教皇ベネディクト十六世の2012年10月14日の「お告げの祈り」のことば 救われる富者は誰か

教皇ベネディクト十六世は、年間第28主日の10月14日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタ […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第28主日の10月14日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「昨日、プラハで、福者ベドジッヒ・バッハシュタイン(Bedřich Bachstein 1561頃―1611年)と13名のフランシスコ会の同志が列福されました。彼らはその信仰のゆえに1611年(2月15日)に殺害されました。この人々は「信仰年」に最初に列福された人々であり、また殉教者です。彼らは、キリストを信じるとは、キリストとともに、キリストのために苦しむ準備ができていることでもあることを思い起こさせてくれます」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の福音(マルコ10・17-30)のおもなテーマは財産です。イエスは、金持ちが神の国に入るのはたいへんむずかしいけれども、不可能ではないと教えます。実際、神は、多くの富をもっている人の心を征服して、困っている人や貧しい人と連帯し、富を分かち合うように促すことができます。そして、その人を贈与の考え方に歩み入らせます。富はイエス・キリストの歩みにおいてこのようなしかたで示されます。使徒パウロが述べるとおり、イエス・キリストは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(二コリント8・9)。
 福音書の中にしばしば見られるとおり、すべては出会いから始まります。「たくさんの財産をもっていた」(マルコ10・22)人とイエスとの出会いもそうです。この人は子どものときから神の律法のおきてを忠実に守ってきましたが、いまだに真の幸福を見いだせませんでした。だから彼は「永遠のいのちを受け継ぐ」(17節)には何をすればよいか、イエスに尋ねたのです。一方で、彼はすべての人と同じように、完全ないのちに心を引かれています。他方で、自分の富を頼りにすることに慣れ親しんでいた彼は、特別なおきてを守ることによって、永遠のいのちさえもある意味で「買う」ことができると考えます。イエスはこの人のうちに深い望みがあることを認め、福音書記者が述べるとおり、いつくしみに満ちたまなざしで彼を見つめます。それは神のまなざしです(21節参照)。しかしイエスは、この人の弱点も知っておられます。すなわち、自分の富への執着です。だからイエスはその人に命じます。すべてのものを貧しい人に施しなさい。そうすれば、あなたの富は(それゆえあなたの心は)地上ではなく、天に置かれることになる。イエスは続けていいます。「それから、わたしに従いなさい」(21節)。しかしその人は、イエスの招きを喜びをもって受け入れる代わりに、立ち去りました(22節参照)。自分の財産を放棄することができなかったからです。しかし、財産は彼に幸福も永遠のいのちも与えることはできないのです。
 そこからイエスは弟子たちに(また、現代のわたしたちに)教えます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことか」(23節)。弟子たちはこのことばにとまどいました。彼らは、イエスが続けて次のようにいうのを聞いて、さらにとまどいました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」。しかし、弟子たちが驚いているのを見て、イエスはいわれました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27-28節参照)。アレクサンドレイアの聖クレメンス(Clemens 150頃-215年以前)は次のように解説します。「富める人々は次のことを教わるがよい。すなわち、なぜすでに咎に定められた者のように自らの救いをなおざりにしてはならないのか。あるいは逆に富を海に投げ捨ててはならないのか。また富を、生命に対して企みをなす敵なるものとして軽蔑してはならないのかを学び、そしてさらに、どのような方法でまたいかにして富を用いるべきか、生命を獲得すべきかを学ぶべきなのである」(『救われる富者は誰か』:Quis dives salvetur 27, 1-2〔秋山学訳、『中世思想原典集成1 初期ギリシア教父』平凡社、1995年、447頁〕)。教会史は、財産を福音的なしかたで用い、聖性に達した富者の模範で満たされています。聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)、ハンガリーの聖エリーザベト(Elisabeth 1207-1231年)、聖カロロ・ボロメオ( Carlo Borromeo 1538-1584年)のことを考えるだけで十分です。知恵の座であるおとめマリアの助けによって、わたしたちが喜びをもってイエスの招きを受け入れ、完全ないのちに入ることができますように。

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