は何か。福者ヨハネ二十三世は、50年前の10月11日に行った開会演説の中で、一般的な指針を述べました。信仰を「刷新した」、いっそう正確なしかたで語らなければなりません。なぜなら、世界は急速に変化しているからです。しかし、その際、信仰の永遠に変わらない内容を、譲歩も妥協もなしに、そのままに保たなければなりません。教皇は、教会が、信仰と、教会を導く真理を考察することを望みました。しかし、この真剣で深い考察に基づいて、教会と現代の関係、キリスト教と現代思想のいくつかの本質的要素との関係を新たなしかたで示さなければなりませんでした。それは、現代に迎合するためではなく、むしろ、神から離れる傾向にある現代世界に対して、福音の要求をその偉大さと純粋さを完全に保ったままで示すためです(教皇ベネディクト十六世「教皇庁に対する降誕祭のあいさつ(2005年12月22日)」参照)。神のしもべパウロ六世はそのことを、公会議の最後の公開会議の閉会説教(1965年12月7日)の中できわめて現代的な意味をもつことばをもってはっきり述べました。教皇は公会議を適切に評価するために、こういいます。「それがどのような時代に行われたかを考察すべきです。すべての人が認めるように、現代人は天の国よりもこの世の支配へと向かっています。現代は科学が進歩するにつれて、あたかもそれが当然のように、神の忘却が流行となっている時代です。人間の根本的な行為が、自分自身の自由をいっそう意識し、いかなる超越的な律法にも従わない、完全な自律を得ようとしている時代です。現代思想の当然の結果として『世俗主義』が生まれ、それを社会の現世的秩序のための最高に知恵に満ちた規範とみなす時代です。・・・・このような時代に、神の賛美のために、キリストの名において、聖霊の導きのもとに、公会議が開かれたのです」。パウロ六世はこう述べます。そして終わりに、公会議の中心問題が神の問題であることを示します。「実際に神は存在し、生きておられ、人格的です。神はすべてを配慮し、限りなくいつくしみ深いかたです。ご自身においてのみ善であるのではなく、何にもましてわたしたちに対して限りなく善です。わたしたちの造り主、わたしたちの真理、わたしたちの幸福です。人は観想によって自分の心と魂を神に向けようと努めるとき、魂の最高に完全な行為をなしとげます。この行為は、現代においても、人間の行為のさまざまな領域の頂点となることができ、またそうなるべきです。人間はこのような行為から自らの尊厳を与えられるからです」(AAS 58 [1966], 52-53)。
 わたしたちは、自分たちが生きている時代が依然として、神の忘却と、神に耳を傾けない態度によって特徴づけられるのを目にしています。それゆえ、わたしはこう思います。わたしたちは公会議のもっとも単純で根本的な教えを学ばなければなりません。すなわち、キリスト教は本質的に、神を信じることであり、個人としてまた共同体としてキリストと出会うことです。神は三位一体の愛であり、キリストは生活を方向づけ、導いてくださるかたです。すべてはここから生じます。公会議教父が望んだのと同じように、現代においても重要なことは、あらためて次のことをはっきり見いだすことです。神はともにおられ、わたしたちに目を注ぎ、わたしたちにこたえてくださいます。これに対して、神への信仰がなければ、本質的なことがすべて揺らぎます。なぜなら、人間は、あらゆる還元主義のために、その深い尊厳、すなわち自らの人間性を偉大なものとするものを失うからです。公会議はわたしたちに次のことを思い起こさせます。教会とそのすべての構成員は、救いをもたらす神の愛のことばを伝える使命をもち、またそう命じられています。それは、すべての人が、わたしたちを永遠の至福へと招く神の招きを聞き、受け入れるためです。
 このことに照らされて第二バチカン公会議の諸文書に含まれる豊かな意味に目を向けるために、わたしはただ四つの憲章を挙げたいと思います。それはいわば、わたしたちに方向を示す羅針盤の四方位基点だからです。『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)は、教会の原点には、礼拝すること、神、キリストの現存の神秘の中心性があることを示します。キリストのからだであり、世を旅する民である教会の根本的な使命は、神に栄光を帰すことです。『教会憲章』(Lumen gentium)が述べるとおりです。わたしが引用したい第三の文書は『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum)です。神の生きたみことばが教会を呼び集め、歴史の歩みの中でいつも教会を生かします。そして、教会が、神に栄光を帰すために、神から受けたすべての光を世にもたらす方法が、『現代世界憲章』(Gaudium et spes)の中心テーマです。
 第二バチカン公会議はわたしたちに力強く呼びかけます。日々、信仰のすばらしさを再発見しなさい。主といっそう深い関係をもつために、信仰を深く知りなさい。自分のキリスト信者としての召命に徹底的にこたえなさい。キリストの母であり、全教会の母であるおとめマリアの助けによって、公会議教父が聖霊に導かれて心に抱いたことをわたしたちが実現し、完成することができますように。それは、すべての人が福音を知り、道であり、真理であり、いのちである主イエスと出会えるようにという望みです。ご清聴ありがとうございます。

略号
AAS  Acta Apostolicae Sedis

PAGE TOP