教皇ベネディクト十六世の332回目の一般謁見演説 信仰とは何か

10月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の332回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の2回目として、「信仰 […]


10月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の332回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の2回目として、「信仰とは何か」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日から、「信仰年」の開始をもって、信仰に関する新しい連続講話を始めました。今日は皆様とご一緒にある根本的な問題を考察したいと思います。信仰とは何でしょうか。科学と技術がすこし前までは思いも及ばなかった展望を開いている世界にあって、信仰はなお意味をもちうるでしょうか。今日、信じるとはどういうことでしょうか。実際、現代において必要とされているのは、信仰教育の刷新です。信仰は、信仰の真理と救いの出来事の自覚を含みます。しかし、信仰は何よりもまずイエス・キリストにおける神との真の出会いから生まれます。イエス・キリストを愛し、彼を信頼することから生まれます。そこからわたしたちは、イエス・キリストに人生のすべてを賭けるのです。
 現代、多くのよいことのしるしが見られるとともに、わたしたちの周りにある種の霊的な荒れ野が広がっています。ときとして、毎日の報道で目にする出来事から、次のように感じることもあります。世界はより兄弟愛に満ち、平和な共同体を築く方向に向かっていません。進歩と幸福という理想そのものがその暗い側面を示しています。偉大な科学の発見と技術の革新が行われているにもかかわらず、現代人は真の意味でより自由で人間らしくなっているとは思えません。多くの搾取、陰謀、暴力、抑圧、不正が依然として存在しています。さらに、ある種の文化は、実現可能なものごとの範囲内でのみ行動し、目で見、手で触れることのできるもののみを信じるように促します。その一方で、方向を見失ったと感じながら、単なる水平的な現実理解を超えることを求める人も増えています。彼らはあらゆるものとその反対のことを信じたいと望んでいます。このような状況の中で、ある根本的な問いが生じます。この問いは、一見したところよりもずっと具体的です。人生にはどのような意味があるのでしょうか。人間に、わたしたちに、若者に未来はあるのでしょうか。人生がうまくゆき、幸福になるために、自由な決断をどのように方向づければよいでしょうか。死の門の先で、何がわたしたちを待ち受けているのでしょうか。
 この抑えがたい問いから、計画と正確な計算と経験に基づく世界は――一言でいえば科学の知識は、たとえそれが人生にとって重要なものであっても、それだけでは十分でないことが分かります。わたしたちは物資的なパンだけでなく、愛を必要としています。意味と希望を必要としています。確かな基盤と堅固な大地を必要としています。それらは、危機や暗闇や困難、また日々の問題の中で、真の意味を感じながら生きる助けとなるからです。信仰が与えてくれるのはまさにこれです。信仰とは、神という「あなた」に信頼をもって身をゆだねることです。神は、正確な計算や科学がもたらすのとは別の、それに劣らぬ堅固な確信を与えてくれるからです。信仰とは、人間が、神に関する特定の真理に知性をもって同意することだけではありません。それは神に自由に身をゆだねる行為です。神は父であり、わたしを愛してくださるかただからです。信仰とは、わたしに希望と信頼を与えてくださる「あなた」と一致することです。いうまでもなく、このような神との一致は、無内容なものではありません。わたしたちは神と一致しながら、神がキリストにおいてご自身を示してくださったこと、神がみ顔を示し、現実にわたしたち一人ひとりに近づいてくださったことを知っています。そればかりか、神は、人間に対する、すなわちわたしたち一人ひとりに対するご自身の愛が限界のないものであることを示してくださいました。人となった神の子であるナザレのイエスは、十字架上で、この愛がどれほどのものかを輝かしいしかたで示してくださいました。それは、ご自身を与え、完全にいけにえとしてささげるほどのものだったのです。神は、キリストの死と復活の神秘によって、わたしたちの人間性の底にまで降って来られます。それは、この人間性をご自身へと導き、ご自身の高みにまで上げるためです。信仰とは、この神の愛を信じることです。神の愛は、人間の行う悪事、また悪と死を前にしても衰えることがありません。むしろそれは、あらゆる奴隷状態を造り変えて、救いの可能性を与えることができるのです。それゆえ信じるとは、この「あなた」と、神と出会うことです。神はわたしを支え、不滅の愛を約束されます。この不滅の愛は、単なる永遠のあこがれではなく、現実のたまものです。信じるとは、幼子の態度をもって神に身をゆだねることです。幼子は、どのような困難と問題の中でも、母である「あなた」のうちにあって自分が安全であることを知っています。そして、信仰によって救われうるということが、神がすべての人に与えるたまものです。わたしたちの日々の生活はさまざまな問題や、ときには悲惨な状況によって特徴づけられています。そのような中でも、次のことをもっとしばしば考えなければならないと、わたしは思います。すなわち、キリスト教の信仰とは、わたしと世界を支えてくれる深い意味に信頼をもって身をゆだねることです。わたしたちはこの意味を自分に与えることはできません。むしろわたしたちはそれをたまものとして受け入れることしかできません。そして、このような意味こそが、わたしたちが恐れることなく生きることができるための基盤なのです。わたしたちは、自由と励ましを与えてくれるこの信仰の確信を、ことばをもって告げ知らせ、キリスト信者としての生活をもって示すことができなければなりません。
 しかしわたしたちは、自分たちの周りで、多くの人がこの告知に無関心だったり、それを受け入れるのを拒むのを目にしています。マルコによる福音書の終わりに、わたしたちは今日も復活した主の厳しいことばを耳にします。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16・16)。信じない人は自分自身を失うのです。皆様にこのことをよく考えてくださるようお願いしたいと思います。聖霊のわざに信頼しながら、わたしたちは行って福音を告げ知らせるよう促されるはずです。勇気をもって信仰をあかしするよう促されるはずです。しかし、信仰のたまものに積極的にこたえるのでなく、福音を拒み、キリストとの生きた出会いを受け入れない可能性も存在します。すでに聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)は、種を蒔く人のたとえ話に関する注解の中で、この問題を指摘しています。聖アウグスティヌスはいいます。「わたしたちは語り、種を蒔き、広めます。嘲笑(あざわら)う人もいれば、とがめる人もいれば、嘲る人もいます。もしこのような人々を恐れるなら、わたしたちは種を蒔くことなく、刈り入れの日に何の収穫も得ることもありません。それゆえ、種はよい土地から来るのです」(『説教――キリスト教の掟について』:Sermo de disciplina christiana 13, 14, PL 40, 677-678)。 ですから、拒絶されても失望してはなりません。わたしたちキリスト信者は、この実りをもたらす土地の証人です。どれほど限界があっても、わたしたちの信仰は、よい土地が存在することを示します。そこでは神のことばの種が正義と平和と愛の豊かな実を結びます。新しい人類と、救いの豊かな実を結びます。どれほど問題があろうとも、教会史全体も、よい土地があり、よい種が存在し、それが実を結ぶことを示しています。
 しかし、ここで問いが生じます。神は死んで復活したイエス・キリストのうちに目に見えるものとなられました。心と思いを開いて、この神を信じる力を、人はどこから得ることができるのでしょうか。それは、救いを受け入れ、キリストとその福音が人生の導きまた光となるためです。答えはこれです。わたしたちが神を信じることができるのは、神がわたしたちのところに来て、わたしたちに触れてくださるからです。復活した主のたまものである聖霊が、生ける神を受け入れる力を与えてくださるからです。それゆえ信仰は何よりもまず、超自然的なたまものです。神が与えてくださるたまものです。第二バチカン公会議はいいます。「このような信仰を起こすには、神の先行的かつ援助的恩恵と聖霊の内的助力が必要である。聖霊は、人間の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、『すべての者に、真理を受け入れること、そして信ずることの甘美さを』味わわせる」(『神の啓示に関する教義憲章』5)。わたしたちの信仰の歩みの基盤は洗礼です。洗礼の秘跡はわたしたちに聖霊を与え、わたしたちをキリストに結ばれた神の子とし、信仰共同体すなわち教会へと導き入れます。わたしたちは、聖霊の恵みを受けることなしに、自力で信じるのではありません。わたしたちは独りで信じるのでもありません。むしろ兄弟とともに信じます。信じるものは皆、洗礼を受けた後、生まれ変わって、兄弟とともに自分の信仰告白を行うよう招かれます。
 信仰は神から与えられるたまものです。しかしそれは、深い意味において自由で人間的な行為です。『カトリック教会のカテキズム』はそのことをはっきりと次のように述べます。「信じることが可能なのは、ただ、神の恵みと聖霊の内的な助けによります。そうではあっても、信じることはまさに人間的な行為なのです。・・・・人間の自由にも知性にも反することではありません」(同154)。そればかりか、信じることは人間的な行為を前提し、それを高めます。信仰は人生の賭けであり、いわば出エジプトのように、自分自身と、自分の安全と、思考様式から脱け出て、神のわざに身をゆだねることだからです。神は、わたしたちがまことの自由と、人間としてのあり方と、真の心の喜びと、すべての人との平和に達するために、ご自分の道をわたしたちに示してくださいます。信じるとは完全な自由と喜びとをもって、歴史における神の摂理の計画に身をゆだねることです。太祖アブラハム、ナザレのマリアがしたのと同じようにです。それゆえ信仰とはある同意です。この同意をもって、わたしたちは思いと心で神に「然り」と述べ、イエスが主であると告白します。この「然り」が人生を造り変え、完全な意味へと道を開き、人生を喜びと信頼できる希望に満ちた、新たなものとするのです。
 親愛なる友人の皆様。現代は、キリストに心を捕らえられたキリスト信者を必要としています。聖書と秘跡に親しむことによって信仰を深めるキリスト信者を必要としています。その人は、開かれた本のようなものです。彼は霊のうちに新たないのちの経験を語ります。神がともにいてわたしたちの歩みを支え、終わりのないいのちへと開いてくださることを語るのです。ご清聴ありがとうございます。

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