教皇ベネディクト十六世の333回目の一般謁見演説 教会の信仰

10月31日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の333回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の3回目として、「教会 […]


10月31日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の333回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の3回目として、「教会の信仰」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 カトリック信仰について考察する歩みを続けます。先週わたしは信仰がたまものであることをお示ししました。最初に働きかけ、わたしたちと会いに来られるのは神だからです。ですから信仰は応答です。この応答をもって、わたしたちは人生の堅固な基盤として神を迎え入れます。信仰はわたしたちの人生を造り変えるたまものです。それはイエスのようにものを見ることを可能にするからです。イエスがわたしたちの中で働き、神と他の人々を愛するようにわたしたちの心を開いてくださいます。
 今日は考察をいま一歩進め、あらためていくつかの問いから始めたいと思います。信仰は単に個人的、個別的な性格のものでしょうか。信仰はわたし個人だけにかかわるのでしょうか。わたしはひとりで信じるのでしょうか。いうまでもなく、信仰は優れた意味で個人の行為です。それは内面の奥深くで行われ、方向の転換、すなわち個人の回心を特徴とします。この方向転換、新たな方向づけを受け入れるのは、わたしの存在です。洗礼式の約束のとき、司式者は信仰の表明を求めて、3つの質問を行います。あなたは全能の、神である父を信じますか。父のひとり子、イエス・キリストを信じますか。聖霊を信じますか。古代からこの質問は、これから洗礼を受ける人に対して、その人が3回水に浸される前に、個人的に行われました。現代でも「信じます」というこたえは個別に行われます。しかし、わたしの信仰は、わたしがひとりで考えた末に生じるものではありません。それはわたしの考えが生み出したものでもありません。むしろそれは関係から、対話から生まれるものです。対話とは、聞き、受け入れ、こたえることです。イエスと会話することです。イエスがわたしを自らのうちに閉じこもった「自己」から引き出し、父である神を愛するように心を開いてくださるのです。それは生まれ変わりのようなものです。そのときわたしは、自分がイエスと結ばれていることを見いだすだけではありません。わたしは同じ道を歩んできた人、また今歩いている人すべてと結ばれているのです。そして、洗礼によって始まるこの新たな誕生は、生涯を通じて続きます。わたしはイエスとの私的な対話の中で個人の信仰を築くことはできません。信仰は、教会という信者の共同体を通じて神からわたしに与えられるからです。信仰は多くの信者の交わりの中にわたしを導き入れます。この交わりは、単に社会的なものではなく、神の永遠の愛に根ざしています。神は、ご自身において、父と子と聖霊の交わりだからです。三位一体の愛だからです。わたしたちの信仰が真の意味で個人的なものとなるには、それは共同体的なものでもなければならないのです。信仰がわたしの信仰となるには、信仰が教会という「わたしたち」の中で生き、動いていなければならないのです。信仰は、わたしたちの信仰、すなわち唯一の教会の共通の信仰でなければならないのです。
 主日のミサの中で「信仰宣言」を唱えるとき、わたしたちは「わたしは信じます」といいます。しかしわたしたちは、教会の唯一の信仰を共同で告白しています。一人ひとりが唱える「わたしは信じます」は、時間と空間の中で広がる巨大な合唱に加わります。この合唱の中で、一人ひとりの人は、いわば一つの信仰の交響楽に貢献するのです。『カトリック教会のカテキズム』はこのことをはっきりと次のように説明します。「『信じる』とは、教会の行為です。まず、教会の信仰があり、これがわたしたちの信仰を生み、支え、養います。教会は、信じる者すべての母です。『教会を母としてもたない者は、だれも神を父としてもつことはできません』(聖キュプリアヌス)」(同181)。それゆえ、信仰は教会の中で生まれ、教会へと導き、教会の中で生きるのです。このことを心にとめることは大切です。
 使徒言行録が語るとおり(使徒言行録2・1-13参照)、五旬祭の日に使徒たちの上に聖霊が力強く降り、キリスト信者の冒険が開始したとき、初代教会は、復活した主からゆだねられた使命を果たすための力を受けました。この使命とは、福音、すなわち神の国のよい知らせを地の果てにまで広め、復活したキリストとの出会いと、救いをもたらす信仰へとすべての人を導くことです。使徒たちはあらゆる恐れに打ち勝って、イエスから直接聞き、見、体験したことをのべ伝えました。彼らは聖霊の力によって新しいことばを語り、自分たちが目にした神秘を公然と告げ知らせ始めたのです。さらに使徒言行録では、五旬祭の日にペトロが行った偉大な説教が語られます。ペトロは預言者ヨエルの箇所(ヨエル3・1-5)から出発します。ペトロはこの箇所をイエスと関連づけ、キリスト教信仰の核心をのべ伝えます。すべての人を祝福し、奇跡と偉大なしるしによって神から証明されたかたが、十字架につけられて殺されました。しかし神はこのかたを死者の中から引き上げて、主キリストとされました。わたしたちはこのキリストによって、預言者たちが告げた決定的な救いに入り、このかたの名を呼び求める人は救われるのです(使徒言行録2・17-24参照)。このペトロのことばを聞いた多くの人は、それが自分に語りかけられていると感じ、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受け、聖霊のたまものを受けました(同2・37-41参照)。こうして教会の歩みが始まります。教会は、時間と空間の中で宣教を行う共同体です。キリストの血による新しい契約に基づく、神の民の共同体です。教会に属する人は、特定の社会集団や民族集団に属するのではなく、あらゆる民族と文化の出身者です。教会は「カトリック(普遍)の」民です。新しいことばを語り、あらゆる国境と障壁を超えて、すべての人を受け入れるため、普遍的なしかたで開かれているからです。聖パウロはいいます。「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3・11)。
 それゆえ教会は最初から信仰の場であり、信仰を伝える場です。この場所で、人は洗礼によってキリストの死と復活の過越の神秘に浸されます。キリストはわたしたちを罪の牢獄から解放し、子としての自由を与え、三位一体の神の交わりへと導き入れてくださいます。同時にわたしたちは、キリストのからだ全体とともに、孤立状態から引き出されて、他の兄弟姉妹との交わりに浸されます。第二バチカン公会議はそのことをこう述べます。「神は人々を個別的に、まったく相互の連絡なしに聖とされ救われることではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされた」(『教会憲章』9)。わたしたちは再び洗礼式を思い起こすことにより、次のことに気づきます。悪を退け、信仰の真理を「信じます」と述べる約束の終わりに、司式者は宣言します。「これこそわたしたちの信仰です。これは教会の信仰であり、わたしたちは信仰宣言を唱えてわたしたちの主イエス・キリストをたたえるのです」。信仰は神から恵みとして与えられる対神徳ですが、それは歴史を通じて教会によって伝えられます。聖パウロもコリントの信徒に宛てた手紙の中で、あなたがたに伝える福音は、わたしも受けたものですと述べています(一コリント15・3参照)。
 教会生活と、神のことばの告知と、秘跡を祝うことには、途切れることのない連鎖が存在します。わたしたちに伝えられたこの連鎖を、聖伝と呼びます。聖伝は、わたしたちが信じることが、使徒ののべ伝えた、キリストご自身に由来するメッセージであることを保証します。この最初の告知の核心は、主の死と復活の出来事であり、そこから信仰の遺産全体が流れ出ます。公会議はいいます。「使徒的宣教は、霊感の書に特別に示されているが、不断の継承によって世の終わりまで保たれねばならなかった」(『神の啓示に関する教義憲章』8)。それゆえ、聖書が神のことばを含むのであれば、教会の聖伝はそれを保ち、忠実に伝えます。それは、すべての時代の人がこの豊かな源泉に近づき、その恵みの宝によって豊かにされるためです。こうして教会は「その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信ずることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝える」(同)のです。
 最後にわたしは、個人の信仰が成長し、深まるのも、教会共同体においてであることを強調したいと思います。興味深いことに、新約聖書の中で「聖なる人々」ということばはキリスト信者全体を表します。いうまでもなく、すべての人が、教会によって聖人とされるための資質をもっていたわけではありません。では、このことばは何をいおうとしているのでしょうか。それは、復活したキリストを信じ、その信仰を実践する人は、他のすべての人の基準となるように招かれているということです。そのためには、生ける神のみ顔を示されたイエスというかたとそのメッセージに触れなければなりません。これはわたしたちにもいえます。教会の信仰によって導かれ、形づくられるキリスト信者は、たとえ弱さと限界と困難を抱えていても、生ける神の光へと開かれた窓のようなものになります。この窓は、光を受けて、それを世に伝えます。福者ヨハネ・パウロ二世は回勅『救い主の使命』の中でこう述べます。「宣教活動は教会を刷新し、キリスト者の信仰と自覚とを活性化し、新鮮な意気込みと新しい刺激を与えるからです。信仰は、他者に伝えられるときに強められます」(同2)。
 それゆえ、信仰を私的な領域に追いやろうとする、今日広まっている傾向は、信仰の本性と矛盾します。わたしたちは教会がわたしたちの信仰を強め、神のたまものを体験させてくれることを必要とします。神のたまものとは、神のことば、秘跡、恵みの支え、愛のあかしです。こうしてわたしたちの「自己」は教会という「わたしたち」の中で、自らを超える出来事の受け手、また伝え手であることを感じられるようになります。この出来事とは、神との交わりの体験です。神は人間の交わりの基盤だからです。個人主義が人間関係を支配し、いっそうもろいものとしているように思われる世界の中で、信仰はわたしたちを招きます。神の民となり、教会となり、全人類に神の愛と交わりをもたらす者となりなさい(『現代世界憲章』1参照)と。ご清聴ありがとうございます。

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