教皇ベネディクト十六世の335回目の一般謁見演説 神を知るための道

11月14日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の335回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の5回目として、「神を […]


11月14日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の335回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の5回目として、「神を知るための道」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日、わたしたちは、人間が自らの内奥で抱いている神へのあこがれについて考察しました。今日はこの点についての考察を続け、さらに深めたいと思います。そのために、ご一緒に神の認識に達するためのいくつかの道について簡単に考えます。ところで、次のことを思い起こしたいと思います。すなわち、神の働きかけは、あらゆる人間の働きかけにつねに先立ちます。そして、神への歩みにおいても、まずわたしたちを照らし、方向づけ、導いてくださるのは神です。しかしその際、神はつねにわたしたちの自由を尊重します。神との親しい関係へと導き入れてくださるのも、つねに神です。神はご自身を示すとともに、わたしたちが信仰によってこの啓示を受け入れることができる恵みを与えてくださるからです。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)の経験を忘れてはなりません。探求の後に真理を所有するのはわたしたちではなく、真理であるかたがわたしたちを捜し求め、所有されるのです。
 しかしながら、人間の心を神の認識へと開いてくれるいくつかの道が存在します。人間を神へと導くいくつかのしるしが存在します。確かにわたしたちは、しばしばこの世の輝きに目がくらみ、こうした道を歩み、このようなしるしを読み取ることができなくなる恐れがあります。しかし神はうむことなくわたしたちを捜し求めます。そして、ご自分が造り、あがなった人間への忠実を守り、わたしたちの人生に寄り添い続けます。それは、神がわたしたちを愛しておられるからです。わたしたちは日々、この確信をもたなければなりません。たとえ人々の間に広まる考え方によって、教会とキリスト信者が、すべての造られたものに福音の喜びを伝え、すべての人を世の唯一の救い主であるイエスとの出会いへと導くのがいっそう困難になっているとしてもです。しかし、これこそがわたしたちの使命なのです。すべての信者はこの使命を喜びをもって果たし、それを自分の使命と感じなければなりません。真の意味で信仰に促され、愛のわざと神への奉仕を特徴とし、希望を輝かせることのできる生活を通して。この使命は何よりも、わたしたち皆が招かれている聖性のうちに輝かなければなりません。
 ご存じのとおり、現代の信仰には困難と試練が存在します。信仰はしばしば無理解と反対と拒絶を受けているからです。聖ペトロは自らのキリスト信者に宛てて次のようにいいました。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(一ペトロ3・15-16)。過去、キリスト教的とみなされた西洋社会において、人々は信仰の雰囲気の中で生きていました。大多数の人にとって、神を基準とし、神に従うことは日常生活の一部でした。むしろ自らの無信仰を正当化しなければならなかったのは、信仰をもたない人のほうでした。現代世界においては状況が変わり、信仰者がますます自分の信仰を弁明しなければならなくなっています。福者ヨハネ・パウロ二世は回勅『信仰と理性』の中で、現代でも、入念で陰湿な形の理論的・実践的無神論によって信仰が試練にさらされていることを強調しました(同46-47参照)。啓蒙主義以降、宗教批判が強まりました。歴史も、無神論的思想の存在によって特徴づけられました。こうした無神論において、神は、人間精神の投影また幻想であり、多くの疎外によってゆがめられた社会の生み出したものとみなされたのです。さらに20世紀において世俗化が激しく進みました。世俗化は人間の絶対的な自律によって特徴づけられます。人間は、現実の基準また建築者と考えられましたが、「神の像と似姿に従って」造られたものではなくなりました。現代、信仰にとってとくに危険な現象が見られます。実際、ある種の無神論が存在します。これをわたしたちは「実務的」無神論と呼びたいと思います。この無神論は、信仰の真理や宗教的儀式を否定せず、むしろそれらを日常生活と無関係で、生活と遊離した、役に立たないものと考えます。そこで人々は、しばしば神を表面的な形で信じ、「神が存在しないかのように」(etsi Deus non daretur)生きています。しかし、最終的にこのような生き方はきわめて破壊的なものであることが分かります。それは信仰と神への問いへの無関心へと導くからです。
 実際には、神と切り離された人間は、単なる水平的な次元へとおとしめられます。そして、まさにこのように人間をおとしめることが、20世紀に悲惨な結果をもたらした全体主義と、わたしたちが現実に目の当たりにしている価値観の危機の根本的な原因の一つなのです。神という基準をぼかすことにより、倫理的な展望もぼかされます。これが、相対主義とあいまいな自由の概念に余地を与えます。しかし、あいまいな自由概念は、人間を解放せず、むしろ偶像の奴隷とするのです。イエスが公生活の前に荒れ野で直面した誘惑は、人間が自分自身を乗り超えないときにその心を捕らえるこうした「偶像」の姿をよく示しています。もし神が中心でなくなれば、人間は自らの正しい位置づけを失い、被造物の中で、また他者との関係において、もはや自らの場所を見いだせなくなります。古代の知恵がプロメテウスの神話によって語ったことは今も有効です。人間は、自分が「神」すなわち生と死の主となりうると考えるのです。
 こうした状況に対して、教会は、キリストの命令に忠実に従い、人間とその目的についての真理を語り続けます。第二バチカン公会議はそれを次のように要約して述べます。「人間の尊厳のもっとも崇高な面は、人間が神と交わるように召命を受けているということである。人間はすでにその存在の初めから、神との対話に招かれている。事実、人間が存在するのは愛によって神から造られ、愛によって神からつねに支えられているからであって、神の愛を自由をもって認めて創造主に身を託するのでなければ、人間は真理に基づいて充実して生きていることにはならない」(『現代世界憲章』19)。
 それゆえ信仰は、無神論、懐疑主義、垂直的な次元に対する無関心に向けて、「穏やかに、敬意をもって」どのようにこたえればよいでしょうか。それは、現代人が神の存在について問いかけ、神へと導く道を歩み続けることができるためです。わたしはいくつかの道をお示ししたいと思います。この道は、自然本性的な考察と、信仰の力の両方に由来するものです。これを三つのことばに要約したいと思います。世界、人間、信仰です。
 第一は世界です。聖アウグスティヌスは、生涯にわたって長い間真理を探求し、真理そのものによって捕らえられました。彼は有名なすばらしい箇所で、次のように述べます。「大地の美に問いなさい。海の美に問いなさい。あまねく満ちた大気の美に問いなさい。天空の美に問いなさい。・・・・すべてのものに問いなさい。すべてのものはあなたに答えるでしょう。『わたしたちを見てください。わたしたちの美しさを』。彼らはその美しさによって知られます。この変わりうる美しさを創造したのはだれか。変わることのない美であるかたそのものです」(『説教241』:Sermo 241, 2, PL 38, 1134)。わたしは、被造物と、その美と構造を観想する力を、わたしたちが回復しなければならないし、また人間に回復させなければならないと思います。世界は形のないマグマではありません。むしろわたしたちは、世界を知れば知るほど、その驚くべき仕組みを発見します。ある計画を見いだします。創造的な知性が存在することを見いだします。アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955年)はいいます。自然法則において「卓越した理性が示されている。これと比べれば、人間の思考と秩序の合理性のすべては完全に無意味な映しにすぎない」(Il Mondo come lo vedo io, Roma 2005)。それゆえ、神の発見へと導く第一の道は、注意深く被造物を仰ぎ見ることです。
 第二のことばは人間です。聖アウグスティヌスにはもう一つの有名な一節があります。その中で彼はいいます。神はわたしのもっとも内なるところよりももっと内にまします(『告白』:Confessiones III, 6, 11〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、116頁〕参照)。そこからアウグスティヌスは次のように招きます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集2 初期哲学論集(2)』教文館、1979/1989年、359頁〕)。これが、わたしたちが生きている騒がしく分散された世界の中で見失いがちなもう一つの点です。すなわち、立ち止まって自分自身の内奥を見つめ、自分の内にある無限なものへの渇望を見いだす力です。この渇望が、わたしたちがもっと先に進むよう促し、渇きを満たすことのできるかたへと導くからです。『カトリック教会のカテキズム』は次のように述べます。「真理と美に向かって開かれた心、道徳的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福へのあこがれをもっている人間、この人間は神の存在について自問します」(同33)。
 第三のことばは信仰です。とくに現代の現実の中で、神の認識と神との出会いへと導く一つの道が信仰生活であることを忘れてはなりません。信じる者は神と一つに結ばれ、神の恵みと愛の力へと開かれます。こうして信じる者の生活は、自分でなく復活したかたをあかしするようになります。そしてその信仰は、恐れることなく日常生活の中で示されます。すべての人の歩む道に対する深い友愛を表す、対話へと開かれます。あがないと幸福と未来を求める人に希望の光を開くことができます。実際、信仰は神との出会いです。神は歴史の中で語り、働かれます。そして神は、わたしたちの考え方、価値判断、決断と具体的な行動を変容させることによって、わたしたちの日常生活を造り変えます。信仰は幻想でも、現実からの逃避でも、心地よい逃れ場でも、感傷主義でもありません。むしろそれは、生涯のすべてをかけて福音をのべ伝えることです。福音は、人間全体を解放することのできるよい知らせだからです。神がまずわたしたちを愛してくださいます。この神の計画のために働き、これに忠実に従うキリスト信者と共同体は、無関心な人、自分の人生と活動に疑いを抱く人にとって、特別な道となります。しかしそのためには、一人ひとりのキリスト信者がますます透明なしかたで信仰をあかししなければなりません。そして、自分の生活をキリストに似たものとなるよう清めなければなりません。今日、多くの人はキリスト教信仰について限られたかたちで理解しています。人々は信仰を、神に関する真理というよりは、むしろ単なる信念と価値観の体系にすぎないものと考えるからです。しかし神は、歴史の中でご自身を示し、人間との愛の関係のうちに、顔と顔とを合わせて人間と語ることを望むかたです。実際のところ、あらゆる教理と価値観の基盤にあるのは、キリスト・イエスにおける人間と神との出会いという出来事です。キリスト教は、道徳や倫理である以前に、愛の到来です。イエスというかたを受け入れることです。だからキリスト信者とキリスト教共同体は何よりもまず、キリストに目を注ぎ、また目を注がせなければなりません。キリストこそが、人を神へと導くまことの道だからです。

略号
PL  Patrologia Latina

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