世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会提言

世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会は、10月27日(土)午前に行われた第22回全体会議で、「提言」(Propositiones)の投票を行いました。「提言」の公式テキスト(ラテン語)はシノドスの規則により公開さ […]

世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会は、10月27日(土)午前に行われた第22回全体会議で、「提言」(Propositiones)の投票を行いました。「提言」の公式テキスト(ラテン語)はシノドスの規則により公開されませんが、第11回(2005年)と第12回(2008年)のシノドス通常総会に続いて、今回も教皇ベネディクト十六世の許可により、シノドス事務総局による暫定訳(今回は英訳)が同日公表されました。以下はこの英語訳に基づく「提言」の全訳です。

序文

提言1:教皇への文書の提出

 教皇に提出された「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマとする本シノドスの諸文書、すなわち、「提題解説」、「討議要綱」、「基調講演」、「中間報告」、またシノドスホールで述べられた発表と文書で提出されたものを含めた発表原稿、「最終メッセージ」、分団会とその討議の報告に加えて、シノドス参加司教は次の提言が重要と考える。
 シノドス参加司教は、教皇がこの機会に、新しい福音宣教によるキリスト教信仰の伝達に関する文書を発布してくださることをつつしんでお願いするものである。

提言2:シノドスによる感謝の表明

 シノドス教父は、これまでのシノドス総会の成果を豊かなものとした教皇の教えの遺産に感謝する。この教えは「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」のためのシノドス会期中の議論の基盤となった。シノドスは教皇パウロ六世の『福音宣教』、福者教皇ヨハネ・パウロ二世の『要理教育』、『救い主の使命』、『新千年期の初めに』、教皇ベネディクト十六世の『愛の秘跡』、『主のことば』といった文書から考察を引き出した。こうした導きの最新の模範は、シノドスの初めに教皇が開年した「信仰年」である。このような教皇の預言職に感謝する。

提言3:カトリック東方教会

 使徒から教父へと伝えられた聖伝に照らされた、自主権を有するカトリック東方教会は、キリストの教会全体の遺産である(『カトリック東方諸教会に関する教令』2、『東方教会法』第39条参照)。カトリック東方教会は、そこから福音が遠く地の果てまでもたらされた、使徒の遺産である(『中東における教会』88参照)。
 カトリック東方教会は、ラテン教会の伝統を有する諸国に移住した自分たちの信者に対する司牧活動を行えるようになったことを感謝している。また、世界の部分教会の信者と聖職者が自分たちの伝統をもっと知り、尊重するようになることを願っている。

一 新しい福音宣教とは何か

提言4:新しい福音宣教の源泉である三位一体の神

 教会とその宣教使命の起源と源泉は三位一体の神である。すなわち、御父の計画と、死と栄光ある復活において頂点に達した御子のわざと、聖霊の派遣である。
 福音宣教を、より広く深い神学的・教理的枠組みにおいて、ことばと秘跡のわざとして理解すべきである。秘跡は、とくに聖体を通して、わたしたちが三位一体の神のいのちにあずかることを可能にする。そこから、聖霊の恵みを通して、福音宣教を行い、熱意と勇気をもって神のことばをあかしする力が生じる。
 新しい福音宣教は、神の恵みが第一に優先されること、人は洗礼によってキリストと結ばれて生きるようになることを認める。神の子となることを強調することにより、洗礼を受けた人を信仰生活へと導かなければならない。信仰生活は、個人の活動のあらゆる側面において自らのキリスト信者としてのあるべき姿をはっきりと示すものでなければならない。

提言5:新しい福音宣教とインカルチュレーション

 イエスは聖霊のたまものを与え、御父の愛をわたしたちに示された。新しい福音宣教は、目覚め、新たな励ましを与え、イエス・キリストが信仰と日々の生活の中心であることをあかしするときである。新しい福音宣教は教会に属するすべての人に、信仰の刷新と信仰を実際に伝える努力を呼びかける。そのためには、教会の奉仕職に影響を与える世と、さまざまな部分教会において時のしるしを見分けることも必要である。これらの時のしるしのうちでも、人々が現代の生活環境の変化をますます自覚してきたことをはっきりと認識すべきである。
 さらに新しい福音宣教は教会に呼びかける。神とキリスト教共同体から離れた人に手を差し伸べ、神のことばにあらためて耳を傾けるよう招くようにと。それは新たに深いしかたで主イエスと出会うためである。
 新しい福音宣教は信仰のインカルチュレーションに特別な関心を払うことを要求する。信仰のインカルチュレーションは、あらゆる文化における積極的なものを評価すると同時に、キリストにおいて現された神の計画に従った人格の完成に反する諸要素を清めることによって、福音を伝える。インカルチュレーションは、「各民族の文化に福音を根づかせる」(『カトリック教会のカテキズム』854)ことを含む。

提言6:福音の告知

 わたしたちの救い主である神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2・4参照)。教会は、神の救いの普遍的計画を信じているからこそ、宣教しなければならない(『福音宣教』14、『カトリック教会のカテキズム』851参照)。教会はまた「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(『教会憲章』16)ことを知っている。イエス・キリストの福音は、キリストの生涯とその受難、死、復活と栄光化の過越の神秘を告げ知らせることである。
 しかし公会議は、すべての人の救いのために福音宣教が必要であることを思い起こさせてくれる。なぜなら「しばしば人々は、悪魔に欺かれて、自分たちの考えの中に空しく迷い、神の真理を偽りと置き換えて、創造主よりも被造物に仕えたり(ローマ1・21、25参照)、あるいは神なしにこの世に生きそして死んでゆくなど絶望のきわみにさらされている。したがって、神の栄光とこれらすべての人々の救いとを念ずる教会は、『すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい』(マルコ16・15)との主の命令を忘れることなく、布教活動を励まし支えるよう熱心に努力する」(『教会憲章』16)からである。

提言7:教会の永遠の宣教的次元としての新しい福音宣教

 すべての部分教会に福音宣教を行うよう励ますために、教会が自らの宣教の永遠の世界宣教的側面を宣言することを提言する。
 福音宣教を3つの側面において理解することができる。第一に、「諸民族への」(ad gentes)福音宣教は、イエス・キリストを知らない人々に福音を告げ知らせることである。第二に、福音宣教は、教会の日常生活である、信仰の継続的成長を含む。最後に、新しい福音宣教は、とくに教会から離れた人々に向けられる。
 部分教会が自らのさまざまな働き手と力を評価し統合するよう励まさなければならない。同時に、各部分教会は自らの性格と伝統に従って福音宣教を行う自由をもたねばならない。ただしその際つねに自己の司教協議会ないしカトリック東方教会の司教会議との一致を保つべきである。世界宣教は、ローマ教皇の招きにより、新しい聖霊降臨として、聖霊のわざにこたえるものである。教皇は、すべての信者がすべての家庭を訪ね、キリストのいのちを人々のあらゆる状況にもたらすよう招いている。

提言8:世俗世界におけるあかし

 われわれは世俗世界に生きるキリスト信者である。世界はかつてもこれからも神の被造物であり続けるが、人間文化の領域では世俗化が進行している。われわれキリスト信者は世俗化の過程に無関心でいることはできない。実際われわれは初期のキリスト信者と同じような状況に置かれている。それゆえ、このことを課題と可能性とみなすべきである。われわれは世に生きているが、世に属していない(ヨハネ15・19、17・11、16参照)。世は神の被造物であり、神の愛を示す。われわれはイエス・キリストを通して神の救いを与えられ、神の創造の発展を見分けることができる。イエスはわれわれのために新たな門を開かれた。そのためわれわれは、恐れることなく教会と世の傷を愛をもって包むことができる(ベネディクト十六世参照)。
 かつてよりも困難な側面を示す現代にあって、われわれは「小さな群れ」(ルカ12・32)ではあるが、福音の救いのメッセージをあかしし、新しい世の塩と光となるよう招かれている(マタイ5・13-16参照)。

提言9:新しい福音宣教と最初の告知

 最初の告知(ケリュグマ)の基盤である福音は、救いをはっきりと告げることを第一に置く。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(一コリント15・3-5)。「最初の告知」は、イエス・キリストの過越の神秘に関する救いのメッセージが、大きな霊的力をもって告げ知らされることである。それは罪の悔い改めと、回心と、信仰の決断をもたらす。同時に、最初の告知と信仰教育の間に連続性がなければならない。信仰教育はわれわれに、ゆだねられた信仰の遺産を教えるからである。
 われわれは「最初の告知に関する司牧計画」が必要だと考える。それは、イエス・キリストとの生きた出会いを教えることである。この司牧文書は要理教育の初歩的な諸要素を示し、小教区共同体の生活にそれを根づかせることを可能にするものである。
 シノドス教父は、ケリュグマの最初の告知に関する指針が作成されることを提言する。この要綱は次のものを含む。
・聖書とカトリック教会の聖伝におけるケリュグマに関する体系的な教え。
・現代の司牧問題にこたえる助けとなるような、カトリック教会の歴史における宣教者の聖人・殉教者の教えとことば。
・現代のカトリックの福音宣教者の養成のための基準と指針。

提言10:福音を告げ知らせる権利と、福音を聞く権利

 福音とイエスを告げ知らせることは、福音に基づくすべてのキリスト信者の義務である。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28・19)。
 同時に、イエス・キリストと福音を知ることができることは、宗教のあるなしを問わず、あらゆる人の不可譲の権利である。完全な形でなされる福音の告知は、決して強制的改宗の形をとることなく、各人の人格を完全に尊重しつつなされなければならない。

提言11:新しい福音宣教と、聖書を祈りとともに読むこと

 神は肉となったみことばを通してご自身を知らせてくださった。われわれが教会の典礼、とくに感謝の祭儀の中で聞き、記念する、この神のことばは、信者の心を強め、日々の生活の中で真に福音をあかしすることを可能にする。シノドス教父は、神のことばが「ますますあらゆる教会活動の中心に置かれる」(『主のことば』1)ことを願う。
 すべての信者に聖書への門が開かれなければならない。新しい福音宣教との関連で、聖書を学ぶためのあらゆる機会が提供されるべきである。聖書が、説教、信仰教育、信仰を伝えるためのあらゆる努力に浸透しなければならない。
 新しい福音宣教と信者の霊的成長にとって神のことばに親しむことが必要なことを考慮して、シノドスは、教区、小教区、キリスト教小共同体が、真剣な聖書研究と霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)すなわち聖書を祈りとともに読むこと(『神の啓示に関する教義憲章』21-22参照)を継続するよう勧める。

提言12:第二バチカン公会議公文書

 シノドス教父は、新しい福音宣教との関連で、第二バチカン公会議の教えが信仰を伝えるための生きた手段であると認める。同時にシノドス教父は、公会議文書を適切なしかたで読み、解釈すべきであると考える。それゆえシノドス教父は、教皇ベネディクト十六世の考えに対する賛同を表明する。ベネディクト十六世は、公会議文書の中に公会議の真の精神を見いだすために、連続性における改革に基づく解釈法という原理を示した。「『改革による解釈法』があります。改革とは、主がわたしたちに与えた、一つの実体としての教会の連続性の中で行われる刷新のことです。教会は時の中で成長し、発展します。けれども教会は、つねに同一のものであり続けます。それは、旅する神の民という一つの実体だからです。・・・・わたしたちが正しい解釈法に導かれながら、公会議を解釈し、実施するなら、公会議は絶えず必要とされる教会の刷新のために、力となることができますし、またいつまでも力となることができるでしょう」(ベネディクト十六世「教皇庁に対する降誕祭のあいさつ(2005年12月22日)」)。こうして現代世界の刷新への要求にこたえながら、教会の本性と使命の同一性を忠実に保つことができるのである。

二 現代の教会の奉仕職が置かれた状況

提言13:現代の諸問題

 グローバル化と世俗化の過程を特徴とする、世界のさまざまな状況の中で福音をのべ伝えることは、教会にさまざまな課題をもたらす。公然たる宗教的迫害が行われる場合もあれば、無関心、干渉、制限、いやがらせも広く行われている。
 福音の示す人生観、世界観は、強制すべきものではない。それは神の惜しみない愛と平和に関するよい知らせとして提示することしかできない。真理と美のメッセージは、人々が孤独と意味喪失から脱出する助けとなる。ポスト・モダン社会は人々をしばしばこうした状況に追いやっているからである。
 それゆえ、信者は、キリストの神秘に基づく人間性の輝きを世に示そうと努めなければならない。民間信心は重要であるが、それだけでは不十分である。教会から離れたカトリック信者、キリストに従わない人、セクトや、さまざまなスピリチュアリティを実践する人に対して、キリスト教の希望を説明する責務を認識させる必要がある。

提言14:新しい福音宣教と和解

 戦争と暴力によって引き裂かれた世界、人間どうしを分裂させ、対立させる個人主義の広まりによって傷ついた世界の中で、教会は、静かに、しかし決然と、和解の奉仕を果たさなければならない。新しい福音宣教の精神をもった教会は、和解の務めに取り組む。教会は、イエスのメッセージ(エフェソ2・14「キリストは・・・・敵意という隔ての壁を取り壊しました」)に忠実に従って、人類を分裂させる隔ての壁を取り壊そうと努力しなければならない。教会は、愛のメッセージを携えながら、われわれの主の救いの福音の新しさをのべ伝えなければならない。主はわれわれを罪から解放し、すべての人の一致と平和と正義を築くよう招くために来られた。

提言15:新しい福音宣教と人権

 新しい福音宣教は人間の尊厳を強調するので、シノドスは、立法家、教師、人文科学の研究者に、公共政策においても実践においても人間の人格を完全に尊重するよう促す。
 同時に、地域の状況と団体において、あらゆる機会に、自然法が示す人間の人格の適切な理解に由来する権利を、理論においても実践においても、定義し、支持し、擁護しなければならない。

提言16:信教の自由

 シノドス教父は、信教の自由が基本的人権であることを再確認する。信教の自由には、良心の自由と、自らの宗教を選択する自由が含まれる。われわれは、信教の自由が認められず、迫害まで受けて苦しむ、世界のさまざまな地域の兄弟姉妹と連帯する。新しい福音宣教の手段である第二バチカン公会議に照らされ、世界中のキリスト信者の信教の自由を守ることがますます必要とされている中で、シノドス教父は、『信教の自由に関する宣言』の教えの普及にあらためて取り組むことを提言する。この新たな取り組みは、すべての人の共通善を守るために、個人、家庭、団体にとっての宗教の自由を確認し、推進することをめざす。宗教の自由は、教義の妥協なしに、家庭や学校で子どもにキリスト教信仰を教える権利も含む。
 シノドス教父は、教皇が、可能であれば世界の諸地域の教会を代表する教会指導者の委員会を設立すること、あるいは、この任務を教皇庁正義と平和評議会にゆだねることを提言する。それは、信教の自由の侵害に抗議し、信教の自由と良心の自由の基本権について世論に正確な情報を与えるためである。

提言17:信仰の前提と、信頼できる神学

 グローバル化した現代文化の状況の中で、多くの疑問や障害が、懐疑主義と、思考と生活に関する新たな枠組みを生み出している。新しい福音宣教にとって、「信仰の前提」の役割を強調することがきわめて重要である。それは、信仰が理性と対立するものでないことを示すためだけでなく、自然理性が明らかにする正しい人間観に多くの真理と事実が含まれることを強調するためである。その中でも重要なのは自然法と、それが人間社会全体にもたらす帰結である。「自然法」と「人間本性」の概念は、学問のレベルでも一般的レベルでも合理的に明らかにすることが可能である。こうした知的な発展と取り組みは、キリスト信者と善意の人々の対話を助け、創造主である神の存在とあがない主イエスのメッセージの認識へと道を開くであろう。シノドス教父は、神学者がキリスト教思想の新たな護教論を展開するよう求める。それは新しい福音宣教のために適切な、信頼できる神学となる。
 シノドスは、神学者たちが、新しい福音宣教の知的挑戦を受け入れ、これにこたえて、キリストの福音を告げ知らせるという教会の使命にあずかるよう呼びかける。

提言18:新しい福音宣教とマスメディア

 マスメディアの使用は、救いのメッセージをすべての人に届けるために重要な役割を果たす。マスメディア、とくに電子メディアの世界では、信仰とキリスト教的道徳の内容を忠実に伝えられる、しっかりしたキリスト信者を養成する必要がある。彼らは、グローバルな村となった世界でコミュニケーションのために用いられる、現代の言語と手段を使いこなす能力をもたねばならない。信仰を伝達するためのもっとも効果的な手段は、依然として、生活のあかしを分かち合うことである。これなしにいかなる「メディア」も福音を効果的に伝えることができない。マスメディアの賢明で建設的な使用法に関する教育は、新しい福音宣教が用いる重要な手段である。

提言19:新しい福音宣教と人間性の発展

 教皇の社会教説に関する教導職は、福音宣教と、個人また社会の自由の発展の間の、神学的・人間的・教育的なつながりを示してきた。現代、人格を抑圧するあらゆるもの(すなわち罪とその結果)からの解放を告げ知らせることなしに新しい福音宣教を考えることは不可能である。いのちと正義の問題に真剣に取り組むこと、貧困と疎外を生み出す状況を変えることなしに(『真の開発とは――人間不在の開発から人間尊重の発展へ』36参照)、発展はありえない。このことはとくにグローバル化の問題にいえる。

提言20:新しい福音宣教と美の道

 新しい福音宣教において、美の道に特別な注意を向けなければならない。「よい羊飼い」(ヨハネ10・11参照)であるキリストは、人となった真理であり、しるしで現された美の啓示であり、限りなくご自身を注ぎ出される。イエスに従う若者に、キリストのいつくしみと真理だけでなく、その完全な美もあかしすることが重要である。アウグスティヌスが述べたとおり、「われわれの愛するのは美しいものにほかならないではないか」(『告白』:Confessiones IV, 13, 20〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、 1968年、148頁〕)。美はわれわれを愛へと引き寄せる。神は愛を通してご自分のみ顔を示し、われわれはこのみ顔を信じるのである。ここから芸術家は、自らが新しい福音宣教の特別な伝達者であるよう呼びかけられていることが分かる。
 神学生の教育において、美に関する教育や教会芸術に関する教育をないがしろにしてはならない。第二バチカン公会議が教えるとおりである(『典礼憲章』129参照)。美はつねに新しい福音宣教の特別な次元となるべきである。
 教会は、典礼祭儀に用いる聖なる場所にふさわしい芸術の質を配慮し、高めなければならない。その際、美しさと表現の真実さを保つべきである。
 新しい福音宣教にとって、教会が芸術の分野に現存することが重要である。自らの霊性と司牧によって、芸術家が創造性を発揮するのを支え、作品の中に現在化される生き生きとして真実な救いの霊的体験を深めるためである。

提言21:移住者

 多くの国が他国から来た人々によって大きな恩恵をこうむったのと同じように、教会も、宣教使命を果たす多くの人のあかしと福音宣教活動によって大いに成長してきた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。移住者の信仰は危険と脅威にさらされているので、教会が司牧計画をもって援助することが重要である。司牧計画は移住者とその家族を対象とし、彼らが社会の生きた細胞また家庭教会として果たす重要な役割を知らせなければならない。小教区は、移住者が社会とキリスト教共同体に溶け込む助けとならなければならない。移住者に対する教会の司牧計画は、移住者を受け入れるだけでなく、彼らの人間の尊厳を推進しなければならない。しかし何よりも彼らの典礼伝統を尊重しつつ、彼らが教会生活になじむ助けとならなければならない。司牧計画は、彼らがカトリック教会から疎外されることのないよう助けとならなければならない。
 移住者は、単に受け入れられるだけでなく、現代世界で福音を告げ知らせる当事者でもある。
 移住の動きが活発な今、人格の中心的意味と尊厳を強調することが重要である。とくに、恥ずべき人身売買、とくに子どもの人身売買と、臓器売買と関連する新たな奴隷制度という深刻な現象が存在するためである。難民、避難民、船員、移動生活者、非定住者とかかわる際、こうした意識を高めるべきである。

提言22:回心

 古くから存在する、善と悪、信仰と恐れが戦うドラマを、キリストへの回心への招きの不可欠な背景、構成要素として示さねばならない。この戦いは、自然のレベルでも超自然的レベルでも続く。「いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7・14)。多くの司教が、新しい福音宣教の真に効果的な担い手となるには、自らの生活において聖性を刷新しなければならないと述べた。
 新しい福音宣教は個人と共同体の回心と、福音宣教の新しい方法と、司牧構造の刷新を要求する。現状維持のための司牧戦略から、宣教的な司牧姿勢へと転換するためである。新しい福音宣教はわれわれを真の司牧的回心へと導く。この回心が、もはや現代の福音的課題にこたえられなくなった司牧構造の見直しと動的転換を行うための態度と取り組みへとわれわれを導いてくれる。

提言23:聖性と新しい福音宣教者

 聖性への普遍的召命は新しい福音宣教の不可欠の要素である。新しい福音宣教は、聖人こそが、召命にこたえるさまざまなしかたの力強い模範であると考える。聖性のさまざまな歩みに共通するのは、愛を実践する信仰生活の中でキリストへの信従を表すことである。愛の実践は、特別な意味で福音宣教となる。
 われわれはマリアこそが聖性の模範と考える。その聖性は自分を完全に与えることも含む、愛のわざに示されている。
 聖性は、福音宣教を行う者にとっても、福音宣教の受け手にとっても、あらゆる福音宣教活動の重要な部分である。

提言24:教会の社会教説

 社会の中で新しい福音宣教を推進するために、教会の社会教説にますます目を向けなければならない。教会の社会教説は、信仰を告げ知らせ、あかしすることであり、信仰教育のかけがえのない手段だからである(『真理に根ざした愛』15参照)。教会の社会教説は、信仰教育の内容、キリスト教教育、神学生と修道者の養成、司教と司祭の継続教育、とくに信徒の教育に浸透しなければならない。『教会の社会教説綱要』は継続教育を行う上での貴重な教材である。

提言25:都市における新しい福音宣教

 教会は、都市とその文化、都市で起きている変化が、新しい福音宣教の特別な場であると認める。教会は、神の救いの計画に奉仕するものなので、「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21・2-4参照)がある意味で人間の現実の中に存在するのを見いだす。教会は、都市の司牧計画を実践するにあたり、都市社会に典型的に見られる経験、言語、生活様式を見極めようと望む。教会は、自らの典礼、共同生活の体験、愛の実践を、都市の状況に合わせることをめざす。それは、福音をすべての市民の生活の中に受肉させるためである。教会は、多くの都市で神の存在が認められず、人間の尊厳がしばしば攻撃されていることも知っている。たとえば、薬物売買と関連する暴力、さまざまな汚職、多くの犯罪である。われわれは、福音を告げ知らせることが、都市の状況の中で人間のいのちの尊厳を回復させるための基盤となりうると信じる。イエスの福音が「来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。

三 現代の状況に対する司牧的応答

提言26:小教区と運動団体

 シノドスに集まった司教は、小教区が、地域社会における教会の第一の現存、キリスト教的生活の場また手段であり続けることを確認した。小教区は、人々が対話し、神のことばを告げ、また聞き、有機的に信仰教育を行い、愛の実践を準備し、祈り、礼拝と喜びをもって感謝の祭儀をささげる機会を与えることができるからである。さらにシノドス教父は、小教区が、福音宣教にもっと重点を置いたものとなるための方法を見いだすよう促したい。この福音宣教は、小教区宣教、小教区の刷新プログラム、小教区黙想会を含む。キリスト信者の会、運動団体、その他の教会団体の宣教活動は、司牧的回心を行うための有益な刺激となる。小教区も、伝統的なものと新しいものを含めた運動団体も、ともに司教に結ばれた部分教会の交わりを目に見えるものとするよう招かれている。
 新しい福音宣教が求めるとおり、すべての民にイエスの福音を伝えるために、すべての小教区と小共同体は、個人また共同体としてキリストと出会い、典礼の豊かさを体験し、入門的また継続的なキリスト教教育を行い、すべての信者を兄弟愛と貧しい人への愛のわざを行うように導くための、生きた細胞となり、場とならなければならない。

提言27:教育

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19-20)。教育は福音宣教の不可欠の構成要素である。復活したイエス・キリストを告げ知らせることは、すべての人の個人の歴史、成長、霊的召命に同伴することである。同時に教育は、人間の人格に見いだされるすべての真実なもの、よいもの、美しいものを高め、精神と感情が現実を評価できるよう教育することを必要とする。
 子どもも10代の少年少女も若者も、福音を告げ知らされ、教育を受ける権利をもつ。学校とカトリック大学は、この要求にこたえる。公的機関もこの権利を認め、支えなければならない。
 学校は、家庭が子どもに信仰のすばらしさを伝える助けとならなければならない。学校は信仰を伝え、少なくとも知らせるすぐれた機会を提供する。シノドス教父は、世界のカトリック教育機関で多くの教員が行っている教育活動に感謝する。
 教師には特別な役割があるので、自らの責務を果たすための継続教育を受けることが重要である。
 学校は教育の自由を与えられなければならない。この自由は不可侵の権利である。
 そのため、カトリック教育機関が、単なる福音宣教の成果ではなく、福音宣教の担い手となるために、シノドスは
・カトリック教育機関が教会機関としてのアイデンティティを維持するためにできるかぎりのことを行うよう励ます。
・すべての教師が、洗礼を受けたイエスの弟子としてのリーダーシップを発揮し、教育者としての召命を通してあかしを行うよう招く。そして、
・部分教会、修道家族、教育機関のすべての責任者に、信徒の共同責任を促進し、そのための適切な教育と同伴を行うよう促す。

提言28:成人の信仰教育

 成人の信仰教育が存在しないか、中途半端であるか、なおざりにされているなら、新しい福音宣教について語ることはできない。こうした欠如が存在する場合、司牧は深刻な問題に直面することになる。
 教会の洗礼志願期の段階とレベルは、聖書的、信仰教育的、霊的、典礼的な意味で、人間の歴史と信仰の歩みを神との関係を通じての召命と考えることができることを示す(『福音宣教』18、『討議要綱』92参照)。
 洗礼志願者が行う信仰の決断の公的性格(それは共同体と教区の中で少しずつ成長してきた)は、すべての信者に積極的な影響を及ぼす。

提言29:信仰教育、カテキスタ、カテキズム

 適切な信仰教育は新しい福音宣教にとって不可欠である。シノドスは、カテキスタが教会共同体に対して行うかけがえのない奉仕に目を向け、彼らの献身に深い感謝を表す。すべてのカテキスタは(彼らは同時に福音宣教者でもあるため)、適切な養成を必要とする。地域の状況の許す範囲内で、できるかぎりカテキスタに、しっかりした(霊的、聖書的、教理的、教育学的な)教会的養成を施さなければならない。『カトリック教会のカテキズム』と『カトリック教会のカテキズム要約』は、カテキスタが信仰を教え、教会の成人を支えることを通して、自らの福音宣教と信仰教育の使命を果たす上での第一の教材である。
 教皇パウロ六世の使徒的書簡『ミニステリア・クエダム』に従い、司教協議会は聖座にカテキスタの奉仕職の養成を願い出ることができる。

提言30:神学

 信仰の学としての神学は新しい福音宣教にとって重要である。司祭、教師、カテキスタは高等教育機関で養成を受けなければならない。教会は神学研究と神学教育を評価し、推進する。学問的神学は大学の中で固有の位置を占める。神学は大学の中で信仰と他の諸学と世俗世界との対話を行う。神学者は教会の救いの使命の一環としてその奉仕を行うよう招かれている。神学者が教会とともに考える(sentire cum Ecclesia)ことが必要である。シノドスは、新しい福音宣教があらゆる神学部の使命の不可欠の部分と考えられること、カトリック大学の中に「〈新しい福音宣教〉研究科」が設立されることを提言する。

提言31:新しい福音宣教と貧しい人の優先的選択

 教皇ベネディクト十六世はこう述べる。「イエスは、困っている人は自分のことだといいます。困っている人とは、飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人のことです。『わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ25・40)。神への愛と隣人愛は一つになります。わたしたちは、もっとも小さな兄弟の中にイエス自身を見いだし、イエスの中に神を見いだすからです」(『神は愛』15)。
 現代、新たな貧しい人、貧しい人の新しい姿が見いだされる。飢餓にあえぐ人、ホームレス、病者と見捨てられた人、薬物中毒患者、移住者と疎外された人、政治難民と環境難民、原住民である。最近の経済危機は貧しい人に深刻な打撃を与えた。現代社会のもっとも貧しい人は、無罪の人間のいのちの不可侵の尊厳に対する尊敬を欠いた態度の犠牲者である。
 貧しい人の優先的選択は、貧しい人のところに行き、彼らのために働き、彼らが教会を自分の家と感じられるようにするように、われわれを導く。貧しい人は新しい福音宣教の対象であると同時に担い手でもある。

提言32:病者

 新しい福音宣教はイエス・キリストの死と復活の過越の神秘をますます自覚する。この神秘は苦しむ人々に光を当てる。苦しむ人々はキリストの十字架のうちに、苦しみの神秘を理解し、受け入れることができる。これが彼らに来世への希望を与える。
 病者、苦しむ人、障害者、特別な助けを必要とする人の中で、キリストの苦しみが現存し、宣教の力をもつ。キリスト信者にとっては、苦しむ人と病者のための場所がつねになければならない。彼らはわれわれの配慮を必要としているが、われわれは彼らの信仰からより以上のものを与えられる。
 キリストは病者を通してご自分の教会を照らす。それは、病者に触れた人がキリストの光の反映を見いだすためである。だから病者は新しい福音宣教の重要な参加者なのである。
 病者に触れた人は皆、自らの使命に気づく。新しい病院を建設する際、慰めと支えの場と、祈りの場を設けることを忘れてはならない。

提言33:ゆるしの秘跡と新しい福音宣教

 ゆるしの秘跡は、神のあわれみとゆるしを受けるための特別な場である。それは個人的また共同体的ないやしの場である。ゆるしの秘跡により、洗礼を受けたすべての人は新たに個人としてイエス・キリストと出会い、また教会とも新たに出会う。罪のゆるしを通じて完全な和解が与えられるからである。このとき、悔い改めた人はイエスと出会うと同時に、深い自己受容を体験する。シノドス教父はゆるしの秘跡をあらためて教会の司牧活動の中心に置くことを求める。
 あらゆる教区で、少なくとも一つの場所をゆるしの秘跡のために特別なしかたで恒久的に用いるべきである。そこでは司祭が常駐し、すべての信者が神のあわれみを体験できる。とくに巡礼所や特別に奉献された教会堂では、毎日でも、ゆるしの秘跡が受けられるようにすべきである。ゆるしの秘跡の授与を規定する特別な規則を忠実に守らなければならない。すべての司祭はゆるしの秘跡を自らの役務と新しい福音宣教の本質的な部分と考え、あらゆる小教区で、告白を聞く適切な時間をとらなければならない。

提言34:主日と祝日

 聖体は新しい福音宣教の源泉と頂点である。シノドス教父はすべてのキリスト信者に、感謝の祭儀への理解と愛を新たにするよう勧める。感謝の祭儀の中で、信者の生活は造り変えられ、キリストが全世界の救いのために父である神の栄光にご自分のいのちをささげるわざにあずかる。
 キリスト教の主日と世俗的な日曜日の間には緊張関係があるが、福者ヨハネ・パウロ二世の『主の日――日曜日の重要性』の教えに従い、新しい福音宣教のために主日を再発見しなければならない。主日のミサとともに聖なる特別な性格をもった主日は、カトリック信者の生活の中心となるべきである。全共同体の完全な、積極的で、意識的な典礼参加が目的である。新しい福音宣教の真の計画は、典礼暦と祝日、とくに降誕祭と復活祭に従うべきである。

提言35:典礼

 神が与えてくださったもっとも貴いたまものである典礼をふさわしく祝うことは、キリストに結ばれた生活の最高の表現また源泉である(『典礼憲章』10参照)。それゆえ典礼は、新しい福音宣教の第一のもっとも強力な表現である。神は典礼を通して、ご自分の限りなく絶えざる愛の比類のないすばらしさを示すことを望まれる。われわれは神の恵みにこたえて、典礼の中でもっとも美しいものを用いたいと望む。天が地上に降るという、典礼の驚くべき交換により、救いがもたらされ、悔い改めと回心が呼びかけられる(マタイ4・17、マルコ1・15参照)。
 教会の福音宣教は、人の心を神へと高める典礼を必要とする。典礼は単なる人間の行為ではなく、神との出会いである。それは人を観想と神との深い友愛へと導く。この意味で、教会の典礼は最高の信仰の学びやである。

提言36:新しい福音宣教の霊的側面

 福音宣教の主要な担い手は聖霊である。聖霊が人の心を開き、神へと向けるからである。主イエスと出会う体験は、人を三位一体のいのちへと導く聖霊によって可能になる。こうして人は礼拝と祈願と賛美の心でこのいのちを受け入れる。こうした体験が新しい福音宣教のあらゆる側面の基盤とならなければならない。
 この新しい福音宣教の「観想的な側面」は、典礼、とくに教会生活の源泉と頂点である感謝の祭儀を初めとした、祈りによって絶えず深められる。
 それゆえわれわれは、幼児のときから祈ることを勧め、教えることを提言する。生活の中で神の現存を見いだし、神を賛美し、神の与えてくださったたまものに感謝し、聖霊の導きを願えるように、家庭と学校で子どもと若者を教育しなければならない。

提言37:新しい福音宣教における堅信の秘跡

 すべてのキリスト信者は、洗礼と堅信の秘跡により、福音宣教の使命をゆだねられる。この秘跡の中で、信者は聖霊の塗油によって証印を押され、聖霊降臨の神秘にあずかるよう招かれる。堅信により、洗礼を受けたすべての人は、聖霊とそのたまものと、福音を公に勇気をもってあかしする力を豊かに受ける。
 洗礼によって子とされる恵みに、秘義教育が伴うことが重要である。その際、聖霊のたまものの重要性を強調しなければならない。人は聖霊によって、教会の聖体に生かされたあかしと、そのあらゆる生活と人間活動の領域に影響を及ぼす力に完全にあずかることができるからである。
 それゆえ、洗礼と堅信の秘跡を受ける前に、適切で体系的な信仰教育を行うことがきわめて重要である。

提言38:キリスト教入信の過程と新しい福音宣教

 シノドスは、キリスト教入信の過程は、新しい福音宣教のきわめて重要な要素であり、母である教会が子どもを産み、よみがえらせる手段であるといいたい。それゆえわれわれは、伝統的なキリスト教入信の過程(それはしばしば単なる秘跡の準備にすぎないものとなっている)が、どこにおいても求道者の観点から考察され、継続的な秘義教育を重視することにより、秘跡を通したキリスト教的生活への導入となることを提言する(『カテケージス一般指針』91参照)。このことに関連して、今日、キリスト教入信の3つの秘跡は、たとえ神学的に一体とみなされているとはいえ、司牧的には多様なしかたで行われている。教会共同体におけるこの違いは、教理的な性格のものというより、司牧的な判断に基づくものである。しかし、シノドスは教皇が『愛の秘跡』18で述べたことが、キリスト教入信の過程を教区と司教協議会が見直す刺激となることを求める。「具体的には、どのようにすれば、信者が入信の過程全体の目的として、聖体の秘跡を中心に置くことができるかを考える必要があります」(『愛の秘跡』18)。

提言39:民間信心と新しい福音宣教

 民間信心はキリストと出会うためのまことの場であり、聖なるおとめマリアと諸聖人に対するキリスト信者の民の信仰をも表す。新しい福音宣教はこうした信仰表現の価値を認め、それがキリスト教的徳を成長させる方法となるよう促す。
 巡礼所への巡礼は新しい福音宣教の重要な要素である。それは、多くの人が巡礼を続けているためだけでなく、巡礼という形での民間信心が、回心と信仰の成長を促す特別に有望な機会となるためである。それゆえ、巡礼者を適切なしかたで迎え入れ、巡礼者の深い望みにこたえて、巡礼が真の恵みのときとなる機会を与えるよう、司牧計画を立てることが重要である。

提言40:教皇庁新福音化推進評議会

 シノドスは、教皇が教皇庁新福音化推進評議会を、部分教会に奉仕する手段として設置してくださったことを感謝する。そして、同評議会がシノドスの議論をさらに検討し、新しい福音宣教を展開・推進してくれることを願う。
 シノドスはまた各司教協議会に、新しい福音宣教をめぐるテーマに関連する教導職の教えを研究し、広めるための委員会の設置を検討するよう求める。こうして部分教会の協力が強化され、新しい福音宣教の実施をいっそう効果的なものとすることができる。

四 新しい福音宣教の担い手と参加者

提言41:新しい福音宣教と部分教会

 司祭と助祭の助けを得、奉献生活者と信徒の協力のもとに、司教に導かれた部分教会が、新しい福音宣教の主体である。なぜなら、部分教会はそれぞれの地域におけるキリストの教会の具体的な現れであり、それ自体として、新しい福音宣教を行うための司牧活動を計画し、組織し、実施するからである。
 教会の中で、洗礼を受けたすべての人に向けられた聖性への招きが響き渡る。この招きは、キリストに従い、愛と善意をもってすべての人に向かい、人々の中での聖霊の働きを見分けるように促す。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34-35)。初期キリスト教共同体にとって、交わりは信仰生活の構成要素であり、福音宣教に必要なものであった。彼らは心も思いも一つにしていた。教会は交わりである。すなわち、教会は神の家族である。
 教会は、教会に属する一人ひとりの人が、生地の中のパン種のようになるという責任を自覚することを可能にする。こうして「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5・6)は、世のあらゆる側面に対してあかしとなって広まる。そして、すべての人に、キリストと出会い、福音宣教者となる可能性を与える。それぞれの部分教会が、どのような困難があっても、他の部分教会と協力しながら、信者の宣教意識を高めることが望ましい。

提言42:司牧活動の統合

 それぞれの部分教会は、教会の宣教の第一の共同体である。部分教会は、さまざまなカリスマと奉仕職と生活の身分と資源を統合できるように、司牧活動の刷新を促し、導かなければならない。これらすべてのものが、有機的な宣教計画の中で組み合わされなければならない。キリスト教的生活を、すべての人に、とくに教会の配慮から遠ざかっていると感じている人に豊かに伝えられるためである。こうした取り組みは教区を構成するさまざまな要素の対話と協力から生まれなければならない。すなわち、小教区、キリスト教小共同体、教育機関、奉献生活の会、キリスト信者の会、運動団体、個々の信徒である。あらゆる司牧計画は、福音の新しさを伝え、イエスとの個人的で生きた出会いを中心としなければならない。すべての人から、寛大な信仰と、あかしへの招きを進んで受け入れる態度を引き出すことをめざさなければならない。

提言43:位階制度とカリスマのたまもの

 聖霊は「位階制度とカリスマとの種々のたまものをもって」(『教会憲章』4)教会の宣教を導く。実際、教区は「司祭団の協力のもとに牧するよう司教に委託された神の民の一部分である」(『教会における司教の司牧任務に関する教令』11)。そこではさまざまなカリスマが、司教の権威を、教会の使命に奉仕するために行う自らの活動に不可欠なものとして認める。司教は、教会生活と宣教の真の源泉として、「たまものの真正性と順当な行使についての判断」(『教会憲章』12)を行う責務をもつ。ともに一つの神の霊から流れ出る、位階制度のたまものとカリスマのたまものは、競合するのではなく、教会生活とその宣教活動が効果的なものとなるためにともに不可欠である(ヨハネ・パウロ二世「運動団体世界大会参加者へのメッセージ(1998年5月27日)」)。奉献生活は教会のカリスマ的側面の中で特別な位置を占める(教皇庁奉献・使徒的生活会省『教会における司教と修道者の関係についての指針』34、『キリストからの再出発――第三の千年期における奉献生活の刷新』32参照)。教会の交わりに完全に接ぎ木された奉献生活は、自らの固有のたまものによって福音宣教に貢献する。教区レベルにおいても、教区間レベルにおいても、カリスマ的たまものと位階的たまものが教会の司牧計画と霊的生活においてどのように協力できるかを検討すべきである。
 第二バチカン公会議以来、新しい福音宣教は新しい運動団体や新しい共同体から大きな恩恵を得てきた。その聖性と一致の理想は、多くの召命と目覚ましい宣教事業の源泉となってきた。シノドスはこれらの新しい組織を承認するとともに、これらの組織が、教区と小教区共同体と密接に協力しながら、おのおののたまものを用いるよう勧める。教区や小教区共同体も、彼らの宣教精神から恩恵を得るであろう。

提言44:小教区における新しい福音宣教

 小教区とその活動は、小教区の構成員が新しい福音宣教の担い手となり、ことばと生活を通じてあかしを行うよう導かなければならない。そのため、小教区が小教区信者の霊的生活の通常の場であり続けることを思い起こすことが重要である。それゆえシノドスは、小教区の家庭訪問を小教区の刷新の手段とするよう促す。ときとして、小教区が単なる行事の場ないし観光センターとみなされる場合もある。
 病院、青少年センター、工場、刑務所などの「司牧担当者」は、新しい福音宣教がそれぞれの場に根ざすことをめざさなければならない。実際、教会はそれらの場所に現存する。キリストはそれらの場所にいる人々を優先されたからである。それゆえ、すべての教会が、どこにおいても、可能なかぎり、こうした宣教に開かれたものとなることを勧める。

提言45:新しい福音宣教における信徒の役割

 信徒に固有の召命と使命は、世界の構造を変革し、あらゆる人間の行為と活動を福音に基づいて形づくることである。だからキリスト信者の信徒がキリストを深く知るよう導くことが重要である。それは、キリストに結ばれた生活を通じて彼らの道徳的良心を形成するためである。第二バチカン公会議は、洗礼を受けた者の使命の4つのおもな側面を指摘する。生活のあかし、愛とあわれみのわざ、地上の秩序の刷新、直接的な福音宣教である(『教会憲章』、『信徒使徒職に関する教令』参照)。こうして信徒は、個人としても共同体としても、キリスト教信仰と真に一致した生活のあかしを行うことができるようになる。
 信徒は、教会の福音宣教の働きに協力し、証人であると同時に生きた道具として、教会のもつ救いの使命に参与する(『教会の宣教活動に関する教令』41参照)。それゆえ教会は、聖霊がキリストのからだを築かせるためにすべての洗礼を受けた者に与えるたまものを評価し、信仰を伝える使徒的熱意を燃え立たせるための適切な励ましと教育を与えなければならない。

提言46:教会における男女の協力

 教会は、社会と教会における女と男の平等の尊厳を認める。男と女はともに神の像として造られ、教会は、洗礼を受けてキリストに結ばれた男女の共通の召命に基づくからである。
 教会の司牧者は女性の特別な能力を認めてきた。すなわち、他者への気配り、とくに母親としての召命において人を養育し共感する能力である。
 女は男とともに、家庭におけるいのちの伝達の努力を通じて、いのちの福音をあかしする。男女はともに福音を生き生きと保つのを助ける。シノドスは、今日、(信徒と奉献生活者の)女性が男性とともにあらゆる次元で神学的考察に貢献し、新たなしかたで司牧的責任を担い、信仰を伝えるための新しい福音宣教を推進していることを認める。

提言47:福音宣教者の養成

 シノドスは、新しい福音宣教のための養成センターの設立が必要であると考える。そこで信徒が、現代に合った説得力のあるしかたで、特定の人々(若者、不可知論者、高齢者など)にキリストについて語る方法を学ぶためである。
 三位一体的キリスト論(『カテケージス一般指針』98-100参照)は、福音宣教の3つの領域で福音のメッセージを示すために不可欠かつ基本的である。それは最初の告知、信仰教育、生涯教育のいずれにもいえる(同60-72参照)。教育と教材は皆、この観点から評価すべきである。

提言48:キリスト信者の家庭

 結婚の秘跡によって築かれた、家庭教会としてのキリスト信者の家庭は、いのちと愛を与え、信仰を伝え、福音の価値観に従って人間を教育するための場であり第一の担い手である。全教会はキリストに倣って、家庭が子どもと若者の信仰教育を行うための支えとなろうと努めなければならない。多くの場合、祖父母もきわめて重要な役割を果たす。
 同時に、新しい福音宣教は、結婚をめぐる重要な司牧的問題にこたえようと努めなければならない。すなわち、結婚して再婚した夫婦と、その子どもたちの置かれた状況、見捨てられた配偶者、結婚せずに同棲する男女、結婚を再定義しようとする社会思潮である。教会は母としての気遣いと福音の精神をもって、これらの状況に適切にこたえようと努めなければならない。これも新しい福音宣教の重要な側面だからである。
 あらゆる福音宣教のための司牧計画は、単身者を、教会という家族の中で神を体験できるよう招くことも含まなければならない。
 結婚の前にも、結婚後においても、キリスト教的人間観に従う人間の性の生き方を人々に教えることが必要である。
 シノドスは他の国や文化の中でキリストのため福音宣教者となるべく、故国を離れる家族に感謝する。

提言49:叙階された奉仕職の司牧的側面

 シノドス教父は、司教と司祭が、自らの奉仕する人々をいっそう個人的に知るように勧める。人々は司教と司祭のうちに、信仰と新しい福音宣教を実践し、その模範となるような、信頼のできる真のあかしを求めている。司教は、模範をもって指導し、洗礼を受けたすべての人と福音宣教へと招かれた恵みを分かち合う、福音宣教者である。
 教区と小教区において、新しい福音宣教と宣教の新しい方法に関する継続教育を司祭に行うことが必要である。それは、信徒を新しい福音宣教を行うために動員する、効果的な手段を学ぶためである。われわれは、教会の司牧活動全体のおもな責任者である司教に対し、直接的かつ個人的なしかたで司祭の司牧活動を導き、これに同伴する計画を立てるよう勧める。司祭の司牧活動は、新しい福音宣教を決定的なしかたで導く中心だからである。
 われわれは司祭の生活と役務が与えるつまずきをきわめて残念に思う。しかしわれわれは、多くの司祭の忠実な奉仕に感謝し、彼らを励ますべきであると提言する。また、司祭の司牧計画に関して部分教会に司牧指針が示されるべきであると提言する。この指針は、体系的かつ有機的で、司祭の生活と役務の真の刷新の支えとなるものでなければならない。司祭は新しい福音宣教の第一の担い手だからである(『現代の司祭養成』2参照)。
 それゆえシノドスは、司祭が新しい福音宣教のために適切に養成されるために、養成において、深い霊性、堅固な教理、信仰教育における伝達能力、現代の文化現象に関する意識に留意することを望む。
 神学校は新しい福音宣教に重点を置くべきである。そのために、「祭儀の法」(ars celebrandi)、説教、ゆるしの秘跡に関する人間的、霊的、知的養成課程で、新しい福音宣教が統一的テーマとしてしばしば示されるべきである。これらは皆、新しい福音宣教の重要な部分だからである。
 シノドスは助祭の働きに感謝し、彼らを励ます。助祭の奉仕は教会に対する大きな奉仕となっているからである。教区における助祭のための継続教育も行うべきである。

提言50:奉献生活

 男女の奉献生活は、歴史を通じて教会の福音宣教活動にきわめて重要な貢献を行ってきた。新しい福音宣教の時代にあたって、シノドスは奉献生活者と在俗会の会員に、奉献された者としての身分を徹底的に、かつ喜びをもって生きるよう願う。生活のあかしは、神の国の力強い宣教となる。それは、神が第一に優先されるべきことを示し、共同生活を通して福音のもつ人々を人間らしくする力を表すからである。
 奉献生活は、完全に福音的かつ福音宣教的であり、教会の司牧者と深く交わり、信徒と共同責任を担い、それぞれのカリスマに忠実であるとき、新しい福音宣教に大きな貢献を果たす。
 シノドスは修道会に対して、福音宣教の地理的、社会的、文化的前線に進んで赴いてくれることを願う。シノドスは修道者に対して、宣教の新たな「アレオパゴス」に向かうよう願う。
 新しい福音宣教は本質的に霊的なものなので、シノドスは福音を伝えるための観想生活の重要性も強調する。
 祈りと労働を安定した共同体生活を通して行う、歴史の古い奉献された観想生活の伝統は、教会生活と宣教の力強い恵みの源泉であり続ける。シノドスは新しい福音宣教が、多くの信者にこの生活形態を始めるよう促すことを希望する。

提言51:若者と新しい福音宣教

 新しい福音宣教において若者は、教会における未来であるばかりか、現在のたまものでもある。若者は福音宣教の対象であると同時に、同世代の若者に対する福音宣教の担い手でもある。若者は真理と人生の意味を探求している。真理であり、友であるイエスこそが、これらのものを示してくださる。
 模範的なキリスト信者の成人、聖人、とくに若い聖人と、献身的な青年司牧者を通して、教会は若者にとって目に見える、信頼の置けるものとなる。家庭、学校、キリスト教共同体のいずれにおいても、福音宣教者が若者と会い、彼らと時間をともにすることが必要である。若者にイエスに従う生き方を示し、それに同伴し、人生と教会における召命を見いだすよう彼らを導かなければならない。
 メディアが若者の身体的、感情的、精神的、霊的健康に大きな影響を与えている。それゆえ教会は、信仰教育と青年司牧を通して、善悪を識別し、この世の価値よりも福音的価値観を選び取り、堅固な信仰を築ける力を若者に与えようと努める。
 WYD(ワールドユースデー)と『YOUCAT』は新しい福音宣教の特別な手段である。

提言52:エキュメニカル対話

 新しい福音宣教のエキュメニカルな側面を強調しなければならない。これは主イエスの「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・23)という祈りにこたえる。福音への奉仕がいっそう信頼の置けるものになるには、分裂を克服しなければならない。新しい福音宣教は、カトリック教会の本質と交わりを保ちながら、エキュメニカルな協力を推進する。エキュメニカルな協力は、洗礼によって与えられた信仰がわれわれを一致させることを示すからである。
 シノドス教父は第二バチカン公会議以来のエキュメニカル対話の進展に感謝する。過去の困難にもかかわらず、この対話は、シノドスの中で、バルトロマイ一世世界総主教とローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教、そして友好使節の参加によって特別な形で示された。シノドス教父は教会がこの一致と愛の道を歩み続けることを望む。

提言53:諸宗教対話

 すべての宗教者との対話は新しい福音宣教の一部分である。とくに教会は、キリスト信者が『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』に従い、イスラームの人々との関係を保ち、強めるよう招く。さまざまな困難があっても、この対話を継続しなければならない。諸宗教対話はつねに、対話者が適切な養成を受け、キリスト信者としての真正な教会的基盤をもち、人々の良心とすべての人の信教の自由を尊重する態度をもっていることを前提する。教会は、第二バチカン公会議の教えに忠実に従い、他の宗教とその信者を尊重し、すべての人の不可侵の尊厳の擁護と推進のために彼らと進んで協力する。

提言54:科学と信仰の対話

 科学と信仰の対話は新しい福音宣教の重大な領域である。一方でこの対話は、理性を超える神秘に対する理性の開かれた態度と、科学的知識の根本的な限界の自覚を要求する。他方でこの対話は、信仰が理性と科学研究の成果に開かれていることを要求する。

提言55:異邦人の中庭

 教会共同体は一種の「異邦人の中庭」を開設する。それは、信仰者と非信仰者が根本的なテーマをめぐって対話するためである。すなわち、倫理の偉大な価値、芸術と科学、超越の探求である。この対話はとくに「宗教と疎遠になった人々、神を知らないにもかかわらず、神なしの状態でいることも望まず、むしろ知られざる神としてであれ、神に近づこうと望む人々」(ベネディクト十六世「ローマ教皇庁へのあいさつ(2009年12月21日)」)に向けられる。カトリック教育機関は特別な意味でこのような対話を推進することができる。このような対話を「最初の告知」と切り離してはならない。

提言56:被造物の管理

 被造物の管理も多くのしかたで福音宣教に役立つ。それは神のいつくしみ深い創造のわざに関する信仰のあかしだからである。被造物の管理は、被造物の善に生活と生計を頼っているすべての人との連帯感を示す。それは来るべき世代との世代間の連帯も示す。そして、われわれの共通の家である地球の富の責任ある公平な使用をもはっきりとあかしする。

結び

提言57:キリスト教信仰の伝達

 「あなたがたはわたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。教会は最初から、福音を伝える責務を自覚していた。使徒伝承に従う、新しい福音宣教の使命は、信仰の伝達である。第二バチカン公会議は、この使命が、すべてのキリスト信者の信仰と生活にかかわる複雑な過程であることを思い起こさせてくれる。
 生活が福音に基づいて形づくられていなかったり、福音に基づく意味と真理と未来を見いだしていなければ、生活の中で信仰を伝えることができない。
 そのため、キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教は、すべての信者が、信仰と教会におけるイエスとの個人的な出会いを新たにし、信仰の真理の理解を深め、喜びをもってそれを伝えることを求める。

提言58:新しい福音宣教の星マリア

 第二バチカン公会議は、キリストと教会の神秘との関連でマリアを示す(『教会憲章』52-68参照)。教皇パウロ六世は、マリアは「福音宣教の星」であると宣言した。それゆえマリアは、信仰と希望と愛の模範である。マリアは師であるかたに弟子たちを導いた、最初の助け手である(ヨハネ2章参照)。上の部屋で、マリアは信じる者の母である(使徒言行録1・14参照)。
 あがない主の母であるマリアは、神の愛の証人となる。マリアは神のみ心を進んで果たす。マリアは、ヨハネとともに十字架のもとにとどまる力強い女性である。マリアはつねにわれわれのために執り成し、主の十字架に至るまで信者とともに道を歩む。
 母であり元后であるマリアは、苦しむ人、困っている人の希望のしるしである。
 現代において、マリアは「宣教者」として、現代の困難のうちにあるわれわれを助け、そばにいて人々の心を信仰へと開く。
 われわれはマリアに目を注ぐ。マリアは、すべての人に救いの知らせを告げ知らせるわれわれを助けてくださる。こうして彼らも福音宣教の担い手となる。マリアは教会の母である。マリアがともにいてくださることにより、教会が多くの人の家となり、すべての民の母となることができますように。

PAGE TOP