教皇ベネディクト十六世の2012年11月4日の「お告げの祈り」のことば 愛のおきて

教皇ベネディクト十六世は、年間第31主日の11月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第31主日の11月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の福音(マルコ12・28-34)は、偉大なおきて、すなわち愛のおきてについてのイエスの教えをあらためて示します。愛のおきては二つあります。神を愛することと、隣人を愛することです。数日前、一つの荘厳な祝日の中で一緒に祝った聖人たちは、神の恵みに信頼しながら、この二つの根本的な律法に従って生きようとした人々です。実際、愛のおきてを完全に実践できるのは、神との深い関係を生きる人です。それは幼子が、母親と父親とよい関係をもつことによって愛することができるようになるのと同じです。すこし前に教会博士と宣言したアビラの聖ヨハネ(Juan de Avila 1499/1500-1569年)は『神の愛についての論考』(Tratado del amor de Dios)の冒頭でこう述べます。「神を愛するようわれわれの心をもっとも駆り立てる原因は、神がわれわれに対して抱いておられる愛を深く考察することである。・・・・このことが、多くの恩恵以上に、心を愛へと駆り立てるのである。なぜなら、ある恩恵を他の者に与える者は、自分の所有するものを与えるにすぎない。しかるに、愛する者は、自分がもてるすべてのものとともに自分自身を与え、それ以外のものを与えることができないからである」(同1)。愛はおきてである以前に(愛は単なるおきてではありません)、たまものです。神がわたしたちに知らせ、体験させてくださる現実です。この現実は、種のようにわたしたちのうちで芽生え、人生の中で成長します。
 神の愛が人格に深く根ざすなら、その人は愛するに値しない人をも愛することができるようになります。それは、神がわたしたちを愛してくださったのと同じです。父親と母親は、愛するに値するから子どもを愛するのではありません。彼らはつねに子どもを愛します。いうまでもなく、子どもが間違いを犯したことを知ったときでも同じです。わたしたちは神から、悪ではなく善だけをつねに望むことを学びます。自分の目だけでなく、神のまなざしをもって他の人を見ることを学びます。神のまなざしとは、イエス・キリストのまなざしです。このまなざしは心から生まれます。それは表面にとどまらず、目に見えるところを超えて、他の人の深い望みを捉えることができます。すなわち、聞いてもらいたいという望み、無償の気遣いへの望みです。要するに、愛してほしいという望みです。しかし、逆もまた真実です。あるがままの姿の他者に心を開き、歩み寄り、進んで自分をささげることによって、わたし自身も自分の心を開いて、神を知るようになります。神が存在すること、神がいつくしみ深いかたであることを感じるようになります。神への愛と隣人への愛は切り離すことができず、互いにかかわり合います。イエスはこれらのおきてを発明したのではありません。むしろ、二つのおきてが結局のところ一つのおきてであることを示したのです。そしてイエスはこのことを、ことばだけでなく、何よりもご自身のあかしによって示しました。イエスというかたそのものと、その神秘が、神への愛と隣人への愛の一致を体現します。十字架の縦と横の二本の木と同じように。イエスは聖体においてご自身を与えることによって、この二つの愛をわたしたちに与えます。このパンに養われたわたしたちは、イエスがわたしたちを愛してくださったように互いに愛し合うようになるからです。
 親愛なる友人の皆様。おとめマリアの執り成しを通じて祈りたいと思います。すべてのキリスト信者が、唯一のまことの神への信仰を、隣人への透明な愛のあかしによって示すことができますように。

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