教皇ベネディクト十六世の337回目の一般謁見演説 現代、どのように神について語るべきか

11月28日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の337回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の7回目として、「現代 […]


11月28日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の337回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の7回目として、「現代、どのように神について語るべきか」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は「世界エイズデー」を前にして、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「12月1日に『世界エイズデー』が行われます。『世界エイズデー』は、何百万人もの死と人間の悲惨な苦しみを引き起こすこの病気に対して注意を喚起するために国連が行う行事です。この苦しみは、効果的な薬を手に入れることがきわめて困難な、世界の最貧地域で悪化しています。とくにわたしの思いは、予防のための治療法があるにもかかわらず、毎年、母親からウイルスに感染している多くの子どもに向かいます。教会の宣教地において、この病気を撲滅するための多くの取り組みが推進されるよう励まします」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日、問いかけたい問いは次のものです。現代において神についてどのように語ればよいでしょうか。どのように福音を伝え、現代人のしばしば閉ざされた心と、時として社会の多くのきらめきに引き寄せられる精神の中に、救いの真理への道を開くことができるでしょうか。福音書記者が語るとおり、イエスご自身、神の国を告げ知らせるにあたって、次のように問いかけます。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」(マルコ4・30)。今日、神についてどのように語ればよいでしょうか。第一の答えはこれです。わたしたちは神について語ることができます。なぜなら、神がわたしたちと語ってくださったからです。それゆえ、神について語るための第一の条件は、神ご自身が何を語られたかに耳を傾けることです。神はわたしたちに語りかけてくださいました。ですから神は、世界の起源についての遠大な仮説でも、わたしたちとかけ離れた数学的概念でもありません。神はわたしたちを心にかけ、わたしたちを愛し、自らわたしたちの歴史の現実の中に歩み入り、受肉するに至るまでご自身を伝えてくださいます。それゆえ、神はわたしたちの生活の現実です。神は偉大なかたなので、わたしたちのための時間ももっておられます。わたしたちとかかわってくださいます。わたしたちはナザレのイエスにおいて神のみ顔と出会います。神は天から降って人間の世に、わたしたちの世に身を投じます。そして、「生き方」を、幸福への道を教えてくださいます。それは、わたしたちを罪から解放して、神の子とするためです(エフェソ1・5、ローマ8・14参照)。イエスはわたしたちを救うために来て、福音に基づく恵みの生活を示してくださるのです。
 神について語るとは、何よりもまず、わたしたちが現代人にもたらすべきものを明らかにすることです。それは、抽象的な神でも、仮説でもありません。むしろ、具体的な神、存在する神です。歴史の中に歩み入り、歴史の中に現存される神です。なぜ、またどのように生きるかという根本的な問いへの答えである、イエス・キリストの神です。ですから、神について語るには、イエスとその福音を親しく知ることが求められます。神を個人的に、本当に知らなければなりません。成功への誘惑に陥ることなく、神ご自身の方法に従いながら、神の救いの計画に対する強い熱意をもたなければなりません。神の方法とは、へりくだりです。神はわたしたちの一人となられたからです。それはナザレの質素な家とベツレヘムの洞窟での受肉において現実となった方法です。からし種のたとえで示された方法です。へりくだって一歩一歩歩むことを恐れてはなりません。パン種が、粉に混ぜると、やがてふくれることに信頼しなければなりません(マタイ13・33)。聖霊に導かれながら、福音宣教のわざにおいて神について語るには、単純さを回復すること、告知すべき本質的な内容に立ち帰ることが必要です。それは、現実の具体的な神、わたしたちを心にかけてくださる神、愛である神についての福音です。神はイエス・キリストにおいて、十字架に至るまでわたしたちに近づいてくださり、復活によって希望を与え、終わりのない、永遠のいのちをわたしたちに開いてくださいます。特別な使者である使徒パウロはわたしたちに一つに教訓を示します。それは、「神についてどう語るべきか」という問題に関する信仰の中心を、きわめて単純なしかたで語ります。コリントの信徒への手紙一でパウロは述べます。「わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画をのべ伝えるのに優れたことばや知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(同2・1-2)。それゆえ、第一のことはこれです。パウロは自分が深めた哲学や、ほかのところに見いだすか、思いついた概念を語りません。むしろ彼は、自分の生きた現実を語ります。自分の生涯に入って来られた神を語ります。生きておられる現実の神を、これまでもこれからもわたしたちに語りかけてくださる神を語ります。十字架につけられて復活したキリストを語ります。第二のことはこれです。パウロは自分自身のことを求めません。称賛者のグループを作ることも、偉大な学派の指導者として歴史に名を残すことも望みません。彼は自分自身を求めません。むしろ聖パウロはキリストを告げ知らせます。そして、まことの現実の神のために人々を得ようと望みます。パウロは、自分の生涯の中に入って来られたかた、まことのいのちであるかた、ダマスコへの道で自分を捕らえたかたを告げたいという望みだけを抱いて語ります。それゆえ、神について語るとは、ご自分を知らせ、愛のみ顔を示してくださったかたに場所を空けることです。自分を放棄してキリストにささげることです。神のために他の人を得ることができるのはわたしたちではないこと、わたしたちは神ご自身にそれを期待し、願い求めなければならないことを、わたしたちは知っているからです。それゆえ、神について語ることは、聞くことから、神について知ることから生まれます。神を知ることは、神と親しくかかわり、祈り、おきてに従う生活を送ることによって実現します。
 聖パウロにとって、信仰を伝えるとは、自分自身を知らせることではありません。むしろそれは、自分がイエスと出会って見たこと、聞いたこと、この出会いによって造り変えられた生涯の中で自分が体験したことを、はっきりと公に述べることです。自らの中におられるのを感じ、生涯の真の目標となったイエスをもたらすことです。それは、イエスが世のために必要であり、すべての人の自由にとって決定的に重要であることを、すべての人に悟らせるためです。使徒パウロは、ことばでのべ伝えるだけでは満足せず、信仰の偉大なわざに自らの生涯全体をささげます。神について語るには、神に場所を空けなければなりません。神がわたしたちの弱さの中で働かれることを信頼しなければなりません。恐れずに、単純さと喜びをもって、神に場所を空けなければなりません。わたしたちが自分ではなく神を中心に置けば置くほど、告知が実りを結ぶことを確信しなければなりません。これはキリスト教共同体にもいえます。キリスト教共同体は、変容をもたらす神の恵みのわざを示すよう招かれています。そのために、個人主義、自己中心主義、利己主義、無関心を克服し、日々の関係の中で神の愛を生きなければなりません。わたしたちは、自分の共同体が本当にこのような姿になっているかどうか、問わねばなりません。つねに本当にこのような姿となり、自分自身ではなくキリストを告げ知らせようとし始めなければなりません。
 ここで問いかけなければなりません。イエスご自身はどのように話されたでしょうか。イエスは、人間生活の苦しみと困難に対するあわれみに満ちたまなざしをもって、独自のしかたでご自分の父(「アッバ(父よ)」)と神の国について語ります。イエスはきわめて現実主義的に語ります。そして、イエスの告知の本質的な内容は、いわば、世を透明にすること、わたしたちのいのちは神にとって価値あるものだということです。イエスは、神のみ顔が世と被造物の中で明らかになることを示します。そして、わたしたちの人生の日々の出来事の中に神が現存することを示してくださいます。そのためにイエスは、からし種や、さまざまな種が落ちた土地のような自然のたとえ話や、生活のたとえ話を用います。たとえば、放蕩息子、ラザロや、他のイエスのたとえ話です。わたしたちは福音書から、イエスが、ご自身の出会ったあらゆる人間的状況に関心をもち、御父の助けに完全に信頼しながら、当時の人々の現実に身を投じたことを見いだします。そして、この出来事の中に隠れたしかたで神がおられ、注意して見るなら、神と出会うことができることが分かります。イエスとともに過ごした弟子たちや、イエスと出会った群衆も、イエスがさまざまな問題にどう反応し、どのように語り、振る舞ったかを目にします。彼らはイエスのうちに聖霊のわざを、神のわざを認めます。イエスにおいて告知と生活は結び合わされています。イエスはつねに父である神との深い関係から出発しながら、行動し、教えます。この様式は、わたしたちキリスト信者にとって本質的な教えとなるものです。わたしたちの信仰と愛に根ざした生き方が、現代における神についての語りとなります。なぜなら、このような生き方は、キリストに結ばれた生活によって、それが信頼できることを示すからです。わたしたちがことばで語ることが現実であることを示すからです。それはことばだけでなく、現実、それも真の現実を示すからです。ここでわたしたちは注意深く現代の時のしるしを読み取り、現代文化の中にある可能性とあこがれと障害を見いださなければなりません。とくに本来の自分へのあこがれ、超越への望み、被造物を守ろうとする感覚です。そして、神への信仰が示すこたえを恐れずに伝えなければなりません。「信仰年」は、聖霊に導かれた想像力をもって、個人と共同体のレベルにおいて新しい道を見いだすよい機会です。それは、福音の力があらゆるところで生活の知恵、人生の方向づけとなるためです。
 現代においても、神について語る特別な場所は家庭です。家庭は、信仰を新しい世代に伝えるための最初の学びやです。第二バチカン公会議は、両親が神についての最初の使者であると述べます(『教会憲章』11、『信徒使徒職に関する教令』11参照)。両親は自らのこの使命を再発見するよう招かれています。そのため彼らは、子どもの良心を教え、神への愛へと開く責務を、自分たちの人生の根本的な任務として果たして、子どもたちの最初のカテキスタ、信仰の教師とならなければなりません。この務めにおいて何よりも大切なのは「細心の注意」です。「細心の注意」とは、家庭の中で信仰についての話を行い、子どもたちが置かれた多くの状況に関する批判的考察を深めるよい機会を見いだすことです。両親の行うこの注意は、子どもの心の中で浮かぶ宗教的な問いを受け入れる感受性でもあります。この問いは、はっきりしていることも、秘められていることもあります。もう一つ大切なのは「喜び」です。信仰の伝達はつねに喜びを帯びたものでなければなりません。それは過越の喜びです。過越の喜びは、悲しみ、苦しみ、労苦、困難、誤解、そして死について沈黙することも隠すこともありません。しかしそれは、万事をキリスト教的希望の観点から解釈する基準を示します。福音に基づく恵みの生活は、まさしくこの新しいまなざしです。あらゆる状況を神の目で見ることのできる力です。信仰は重荷ではなく深い喜びの源であることを理解できるように、また、神のわざを見いだし、静かな善の現存を認めることができるように、家族の皆を助けることが大切です。信仰は、人生をよく生きるための貴重な方向づけを示してくれるのです。三つ目に大切なのは「聞き、対話する力」です。家庭は、ともにいて、(聞き、語ることから生まれる)相互の対話のうちに対立を修復し、互いに理解し合い、愛し合うことを学ぶ場とならなければなりません。それは、互いに神のあわれみ深い愛のしるしとなるためです。
 それゆえ、神について語るとは、ことばと生活をもって、次のことを理解してもらうことです。神はわたしたちの人生と競い合うかたではなく、むしろわたしたちの真の守り手、人間の人格の偉大さの保護者です。こうしてわたしたちは出発点に戻ります。神について語るとは、力強く単純に、ことばと生活をもって、本質的なことがらを伝えることです。つまり、イエス・キリストの神を伝えることです。この神は、わたしたちのために受肉し、死んで、復活するほど深い愛を示されました。この神は、わたしたちがご自分に従い、ご自分のはかりしれない愛によって造り変えられて、人生とさまざまな関係を刷新するよう求めます。この神は、わたしたちに教会を与えてくださいました。それは、わたしたちとともに歩み、みことばと秘跡を通して人間の国全体を新たにし、それを神の国とするためです。

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