教皇ベネディクト十六世の331回目の一般謁見演説 信条について

10月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の331回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「信仰年」に関する新しい連続講話を開始しました。それは「信条のことばを黙想し […]


10月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の331回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「信仰年」に関する新しい連続講話を開始しました。それは「信条のことばを黙想し、考察することを通じて、神、人間、教会、社会と宇宙に関する信仰の真理をあらためて受け入れ、深めるため」です。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日から新しい連続講話を始めたいと思います。この連続講話は、始まったばかりの「信仰年」の間、続きます。そして、この期間、祈りの学びやについての連続講話を中断することになります。わたしは使徒的書簡『信仰の門』により「信仰年」開催を告示しました。それは教会が、世の唯一の救い主であるイエス・キリストへの信仰の熱意を新たにし、キリストが示してくださった道を新たな喜びをもって歩み、すべてのものを造り変える信仰の力を具体的な形であかしするためです。
 第二バチカン公会議開幕50周年は、神に立ち帰り、自分の信仰を深め、また大きな勇気をもって信仰を実践し、教会への帰属を強めるよい機会です。「人類の教師」である教会は、みことばを告げ知らせ、秘跡を祝い、愛のわざを行うことを通じて、キリストとの出会い、キリストの知識へとわたしたちを導きます。キリストはまことの神であり、まことの人間です。それは何らかの思想や人生の計画と出会うことではありません。わたしたちは生きたかたと出会うのです。このかたが、わたしたちを深く造り変え、わたしたちの神の子としてのまことの姿を示してくださいます。キリストとの出会いはわたしたちの人間関係を刷新し、日々、それが愛の考え方に基づく、より連帯と兄弟愛に満ちたものとなるよう方向づけます。主を信じるとは、知性と知的理解だけにかかわることがらではありません。むしろそれは、人生と、わたしたち全体を変化させます。それは感覚、心、知性、意志、身体、感情、人間関係のすべてにかかわります。信仰によって、わたしたちのうちで、わたしたちにとって、すべてが本当に変わります。わたしたちの未来の運命、歴史の中の真の召命、人生の意味、天の父に向かって歩む喜びが明らかになります。
 しかし、ここでわたしたちは自問します。信仰は本当にわたしたちの人生を、わたしの人生を造り変える力でしょうか。それとも信仰は、人生の構成要素の一つにすぎず、人生全体にかかわる決定的な要素でないのではないでしょうか。この「信仰年」の連続講話によって、わたしたちは信仰の喜びを強めるための歩みを行いたいと思います。そして、信仰は実生活と無関係な、異質なものではなく、むしろ人生の中心であることを理解したいと思います。神は愛です。神は受肉し、人間に近づいて来られ、十字架上でご自身をささげました。それは、わたしたちを救い、天の門を再び開くためです。神への信仰は、人間は愛によってのみ完成することをはっきりと示します。現代のわたしたちはこのことをはっきりと再確認する必要があります。現実の文化的変化は、しばしば多くの野蛮な形を示しているからです。この野蛮性は、「文明の征服」という特徴を帯びています。信仰はこう主張します。人間が愛に導かれていないなら、いかなる場所、行為、時代、様式においても真の人間性は見いだされません。愛は神に由来し、たまものとして表され、愛と共感と関心と他者への分け隔てのない奉仕に満ちた関係によって示されます。支配と所有と搾取と利己主義的な他者の商品化が行われているところ、自らのうちに閉じこもった傲慢な自己だけが存在するところでは、人間は貧困化し、品位を失い、醜くなります。愛のわざを実践し、強い希望に満ちたキリスト教信仰は、人生を制限せず、むしろそれをより人間らしいものとします。そればかりか、人生を完全に人間らしいものとするのです。
 信仰は、このわたしたちを造り変えるメッセージを自分の人生に受け入れることです。神の啓示を受け入れることです。神の啓示は、神がどのようなかたで、どのようなことをなさり、わたしたちに対してどのような計画をもっておられるかを知らせてくれます。いうまでもなく、神の神秘は常に、わたしたちの概念と理性、儀式と祈りを超えています。にもかかわらず、神ご自身が啓示によって、ご自身を伝え、ご自身について語り、わたしたちが近づくことのできるかたとなってくださいます。わたしたちは神のことばを聞き、神のみ心を受け入れることができます。ここに信仰の驚くべき点があります。神は愛に基づいて、聖霊の働きを通じて、わたしたちのうちに、神のことばを知ることができるふさわしい状態を造ってくださいます。神は、ご自身をわたしたちに示し、わたしたちに触れ、わたしたちの歴史の中でともにいたいと望まれます。だから神ご自身が、わたしたちが神に耳を傾け、神を受け入れることができるようにしてくださるのです。聖パウロはこのことを喜びと感謝をこめてこう述べます。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神のことばを聞いたとき、あなたがたは、それを人のことばとしてではなく、神のことばとして受け入れたからです。事実、それは神のことばであり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(一テサロニケ2・13)。
 神は、人間との長い交友の歴史全体を通じて、ことばとわざをもってご自身を現されます。この歴史は、神の子の受肉と、その死と復活の神秘において頂点に達します。神は民の歴史の中でご自身を現し、預言者を通して語られただけではありません。神はご自身のおられる天から出て、人間として人間の地に入って来られました。それは、わたしたちが神と出会い、神に耳を傾けることができるようにするためでした。こうしてエルサレムから地の果てに至るまで、救いの福音の告知が広まります。キリストの脇腹から生まれた教会は、新しく堅固な希望の担い手となりました。この希望とは、ナザレのイエスです。十字架につけられて復活した、世の救い主です。御父の右に座す、生者と死者の裁き主です。これが「ケリュグマ(告知)」です。「ケリュグマ」とは、信仰の中心的で爆発的な告知のことです。しかし、初めから「信仰の基準」の問題が提起されます。「信仰の基準」とは、信者が福音の真理に忠実に従い、そこに堅固にとどまることです。神と人間に関する、守り伝えるべき真理に忠実であることです。聖パウロはいいます。「どんなことばでわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、むだになってしまうでしょう」(一コリント15・2)。
 しかし、わたしたちは信仰の本質的な定式をどこに見いだせばよいでしょうか。わたしたちが忠実に伝えてきた、日々の生活の光となるような真理をどこに見いだすことができるでしょうか。答えは簡単です。それは、信条、すなわち、信仰宣言ないし信仰のシンボルム(信条)のうちに見いだされます。わたしたちは信条によって、ナザレのイエスの人と歴史という根源的な出来事にあらためて結びつけられます。信条によって、異邦人への使徒パウロがコリントのキリスト者に向けて述べたことばが具体化します。「もっとも大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです」(一コリント15・3-4)。
 現代においても、わたしたちは信条をもっとよく知り、理解し、祈る必要があります。何より重要なのは、信条をいわば「認める」ことです。実際、知ることは単なる知的活動にとどまることがあります。これに対して、「認める」とは、わたしたちが信条で宣言する真理と、自分たちの日々の生活の間の深いつながりを発見しなければならないということです。それは、この真理が、かつてそうであったのと同じように、本当の意味で、また具体的なしかたで、日々の生活の歩みの光となり、旅路の暑さを和らげる水となり、現代生活のある種の荒れ野に打ち勝ついのちとなるためです。信条にはキリスト信者の道徳生活も織り込まれています。信条は道徳生活の基盤また根拠となるからです。
 福者ヨハネ・パウロ二世が『カトリック教会のカテキズム』――それは信仰を教えるための確実な規範であり、信仰教育の刷新のための確実な源泉です――において信条を基盤としたのは偶然ではありません。信仰の真理の中核を固め、守るために、それをわたしたち現代人に分かることばで語らなければなりません。教会の務めは、信仰を伝達し、福音を伝えることによって、キリスト教の真理が文化を新たに変革する光となり、キリスト信者が自分たちの抱いている希望について弁明できるようにすることです(一ペトロ3・14参照)。現代のわたしたちは、近い過去と比べても大きく変化し、また絶えず動き続ける社会の中で暮らしています。世俗化の進行と、すべてを相対的とみなすニヒリズムの精神の拡大が、一般人のものの考え方を強く特徴づけています。そのため、人々は、社会と家族のつながりが希薄化し、長続きしなくなった中で、明確な理想や堅固な希望ももたず、しばしば人生を深く考えずに過ごしています。とくに若者は、真理の探究や、偶然的なものごとを超える人生の深い意味、そして持続する愛情や信頼についての教育を受けられずにいます。むしろ反対に、相対主義が基準の喪失をもたらし、懐疑と移り気が人間関係の破綻を招き、人生は、短期的で無責任な実験として過ごされます。個人主義と相対主義が多くの現代人の心を支配しているとすれば、わたしたちが信仰を伝える上で直面しているこうした危険を信仰者が完全に免れているということはできません。「新しい福音宣教」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)開催のために世界中で行われた調査は、いくつかの点を指摘しています。受け身で私的な信仰生活、信仰教育の拒絶、信仰と生活の遊離です。
 キリスト信者がカトリック信仰の中心である信条を知らないこともしばしばです。そこから、ある種の宗教混淆主義や宗教的相対主義が生まれる可能性が生じます。信じるべき真理やキリスト教の救いの唯一性が明確でなくなるからです。現代では、いわば「自家製の」宗教を作る危険もまれではありません。しかし、わたしたちは神に立ち帰らなければなりません。イエス・キリストの神に立ち帰らなければなりません。福音のメッセージを再発見し、意識と日々の生活の中でそれをより深く生かさなければなりません。
 わたしはこの「信仰年」の連続講話の中で、このような歩みを進めるための助けを示したいと思います。それは、信条のことばを黙想し、考察することを通じて、神、人間、教会、社会と宇宙に関する信仰の真理をあらためて受け入れ、深めるためです。わたしはまた、信仰の内容ないし真理(fides quae)が、わたしたちの生活と直接結びついていることを明らかにしたいと思います。それには生活の回心が求められます。回心こそが神を信じる新たなしかた(fides qua)を人生に示すのです。神を知り、神と出会い、神のみ顔を深く求めることは、わたしたちの人生を巻き込みます。神が人間存在の深い動きの中に入って来られるからです。
 「信仰年」に始めるこの歩みが、わたしたち皆のキリストへの信仰と愛を深めてくれますように。そしてわたしたちが日々の決断と行動を通して、福音に根ざしたすばらしい生活を送ることを学べますように。ご清聴ありがとうございます。

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