教皇ベネディクト十六世の336回目の一般謁見演説 信仰の合理性

11月21日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の336回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の6回目として、「信仰 […]


11月21日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の336回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の6回目として、「信仰の合理性」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は次のようにガザ情勢に関する呼びかけをイタリア語で行いました。
「イスラエルの人々とガザのパレスチナの人々の間での暴力の激化を深い懸念をもって見守っています。わたしは犠牲者と苦しむ人々を祈りをもって思い起こすとともに、憎しみと暴力が問題の解決にならないことをあらためて強調しなければならないと感じます。さらにわたしは、停戦の実現と交渉の進展をめざす取り組みと努力を励まします。双方の政治指導者にもお願いします。平和をもたらすための勇気ある決断を行い、中東全域に悪影響を及ぼす紛争を終結させてください。中東は、あまりにも多くの紛争で苦しみ、平和と和解を必要としているからです」。
イスラエルとパレスチナ自治区のガザを実効支配するイスラーム原理主義組織ハマスとの間での紛争では、11月10日(土)以降、ガザ地区からイスラエルに向けてロケット弾が発射されたのに対してイスラエル国防軍が14日(水)、ハマスの軍事部門幹部アフマド・ジャアバリ氏を殺害し、ガザ地区への空爆を続けました。21日(水)、エジプトのアムル外相は、クリントン米国務長官とともにエジプトの首都カイロで記者会見し、イスラエルとハマスなどとの間で停戦合意が成立したと発表、停戦は現地時間同日午後7時(日本時間22日午前4時)に発効しました。報道によれば、14日から21日までの8日間の空爆でパレスチナ側の死者は155人、イスラエル側の死者は5人に上っています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは「信仰年」を歩んでいます。そして、信じることの深い喜びを再発見し、すべての人に信仰の真理を伝える熱意を回復したいと心から望みます。信仰の真理は、神に関する単なるメッセージでもなければ、神についての特定の情報でもありません。むしろこの真理が表すのは、神と人間が出会うという出来事です。救いと解放をもたらす出来事です。この出来事が、人間のもっとも深い望み、すなわち、平和と兄弟愛と愛へのあこがれを実現します。信仰は、神との出会いが、人間の中にある真理と善と美を生かし、完成し、高めることを見いださせます。それゆえ次のことが起こります。神がご自身を示し、知らせることにより、人間は神がいかなるかたであるかを知るようになります。そして人間は、神を知ることによって、自分自身と、その起源、目的、人生の偉大さと尊厳を見いだします。
 信仰は神について真の意味で知ることを可能にします。この認識は人間の人格全体にかかわります。知るとは「味わう」ことです。すなわちこの認識は人生に香りを与えます。生きることの新たな味わいを、世にあることの喜びをもたらします。信仰は、兄弟愛のうちに自分を他者に与えることによって表されます。兄弟愛は、連帯を生み、愛することを可能にします。そして、悲しみを生む孤独に打ち勝ちます。それゆえ、信仰による神認識は、単なる知的認識ではなく、生きた認識です。それは、神ご自身の愛によって、愛である神を知ることです。さらに神の愛は、人間の目を開いて、ものが見えるようにし、良心を迷わせる個人主義と主観主義の狭い視野を超えて、現実全体を知ることを可能にします。それゆえ、神認識は信仰体験であると同時に、知的かつ道徳的な歩みを含みます。わたしたちは、イエスの霊の現存が心の奥深くに触れることによって、利己主義的な視野を乗り越え、人生の真の意味へと心を開くのです。
 今日わたしは、神への信仰の合理性についてお話ししたいと思います。カトリックの伝統は初めからいわゆる信仰主義を拒絶してきました。信仰主義とは、理性に逆らって信じようと望むことです。「不条理なるがゆえにわれ信ず」(Credo quia absurdum)はカトリック信仰を説明する定式ではありません。実際に神は、神秘ではあっても、不条理なかたではありません。神秘は非合理でなく、むしろ意味、意義、真理の充満です。神秘を見つめることによって理性が暗闇を見いだすとしても、それは、神秘のうちに光がないからではなく、むしろそこに光がありすぎるからです。それは、人間が太陽を見ようとして直接に目を向けても、暗闇しか見えないのと同じです。しかし、太陽が明るくないという人はおらず、むしろ太陽は光の源なのです。信仰は神という「太陽」に目を向けることを可能にします。なぜなら、信仰は、歴史における神の啓示を受け入れることだからです。信仰は、さまざまな偉大な奇跡を認めることによって、いわば本当に神の神秘の輝きをことごとく受け入れます。神は人間に近づき、人間理性の被造的限界に応じて神を知ることを可能にします(第二バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』13参照)。同時に神は、恵みによって理性を照らし、新たなはかりしれない無限の地平を開きます。だから信仰は、汲みつくすことのできない真理と存在を見いだすために、絶えず探究し、立ち止まることも沈黙することもないよう促すのです。人間理性が信仰の教義(ドグマ)によって妨げられたかのように説く、一部の現代思想家の偏見は誤りです。カトリックの伝統の偉大な教師たちが示してきたとおり、事実はその反対です。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)は、回心の前、当時のあらゆる哲学者を通して真理をうむことなく探究しましたが、この哲学者たちがまったく不十分であると分かりました。アウグスティヌスにとって、合理的な探究の努力は、キリストの真理と出会うための意味のある教育課程でした。彼はいいます。「信じるために理解しなさい。そして理解するために信じなさい」(『説教43』:Sermo 43, 9, PL 38, 258)。これは彼自身が人生で体験したことを述べているかのように思われます。神の啓示に対して、知解と信仰は、無関係なものでも対立するものでもありません。むしろそれらはともに、啓示の意味を理解し、その真のメッセージを受け入れ、神秘の入り口に近づくための条件です。聖アウグスティヌスは、他の多くのキリスト教著作家とともに、信仰が理性とともに働くこと、信仰は考察し、考察へと招くことをあかししました。このような方向に従って、聖アンセルムス(Anselmus Cantuariensis 1033/1034-1109年)は『プロスロギオン』(Proslogion)で、カトリック信仰は「知解を求める信仰」(fides quaerens intellectum)であると述べます。知解を求めることは信仰の中で行われる行為なのです。とくにこの伝統をもっとも徹底した聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)は、哲学者たちの理性に立ち向かい、それをキリスト教信仰の原理と真理に接ぎ木することによって、人間の思考に新たな合理的活力がもたらされることを示しました。
 それゆえ、カトリック信仰は合理的であり、また人間理性への信頼を深めます。第一バチカン公会議は『カトリック信仰に関する教義憲章』(Dei Filius)の中でいいます。理性は被造物の道を通して神の存在を確実に知ることができます。しかし、恵みの光によって、神に関する真理を「やさしく確実に、また少しの誤謬も交えないで」(DS 3005)認識することを可能にするのは、信仰です。さらに、信仰による認識は、正しい理性と対立しません。実際、福者教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅『信仰と理性』(Fides et ratio)でそのことを次のように要約します。「人間理性は、信仰の諸真理に同意するとき、無効にされるのでも減少されるのでもありません。これらの真理は、自由かつ意識的な選択によって獲得されるのです」(同43)。真理を知りたいという抗いがたい望みにとって、信仰と理性の調和的な関係のみが、神と完全な自己実現へと導く正しい道なのです。
 この教えを新約全体の中に容易に見いだすことができます。先ほど朗読されたとおり、聖パウロはコリントのキリスト者に宛てた手紙の中で、こう述べます。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストをのべ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの・・・・をのべ伝えているのです」(一コリント1・22-23)。実際、神は、力あるわざによってではなく、独り子のへりくだりによって世を救われました。人間的な基準に従えば、神が用いた尋常でないやり方は、ギリシア人が求める知恵と衝突します。にもかかわらず、キリストの十字架には合理性があります。聖パウロはそれを「十字架のことば(ホ・ロゴス・トゥー・スタウルー)」(一コリント1・18)と呼びます。ここで「ロゴス」はことばと理性の両方を意味します。「ことば」を意味するとしても、それは、理性が作り出したことをそのまま表すからです。それゆえパウロは、十字架のうちに、非合理な出来事ではなく、救いをもたらす事実を見いだします。この事実は、信仰の光に照らされて認識可能な、自らの合理性をもっています。同時にパウロは、人間理性に深い信頼を置くがゆえに、多くの人が神の行ったわざを見ながら、神を信じるに至らなかったことに驚きます。ローマの信徒への手紙の中で彼はいいます。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1・20)。聖ペトロも、離散したキリスト者に対して勧めます。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(一ペトロ3・15)。迫害と、信仰をあかしすることが強く求められる状況の中で、信仰者は、福音のことばに従うことを、根拠のある理由をもって弁明し、自分たちの希望について説明することを求められるのです。
 科学と信仰の優れた関係は、知解と信仰の実り豊かなつながりに関するこの前提を基盤とします。科学的研究は、人間と宇宙に関するつねに新たな真理の認識をもたらします。わたしたちはそれを目の当たりにしています。信仰によって近づくことのできる人類のまことの善は、科学的発見が進むべき地平を開きます。それゆえわたしは、たとえば、生命に奉仕し、病気を撲滅することをめざす研究を奨励します。地球と宇宙の秘密を発見することをめざす研究も重要です。その際、人間が被造物の頂点であるのは、被造物を無分別に搾取するためではなく、これを守り、居住可能なものとするためであることを自覚しなければなりません。それゆえ、真の意味で実践される信仰は、科学と対立せず、むしろ科学と協力しながら、すべての人に善をもたらすための基盤となる基準を示します。そして、神の初めの計画に反して、人間自身に逆らう結果を生み出しうる試みを拒絶することのみを要求します。これも、信仰が合理的である理由です。科学が宇宙における神の計画を理解する上での信仰の貴重な協力者となるなら、信仰も、科学が、この神の計画に忠実に従いながら、人間の善と真理のためにますます発展することを可能にします。
 だからこそ、人間が信仰に心を開き、神と、イエス・キリストにおける神の救いの計画を知ることが、決定的に重要です。福音によって新しいヒューマニズム(人間中心主義)が始まりました。人間と現実全体の真の「文法」が生まれました。『カトリック教会のカテキズム』はいいます。「神の真理は被造物全体の秩序を保ち、世界を治める知恵です。おひとりで天地を造られた(詩編115・15)神だけが、神とのかかわりの中で造られたすべてのものについての真の知識を与えることがおできになります」(同216)。
 ですからわたしたちは、福音宣教への新たな取り組みが、すべての現代人の生活の中で福音に新たな中心的位置づけを与える助けになると確信します。そこで祈りたいと思います。すべての人がキリストのうちに人生の意味とまことの自由の基盤を再発見することができますように。実際、人間は神がいなければ自分自身を見失います。人生を福音にささげたわたしたちの先人たちのあかしが、このことの永遠の証明です。信じることは合理的です。信じることのうちに、わたしたちの生涯が賭けられています。キリストのために自分をささげるのは意味のあることです。キリストだけが、すべての人の心に根ざしている、真理と善へのあこがれを満たしてくださるからです。地上の過ぎ去りゆく時間の中でも、終わりのない永遠の至福のときにも。

略号
DS  Denzinger-Schönmetzer, Enchiridion symbolorum definitionum et declarationum de rebus fidei et morum
PL  Patrologia Latina

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