世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会 最終メッセージ

世界代表司教会議第13回通常総会は、10月26日(金)午前9時から始まった第20回全体会議で「最終メッセージ」を承認し、これを同日発表しました。以下に訳出したのはその全文です(原文イタリア語)。  兄弟姉妹の皆様。  「 […]

世界代表司教会議第13回通常総会は、10月26日(金)午前9時から始まった第20回全体会議で「最終メッセージ」を承認し、これを同日発表しました。以下に訳出したのはその全文です(原文イタリア語)。


 兄弟姉妹の皆様。
 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ローマ1・7)。ローマ司教、教皇ベネディクト十六世の招きにより、「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」というテーマを考察するために世界中から集まったわたしたち司教は、自分の部分教会に帰る前に、皆様にごあいさつしたいと思います。それは、今日、教会があかしをするために置かれたさまざまな状況の中で行う福音への奉仕を支え、方向づけるためです。

1 井戸のほとりのサマリアの女のように

 イエスとサマリアの女の出会い(ヨハネ4・5-42参照)という福音の箇所から照らしていただきたいと思います。空の桶をもち、心の深い望み(それだけが人生に完全な意味を与えてくれるもの)を渇き求めながら、井戸のほとりにいるサマリアの女――自分が人生の中でこの女と同じような者だと思わない人はいません。現代、多くの井戸は人間の渇きにこたえようとしています。しかし、わたしたちは汚れた水を避けるために識別を必要とします。破滅をもたらしかねない失望に陥らないように、探求を正しく方向づける必要があります。
 シカルの井戸のほとりのイエスと同じように、教会も現代人のそばに座らなければならないと感じています。それは、主を人々のうちに現存させ、主と出会うことができるようにするためです。主の霊だけがまことの永遠のいのちを与える水だからです。イエスだけがわたしたちの心の奥底を読み取り、わたしたちの真実をあらわにすることができます。女は町の人々に告白します。「このかたが、わたしの行ったことをすべて言い当てました」。この告知のことばは、人の心を信仰へと開く問いと結びついています。「もしかしたら、このかたがメシアかもしれません」。このことばは、イエスとの出会いから新たないのちを得た人は、他の人に真理と希望を告げ知らせずにはいられないことを示しています。回心した罪人は、救いを知らせる者となり、町全体をイエスへと導きます。あかしを受け入れた人々は、個人的に出会いを体験するに至ります。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、このかたが本当に世の救い主であると分かったからです」。

2 新しい福音宣教

 現代人をイエスへと、イエスとの出会いへと導くことは、古くから福音宣教が行われた地域も、最近それが行われた地域も含めて、世界のすべての地域にかかわる緊急課題です。実際、わたしたちは至るところで信仰を活性化しなければならないことを感じます。信仰が個人のうちに根ざすこと、信仰が社会的に存在すること、信仰が明白な内容をもち、一貫した結果をもたらすことを妨げる文化的状況の中で、信仰はあいまいなものとなる危険に瀕しているからです。求められているのは、最初からやり直すことではなく、「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)とまで述べたパウロの使徒的精神をもって、福音を告げ知らせる長い道を歩むことです。福音は、初期キリスト教の時代から現代に至るまで、歴史を歩みながら、世界のあらゆる地域で信者の共同体を築いてきました。これらの共同体は、大きなものも小さなものも、宣教者と、少なからぬ殉教者と、イエスをあかししてきた人々の献身が生み出したものです。わたしたちはこれらの人々を感謝をこめて思い起こします。
 社会的、文化的、経済的、政治的、宗教的に変化した状況は、ある新しいことをわたしたちに要求します。それは、ヨハネ・パウロ二世が述べたとおり、「新たな熱意と方法と表現をもって」(ヨハネ・パウロ二世「ラテンアメリカ司教会議(CELAM)第19回総会での演説(ポルトープランス、1983年3月9日)」3)福音宣教を行うことを通じて、自分の共同体の信仰体験を新しいしかたで生き、告げ知らせることです。ベネディクト十六世がいうとおり、この福音宣教は「洗礼を受けながら、教会から離れ、キリスト教的生活を送っていない人々におもに向けられます。・・・・それは、これらの人々があらためて主と出会う助けとなるためです。主のみが、わたしたちの生活を深い意味と平和で満たしてくださるからです。またそれは、信仰を再発見させるためです。信仰こそが、個人と家庭と社会の生活に喜びと希望をもたらす源泉だからです」(ベネディクト十六世「世界代表司教会議第13回通常総会開会ミサ説教(2012年10月7日)」)。

3 教会におけるイエス・キリストとの個人的な出会い

 新しい福音宣教がどのような形をとるかを語る前に、わたしたちは、深い確信をもって、皆様にこう語らなければならないと感じます。イエス・キリストとの間に築かれる関係の中で、すべてのことは信仰によって決まります。イエス・キリストがまず最初にわたしたちと出会いに来られるからです。新しい福音宣教を行うとは、現代人の、何よりもわたしたち自身のしばしば散漫で混乱した心に、キリストと出会うことのすばらしさと永遠の新しさを示すことです。わたしたちは皆様にお願いします。主イエス・キリストのみ顔を仰ぎ見てください。イエス・キリストのいのちの神秘に歩み入ってください。イエス・キリストのいのちは、十字架に至るまでささげられ、死からの復活によって御父によってたまものとして確証され、霊を通じてわたしたちに伝えられました。イエスというかたのうちに、全人類家族に対する父である神の愛の神秘が示されました。神は人類を偽りの自律のうちに放置せず、むしろ新しい愛の契約によってご自身へと再び結びつけたのです。
 教会は、わたしたちが歴史の中でキリストと出会えるように、キリストが与えてくださった場です。キリストは教会にゆだねられました。みことばと、わたしたちを神の子とする洗礼、聖体、とくにゆるしの秘跡による罪のゆるしの恵みを。三位一体の神秘の映しである交わりの体験と、すべての人に対する愛を生み出す霊の力を。わたしたちは、疎外された人々が皆自分の居場所を見いだせるような、温かい共同体を築かなければなりません。具体的な交わりの体験を与えなければなりません。交わりの体験は、愛の熱い力をもって――「見ろ、彼らは互いに愛し合っている」(テルトゥリアヌス『護教論』:Apologeticum 39, 7〔鈴木一郎訳、『キリスト教教父著作集14』教文館、1987年、91頁参照〕)――現代人の幻滅したまなざしを引き寄せます。信仰のすばらしさはとくに典礼、とりわけ主日の感謝の祭儀の中で輝かなければなりません。実際、教会は典礼祭儀の中で神のわざの姿を示し、ことばとわざによって福音の意味を目に見えるようにするからです。
 現代のわたしたちの責務は、具体的な形で人々が教会の体験に近づけるようにし、渇いた人々がイエスとの出会いへと招かれる井戸を増やし、人生の荒れ野の中でオアシスを提供することです。キリスト教共同体と、すべての主の弟子には、このことを行う責任があります。福音がすべての人の生活と交わることができるように、弟子の一人ひとりに、かけがえのないあかしがゆだねられています。そのためには、生活の聖性が要求されます。

4 イエスと出会い、聖書に耳を傾ける機会

 これらすべてのことをどのように行えばよいかと尋ねる人がいるかもしれません。新しい戦略を立てる必要はありません。福音は宗教の市場に出す製品ではないからです。むしろ必要なのは、イエスが人々に近づき、人々を招いたやり方を再発見し、現代の状況の中でそれを実践することです。
 たとえば次のことを思い起こしてみたいと思います。イエスがペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネに、それぞれの仕事の現場の中でどのように問いかけたか。ザアカイがどのように単純な好奇心から、師であるかたとの温かい会食をするに至ったか。ローマの百人隊長がどのように部下の病気をいやしてほしいと頼んだか。生まれつきの盲人が自分を疎外された状況から解放するかたとしてどのようにイエスに呼びかけたか。マルタとマリアがイエスを心から家でもてなすことによって、どのような報いを得たかを。福音書の箇所をたどり直すことにより、わたしたちは人々の人生がさまざまな状況の中でキリストの存在に開かれたしかたを見いだすことができます。初代教会の使徒たちの宣教活動についての聖書の記述によって同じことを行うことが可能です。
 聖書の伝承者、正しい解釈者である教会の聖伝に照らされながら、聖書をしばしば読むことは、福音の内容である、イエスというかたを救いの歴史という文脈の中で知る上で必須であるだけではありません。それはイエスと出会う場を見いだす助けともなります。これが、家庭、仕事、友情、貧しさ、人生の試練などの、人間生活の根本的な次元に根ざした、真に福音的な方法です。 

5 自分自身を福音化し、回心へと整えること

 しかし、新しい福音宣教がわたしたち自身と無関係だと考えてはなりません。この数日間、司教たちは何度も、世を福音化するためには、まず教会がみことばに耳を傾けなければならないと述べました。福音宣教への招きは、回心への呼びかけとならなければなりません。
 わたしたちは、まず自分自身がキリストの力に対して回心すべきだと考えます。キリストだけが万物を、何よりもまずわたしたちの貧しい存在を新たにすることができるからです。わたしたちはへりくだって次のことを認めなければなりません。イエスの弟子、とくにイエスの奉仕者の貧しさと弱さが、宣教が信頼されるための重荷になっています。わたしたちは――第一にわたしたち司教は――、主の崇高な呼びかけと、諸民族に福音を告げ知らせよという命令にふさわしくないことをはっきりと自覚しています。わたしたちは、歴史のさまざまな傷に対する自分たちの弱さを謙遜に認めなければなりません。自分の個人的な罪をもためらうことなく認めなければなりません。しかしわたしたちは確信しています。自分を造り変えていただくなら、主の霊の力が教会を刷新し、その服を輝かせてくださることを。聖人たちの生涯がこのことを示します。聖人を思い起こし、語ることは、新しい福音宣教の特別な手段です。
 このような刷新を自分たち自身の力にゆだねるなら、それはきわめて疑わしいものとなります。むしろ、教会における回心も福音宣教も、その第一の担い手は貧しいわたしたち人間ではなく、主の霊ご自身です。ここにわたしたちは力と確信を見いだします。教会においても歴史においても、最後に勝利を収めるのは悪ではないからです。イエスが弟子たちにいわれたとおりです。「心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14・27)。
 新しい福音宣教は、このような落ち着いた確信に基づいて行われます。わたしたちは霊の与える霊感と力に信頼します。霊は、どのように困難なときにも、何を話し、何を行うべきかを教えてくださるからです。それゆえ、わたしたちがすべきなのは、信仰によって恐れに、希望によって失望に、愛によって無関心に打ち勝つことです。

6 現代世界の中に福音宣教の機会を見いだす

 このような落ち着いた勇気が、現代世界に対する見方をも支えてくれます。わたしたちは自分たちが生きる状況におびえません。現代世界は矛盾と問題に満ちていますが、それが神に造られたものであることは変わりません。世は悪によって傷ついていますが、神は永遠にこの世を愛されます。世は、みことばの種が新たに蒔かれ、再び実を結ぶ土地です。
 主が死に打ち勝ち、主の霊が力をもって歴史の中で働いていることを知っている者の心に、悲観主義が入り込む余地はありません。わたしたちはへりくだりつつ、しかし決然と世に近づきます。この決意は、真理がついに勝利を収めるという確信に由来します。そしてわたしたちは、世のうちに、み名の証人となるようにという復活した主の招きを見いだします。わたしたちの教会は生きています。教会は、勇気ある信仰と、多くの子らのあかしをもって、歴史がもたらす問題に立ち向かおうとします。
 わたしたちは、自分たちが世にあって「支配と権威」、「悪の諸霊」(エフェソ6・12)と戦わなければならないことを知っています。わたしたちはこれらの困難な問題から目を逸らすわけではありませんが、そのために恐れることもありません。これは何よりもグローバル化の現象に当てはまります。わたしたちはグローバル化を、福音を広める機会とすべきです。移民についても同じことがいえます。移民は苦難を伴いますが、わたしたちは移民を兄弟として心から受け入れたいと望みます。かつてそうであったのと同じく、移民は今も信仰を広め、多様な人々の間の交わりを深める機会です。世俗化や、政治・国家の支配がもたらす危機は、教会が、社会に存在することを断念することなく、再考することを求めます。貧困のさまざまな新しい形態は、愛の奉仕に新しい領域を開きます。福音を告げることは、イエスと同じように、教会が貧しい人々と共に存在し、彼らの苦しみを担うことを命じます。わたしたちは、無神論と不可知論のもっとも過酷な形態のうちにも、たとえ矛盾しているとはいえ、空白ではなく、適切なこたえを待ち望む、あこがれと期待を見いだすことができると考えます。
 支配的な文化が信仰と教会に疑問を投げかけるとき、わたしたちは主への信頼を新たにしつつ、このような状況の中でも、福音が光をもたらし、すべての人間の弱さをいやすことができると確信します。福音宣教を行うのはわたしたちではなく神です。教皇が述べるとおりです。「最初のことば、本当の働きかけ、真の活動は、神から来ます。この神の働きかけに自らを接ぎ木し、神の働きかけを願い求めることによって初めて、わたしたちも、神とともに、神に結ばれて、福音宣教者となることができるのです」(ベネディクト十六世「世界代表司教会議第13回通常総会第1回全体会議における黙想(ローマ、2012年10月8日)」)。

7 福音宣教、家庭、奉献生活

 最初に福音宣教が行われたときから、次の世代への信仰の伝達が行われる自然な場は、家庭でした。家庭において女性は特別な役割を果たしますが、それによって父親とその責任が減ずるわけではありません。あらゆる家庭が子どもの成長のために配慮します。このような環境の中で、幼児と若者は、信仰のさまざまなしるし、伝えられる基本的な真理、祈りの教育、愛の実りのあかしへと導き入れられます。地理的、文化的、社会的状況の違いにかかわらず、シノドス参加司教は皆、家庭が信仰の伝達において不可欠な役割を果たすことを再確認しました。家庭に福音を告げ知らせ、家庭における教育の務めを支えるという特別な責任を果たさなければ、新しい福音宣教は考えられません。
 家庭は、男と女が結婚し、二人が「一体となり」(マタイ19・6)、いのちへと開かれていることによって成り立ちます。現代において、この家庭が至るところで危機にさらされていることを無視できません。家庭は、家庭を犠牲にする生活様式に取り囲まれ、社会の原細胞であるにもかかわらず、社会の政治制度からないがしろにされています。家庭のリズムは必ずしもつねに尊重されず、教会共同体において家庭が果たす役割も支えを与えられていません。しかし、まさにそこからわたしたちはこういわざるをえません。わたしたちは家庭と、社会・教会におけるその使命を特別に配慮すべきです。そのために、結婚前と結婚後に家庭に同伴する講座を推進すべきです。わたしたちはまた、自分たちのあかしによって交わりと奉仕の体験を世に示している多くの夫婦や家庭に感謝したいと思います。こうした体験は、いっそう友愛と平和に満ちた社会の種となるからです。
 わたしたちの思いは、主がわたしたちにゆだねた、一致と生涯にわたる愛という姿を反映していない、多くの家庭と同棲者にも向かいます。結婚の秘跡のきずななしに同棲している男女がいます。以前の結婚が失敗した後、非正規の状態で結婚している人々が増えています。こうした痛ましい状況は子どもの教育にも悪影響を及ぼします。これらすべての人々に対してわたしたちはいいたいと思います。主はだれをも見捨てません。教会も皆様を愛しています。教会はすべての人を受け入れます。たとえ秘跡による赦免と聖体を受けることができなくても、皆様は教会の一員であり続けます。カトリック共同体がこうした状態にある人々を受け入れ、回心と和解の道を歩む人々を支えることができますように。
 家庭生活は、福音が日常生活と出会い、それが愛の展望において基本的な生活状況を造り変えうることを示す第一の場です。しかし、教会のあかしにとってさらに重要なのは、地上の生活が人間の歴史を超えた形で完成され、神との永遠の交わりに達することを示すことです。イエスはサマリアの女に対して、単にいのちを与えるだけでなく、「永遠のいのち」(ヨハネ4・14)を与える者としてご自分を示されました。信仰が現実のものとする、神のたまものは、単なるこの世の生活の改善の約束ではありません。人生の究極的な意味は、この世を超えた、わたしたちが世の終わりに待ち望む神との完全な交わりだと告げ知らせることです。
 このような人生の意味の超自然的な次元に関して教会と世界の中で特別なあかしを行うのが、主が奉献生活へと招いた人々です。奉献生活は、清貧、貞潔、従順を守りながら主に完全にささげられたものなので、この世のあらゆる善を相対化する、来世のしるしとなります。シノドス総会はこれらの兄弟姉妹に感謝します。彼らは主の招きに忠実にこたえ、教会の宣教に寄与してきたからです。わたしたちは、皆様が時代の変化の中で、困難な状況にあっても希望し続けるよう励まします。そして皆様にお願いします。自分の属する会からカリスマを与えられた領域で、新しい福音宣教の証人また推進者となってください。

8 教会共同体と多くの福音宣教の担い手

 福音宣教を行うことは、教会の一部の人の任務ではなく、教会全体の務めです。人は教会の中でイエスと出会うための完全な手段に近づくことができるからです。すなわち、みことばと、秘跡と、兄弟の交わりと、愛の奉仕と宣教です。
 このような観点から、何よりも小教区の役割が浮かび上がります。小教区は、人々が生活する地域における教会の現存であり、ヨハネ二十三世がしばしば用いたことばでいえば「村の泉」です。すべての人はこの泉から水を飲み、そこに福音の新鮮さを見いだすことができるのです。小教区の役割は決してなくなりません。たとえ状況の変化が、小共同体への分割や、広範囲での協力を要求するとしてもです。わたしたちは小教区を励まさなければならないと感じます。伝統的な神の民の司牧活動に、新しい福音宣教が求める宣教の新しい形態を加えてください。新しい福音宣教は、さまざまな重要な民間信心の形を通しても行われなければなりません。
 小教区において、自分の民の父であり司牧者である主任司祭の役務は決定的に重要です。シノドス参加司教は、困難な任務を果たすすべての司祭に感謝し、兄弟として寄り添います。その上で彼らに願います。教区司祭のきずなを強め、霊的生活を深め、変化に対応するための生涯学習を行ってください。
 司祭とともに、助祭、カテキスタや、告知と信仰教育と典礼、愛の奉仕における奉仕者と指導者の司牧活動をも支えなければなりません。信徒のさまざまな参加と共同責任も推進すべきです。共同体のさまざまな奉仕に献身する信徒の皆様に感謝せずにはいられません。これらのかたがたにもお願いします。教会における自らの存在と奉仕を、新しい福音宣教という視点で捉えてください。そのために自らの人間的・キリスト教的養成と、信仰の知識と、現代文化への感覚を深めてください。
 信徒の皆様に目を向けるなら、古くからあるものも新しいものも含めた、さまざまな会と運動団体、新しい共同体をとくに取り上げなければなりません。これらは霊が教会に与えてくださった豊かなたまものの表れです。教会の中で生き、献身するこれらのかたがたに感謝するとともに、彼らを励まします。自分のカリスマを忠実に実践し、とくに部分教会の具体的状況において教会の交わりを深めてください。
 福音をあかしすることは、一部の人の特権ではありません。世のただ中で、自らの生涯をかけて福音のしるしとなっておられる多くの人に喜びをこめて感謝します。このような人々のうちには、残念ながらまだ完全な交わりをもってはいないものの、主の洗礼によってしるしづけられ、主を告げ知らせている多くのキリスト者の兄弟姉妹もいます。今回のシノドスの中で、教会・教会共同体の多くの権威ある人々の声を聞けたのは感動的な経験でした。彼らはキリストへの渇きと、福音の告知への献身をあかししてくださいました。これらの人々も世が新しい福音宣教を必要としていることを確信しています。宣教の必要性に関して一致できたことを主に感謝したいと思います。

9 若者たちがキリストと出会えるために

 わたしたちが特別に心にかけているのは若者です。若者は、現代の人類と教会の重要な部分であるとともに、その未来でもあるからです。シノドス参加司教たちは、若者に関してすこしも悲観していません。わたしたちは彼らのことを心配しはしても、悲観しません。彼らのことを心配するのは、現代が彼らに対してもっとも激しい攻撃を加えているからです。悲観しないのは、歴史を深いところで導くのはキリストの愛だからです。また、わたしたちは現代の若者たちのうちに、誠実、真理、自由、寛大に対する深い望みを感じるからです。わたしたちはキリストがこの望みにこたえてくださると確信しています。
 わたしたちは若者の探求を支えるとともに、わたしたちの共同体を励ましたいと思います。困難な状況に置かれた若者に惜しみなく耳を傾け、対話し、彼らを力づけてください。若者の熱意にあふれた力を制限せず、むしろ解放してください。自らの力と情熱を浪費させようとする、この世の力が促す偽りや利己的な思惑と戦う彼らを助け、彼らが過去の出来事に感謝し、未来に向けて真剣に計画を立てることができるようにください。
 若者の世界は、新しい福音宣教にとって困難ではあっても特別に有望な領域です。多くの経験が示すとおりです。それには、若者たちを引き寄せたWYD(ワールドユースデー)も、目立たないけれども重要な経験も含まれます。たとえば、さまざまな霊性、奉仕、宣教の体験です。若者こそが、若者の世界に対する福音宣教において第一の役割を果たすことを認識すべきです。

10 文化・人間的体験・諸宗教との対話における福音

 新しい福音宣教の中心は、キリストと、人間の人格への関心です。それは、キリストとの現実の出会いを生き生きとしたものとするためです。しかし、新しい福音宣教の展望は世と同じ広がりをもち、人間的体験に限定されません。すなわち、新しい福音宣教はとくに文化との対話に関心を向けます。いずれの文化の中にも、古代教父が述べた「福音の種子」が見いだされることを信じているからです。とくに新しい福音宣教は、信仰と理性の新たな協働を必要とします。信仰は、超越へと開かれた健全な理性が生み出すあらゆる成果を受け入れ、理性が陥りがちな限界と矛盾をいやすことができると確信するからです。信仰は、人生と歴史における悪の存在が投げかける問いに対しても目を閉ざすことがありません。そして、キリストの過越から希望の光を引き出します。
 信仰と理性の出会いは、教育と文化の領域におけるキリスト教共同体の活動にも糧を与えてくれます。学校と大学という教育・研究機関は、この分野で特別な位置を占めています。人間の知識が広がり、教育活動が行われるいかなるところでも、教会は進んで自らの経験を示し、人格の全面的な教育に貢献します。このことに関連して、カトリック学校とカトリック大学に特別な関心を向けなければなりません。カトリック学校とカトリック大学においては、あらゆる真実な文化と教育の歩みに属する超越への開きが、イエス・キリストと教会の出来事と出会う歩みのうちに満たされるべきだからです。シノドス参加司教は、ときには困難な状況にあって、教育事業に携わる人々に感謝します。
 福音宣教は、マスメディアの世界に目を向けることも必要とします。とくに目を向けるべきなのは、多くの生活と問いと期待がそこで交差するニューメディアです。マスメディアは、多くの場合、そこで良心が教育され、人々が自分の時間を過ごし、生活する場です。それは人間の心に達する新たな機会です。
 現代において、信仰と理性が出会う特別な領域は、科学的知識との対話です。科学はそれ自体として信仰とかけ離れたものではありません。それは神が被造物のうちに置いた霊的原理を解き明かすからです。この霊的原理によって、被造物の基盤にある合理的構造を理解することが可能となります。科学と技術が人間観・世界観を不毛な唯物論に閉じ込めない限り、それは生活をより人間らしいものとするための貴重な協力者となります。学問の最前線で働く人々にも感謝したいと思います。
 わたしたちは人間の才能のもう一つの表現である、新旧の様式を含めた、芸術の分野で働く人々にも感謝したいと思います。芸術作品は人間の美への傾きを造形化します。ですからわたしたちは芸術作品のうちに霊性を表現する特別な様式を見いだします。美の創造により、神のみ顔と被造物の姿の美しさを明らかにしてくれる芸術家に感謝します。美の道は新しい福音宣教の特別に効果的な方法です。
 わたしたちは芸術作品に限らず、あらゆる人間の活動に目を向けます。それは労働を通して神の創造に協力する場となるからです。経済と労働の世界について、福音の光に照らしていくつかのことを思い起こします。しばしば耐えがたい重荷となった労働条件や、今日、しばしば失業によって脅かされている不確実な未来から労働を解放しなければなりません。人間の人格を経済発展の中心に据えなければなりません。経済発展は、人類が正義と一致のうちに成長するための機会とならなければなりません。人間は労働によって世界を変容させます。しかし人間は、将来の世代に対する責任のゆえにも、神が被造物に与えようと望んだ姿を守るよう招かれています。
 福音は病気に苦しむ人々をも照らします。キリスト信者は、教会が病者や障害者に寄り添っていることを病者が感じられるようにすべきです。専門的技術をもって人間的に病者を世話するかたがたに感謝します。
 福音が人類の歩みを照らすべきもう一つの領域は、政治です。政治は、私心がなく透明な共通善への奉仕に努めなければなりません。そのために、受精から自然死に至るまでの人間の人格と、男と女の結婚に基づく家庭、そして教育の自由を完全に尊重しなければなりません。信教の自由を促進しなければなりません。不正、格差、差別、人種差別、暴力、飢餓と戦争の原因を取り除かなければなりません。キリスト信者は、政治の実践において、愛のおきてを守ることにおいて明確なあかしを示すことを求められます。
 最後に、教会は、諸宗教の信者を自然な対話の相手とみなします。福音宣教を行うのは、キリストの真理を信じるがゆえであって、敵対するからではありません。イエスの福音は平和と喜びです。イエスの弟子は、人間の宗教心が神の造った世界のうちに見いだし、さまざまな宗教のうちに表現した、真実なもの、よいものをすべて認めます。
 諸宗教の信者どうしの対話は、平和に役立つことをめざし、いかなる原理主義も拒絶し、宗教者に加えられるあらゆる暴力を非難します。暴力は人権の深刻な侵害だからです。全世界の教会は、苦しむ兄弟姉妹のために心を一つにして祈り、兄弟としての愛を示します。そして政治指導者が、すべての人が信仰を自由に選び、告白し、あかしする権利を擁護するように要求します。

11 第二バチカン公会議開幕と『カトリック教会のカテキズム』公布を記念する「信仰年」にあたって

 新しい福音宣教の開始にあたって、わたしたちはときとしてあたかも荒れ野におり、危険と基準の喪失のただ中にいるかのように感じます。教皇ベネディクト十六世は「信仰年」開年ミサの説教の中で、最近の数十年間進行している「霊的な砂漠化」について語りました。しかし教皇は次のように述べてわたしたちを励ましました。「わたしたちはまさにこの荒れ野から、空白から出発することによって、あらためて信じることの喜びを再発見することができます。わたしたち人間にとって信じることが何よりも重要であることを再発見することができます。わたしたちは、荒れ野の中で生きるためになくてはならないものの価値を再発見します」(「「信仰年」開年ミサ説教(ローマ、2012年10月11日)」)。サマリアの女と同じように、わたしたちは荒れ野で水を探します。水が飲める井戸を探します。そこでキリストと出会える人は幸いです。
 わたしたちは「信仰年」を与えてくださった教皇に感謝します。「信仰年」は新しい福音宣教を歩み始めるための貴重な入口となるからです。教皇が「信仰年」を第二バチカン公会議開幕50周年と結びつけてくださったことにも感謝します。公会議の基本的な教えは、現代、『カトリック教会のカテキズム』によって輝きます。『カトリック教会のカテキズム』は20年前、信仰の確かな基準としてあらためて示されました。この重要な記念行事は、わたしたちが、公会議の教えを固く守り、それを完全な形で実施し続けようとする決意を確認することを可能にします。

12 神秘を観想し、貧しい人々に寄り添うこと

 以上の展望に基づいて、わたしたちはすべての信者に信仰生活の二つの表現を示したいと思います。それは新しい福音宣教によって信仰をあかしするために特別に重要だと思われるからです。
 第一は、観想のたまものと経験です。父と子と聖霊である神の神秘へのうやうやしいまなざし。母胎のように救いをもたらすみことばを受け入れる沈黙――これらのものからのみ、世が信頼できるあかしが生まれます。祈りと沈黙だけが、世のさまざまなざわめきで救いのことばがかき消されるのを防ぐことができるのです。
 ここで、隠世修道院と隠遁修道院で祈りと観想に生涯をささげる人々にあらためて感謝したいと思います。しかし、観想のときが人々の日常生活とより合わされることも必要です。魂の場所だけでなく、具体的な場所も神を呼び求めます。内的な聖所と石の神殿を重ね合わせることが、経験の洪水で自分を見失わないために必要です。それは、何を、まただれを探し求めればよいのか知らない人を含めて、すべての人が受け入れられていると感じることができる場となります。
 真の意味での新しい福音宣教のもう一つの象徴は、貧しい人々の姿です。人生に傷ついた人に寄り添うことは、単なる連帯のわざではなく、何よりも霊的な行為です。貧しい人々の顔に輝くのはキリストのみ顔そのものだからです。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。
 貧しい人はわたしたちの共同体の中で特別な場所を占めます。この場所はだれをも排除しませんが、キリストがご自分を彼らに結びつけたしかたを反映します。共同体に貧しい人がいることは、不思議な力をもちます。それはことば以上に人々を変化させ、忠実さを教え、人生の脆弱さを悟らせ、祈りを要求します。要するに、それは人々をキリストへと導きます。
 愛のわざには正義への取り組みが伴わなければなりません。この取り組みは、貧しい人も豊かな人も含めて、すべての人に呼びかけます。それゆえ、教会の社会教説を新しい福音宣教およびキリスト信者の教育とつなぎ合わせることは、社会生活と政治生活における人間の共生に奉仕する上で不可欠です。

13 世界の諸地域の教会に向けて

 シノドスに集まった司教のまなざしは、世界中に広がる教会共同体に向かいます。このまなざしは一つです。キリストと出会うようにという呼びかけは一つだからです。しかし、多様性をないがしろにするわけではありません。
 シノドス教父は、兄弟としての愛と感謝をこめて、カトリック東方教会のキリスト信者を特別に考察しました。彼らは最初の福音宣教を受け継ぐ者であり(彼らはこの経験を愛と忠実をもって守っています)、東方とヨーロッパに住んでいます。現代において、福音は新しい福音宣教によってあらためて皆様に示されます。典礼生活、信仰教育、日々の家庭の祈り、断食、家族間の連帯、信徒の共同体生活への参加、社会との対話を通して。多くの地域で皆様の教会は試練と困難のただ中にあります。これらの試練を通して皆様はキリストの十字架にあずかることをあかしします。一部の信者は移住を強いられています。移住者は、出身地の共同体への帰属を保ちながら、自分たちを迎え入れた国々で司牧活動と福音宣教活動に貢献することができます。主が皆様の忠実さを祝福し続けてくださいますように。皆様の未来が、平和と信教の自由のもとでの落ち着いた信仰の告白と実践によって特徴づけられますように。
 わたしたちはアフリカ諸国のキリスト信者の皆様に目を向けます。そして、皆様がしばしば困難な生活条件の中で福音をあかししておられることを感謝します。皆様を励まします。最近行われたばかりの福音宣教を活性化してください。教会を「神の家族」として築いてください。家族の一致を強めてください。とくにキリスト教小共同体における司祭とカテキスタの活動を支えてください。さらにわたしたちは、福音と新旧の文化の出会いを発展させることの必要性を強調します。アフリカ諸国の政界、統治者に期待をこめて強く呼びかけます。すべての善意の人々と協力しながら、基本的人権を擁護し、アフリカ大陸を、今も苦しみを与え続ける暴力と紛争から解放してください。
 シノドス参加司教は北アメリカのキリスト信者に呼びかけます。新しい福音宣教への招きに喜びをもってこたえてください。皆様のキリスト教共同体が早くから信仰と愛と宣教の豊かな実を実らせたことを感謝します。今必要なのは、皆様の国の現代文化の表現が福音からかけ離れているのを認めることです。人々を回心へと招かなければなりません。回心から生まれる取り組みは、皆様を自分の文化から追い出すのではなく、文化のただ中で、すべての人に信仰の光といのちの力を示すよう導きます。皆様はその寛大な国に新たな移民や難民を受け入れてきました。皆様の家の門を進んで信仰にも開いてください。アメリカのためのシノドス特別総会の取り組みに従って、ラテンアメリカとともに二つの大陸で継続的に福音宣教を行ってください。
 シノドス総会は同じ感謝の気持ちをラテンアメリカとカリブ諸国の教会にも示します。とくに印象的なのは、皆様の国々で長年にわたって発展し、今なお多くの人の心に根づいている、さまざまな民間信心、愛の奉仕、そして文化との対話です。今、現代の多くの問題、とりわけ貧困と暴力を前にした、ラテンアメリカとカリブ諸国の教会を励まします。継続的に宣教を行ってください。希望と喜びをもって福音を告げ知らせてください。イエス・キリストを宣教するまことの弟子の共同体を形成してください。福音が公正で兄弟愛に満ちた新しい社会の源泉となりうることを自分の子どもたちに示してください。宗教の多元化が皆様の教会に問いかけています。福音をあらためて告げ知らせることが必要です。
 アジアのキリスト信者の皆様にも励ましと勧めを申し上げます。世界人口の3分の2を占めるアジア大陸の少数者である皆様の存在は、霊の力にゆだねられた豊かな種です。この種は、さまざまな文化、古来の宗教、多くの貧しい人との対話によって成長します。アジアの教会は、しばしば社会から疎外され、さまざまな地域で迫害されているとはいえ、その固い信仰によって、キリストの福音の貴重な現存です。福音は正義といのちと調和を告げ知らせます。アジアのキリスト信者の皆様。世界の他の国々のキリスト信者が兄弟として寄り添っているのを感じてください。わたしたちはアジア大陸の聖地でイエスが生まれ、生き、死んで復活したことを忘れません。
 シノドス参加司教はヨーロッパ大陸にも感謝と希望をもって呼びかけます。現代のヨーロッパ大陸は強力な(ときとして攻撃的な)世俗化によって特徴づけられ、一部の地域は神と人間に敵対するイデオロギーの数十年の支配によって今なお傷ついています。わたしたちは過去に感謝するだけでなく、現在にも感謝します。福音はヨーロッパで、全世界の福音宣教にとって決定的な意味をもつ、独自の信仰の認識と表現を生み出したからです。すなわち、豊かな神学思想、さまざまなカリスマの表れ、貧しい人々への愛の奉仕のさまざまな形態、深い観想体験、人格の尊厳の定義と共通善の構築に寄与した人文的文化の創造です。そこではしばしば聖性もあふれ出ました。親愛なるヨーロッパのキリスト信者の皆様。現在の困難にくじけないでください。むしろそれを乗り越えるべき課題、いっそう喜びをもって生き生きとキリストといのちの福音を告げ知らせるための機会として受け止めてください。
 最後にシノドス参加司教はオセアニアの人々にごあいさつ申し上げます。皆様は南十字星の保護のもとにあります。皆様がイエスの福音をあかししてくださっていることを感謝します。わたしたちは皆様のために祈ります。どうか皆様が井戸のほとりのサマリアの女と同じように、新しいいのちへの渇きを強く感じてくださいますように。イエスのことばに耳を傾けることができますように。「もしあなたが、神のたまものを知っていたならば」(ヨハネ4・10)。福音を告げ知らせ、現代世界にイエスを知らせたいという務めをあらためて感じることができますように。皆様を励まします。日常生活の中でイエスと出会ってください。イエスのことばに耳を傾け、祈りと黙想を通じて、次のようにいえる恵みを見いだしてください。「わたしたちはこのかたが本当に世の救い主であると分かった」(ヨハネ4・22)。

14 荒れ野を照らす星マリア

 全世界の司教が交わり、ペトロの後継者の奉仕職に協力する体験が終わるにあたり、わたしたちはイエスが使徒たちに告げた命令が現実に鳴り響くのを耳にします。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・19、20)。教会の宣教は、特定の地域だけでなく、現代人の心の奥底にまで向かいます。それは、彼らをイエスとの出会いへと導くためです。イエスはわたしたちの共同体に現存する、生きたかただからです。
 イエスの現存はわたしたちの心を喜びで満たします。この3週間、イエスが与えてくださった恵みに感謝しながら、わたしたちは賛美の歌をささげます。「わたしの魂は主をあがめます。・・・・力あるかたが、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・46、49)。わたしたちはマリアのことばを自分のものとします。主は世々を通じて、世界のさまざまなところで、ご自分の教会にまことに偉大なことをなさいました。わたしたちは主をあがめます。わたしたちは信じています。主はわたしたちの貧しさに必ず目を注ぎ、現代においてその腕で力を振るい、新しい福音宣教の道を歩むわたしたちを支えてくださいます。
 マリアの姿がわたしたちの歩みを導いてくださいます。教皇ベネディクト十六世が述べたとおり、この歩みは荒れ野の旅のように思われるかもしれません。わたしたちは、必要不可欠なものを携えながら、この道を進まなければならないことを知っています。すなわち、霊のたまもの、ともに歩んでくださるイエス、真理のみことば、わたしたちの糧である聖体のパン、友愛に満ちた教会の交わり、そして愛のわざです。井戸の水が荒れ野に花を咲かせます。荒れ野の夜、星がより明るく輝くのと同じように、新しい福音宣教の星であるマリアの光は、道を歩むわたしたちの上で力強く照り輝きます。わたしたちはマリアに信頼をこめて身をゆだねます。

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