教皇ベネディクト十六世の2012年12月2日の「お告げの祈り」のことば 待降節

教皇ベネディクト十六世は、待降節第一主日の12月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、待降節第一主日の12月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日、インドのコッタールでデヴァサハヤム・ピライ(Devasahayam Pillai 1712-1752年)が列福されます。デヴァサハヤム・ピライは18世紀に生きた信徒で、殉教により亡くなりました。インドの教会と喜びをともにしながら、新たな福者がこの偉大で高貴な国インドのキリスト信者の信仰を支えてくださるように祈りたいと思います。
 明日は国際障害者デーです。すべての人は、たとえ深刻な身体的・精神的な限界があっても、つねにかけがえのない価値を有しており、またそのように扱われるべきです。教会共同体がこれらの兄弟姉妹に注意を向け、彼らを受け入れてくださるよう励まします。立法者と政府が障害者を守り、彼らの完全な社会参加を推進してくださることを勧告します」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日から教会は新しい典礼暦年を開始します。この典礼暦年の歩みはさらに、第二バチカン公会議開幕50周年を記念する「信仰年」によって豊かなものとされます。この旅路の最初の季節は待降節です。ローマ典礼では、待降節は、主の降誕、すなわち受肉の神秘に先立つ4週間から成ります。「待降」(avvento)ということばは「到来」と「現存」を意味します。古代世界では、このことばは、属州を王または皇帝が訪問することを表しました。キリスト教用語としては、このことばは、神の到来と、その世への現存を意味します。この神秘は宇宙と歴史全体にかかわりますが、それには二つの頂点の時があります。イエス・キリストの第一の到来と第二の到来です。第一の到来は受肉にほかなりません。第二の到来は終わりの時の栄光ある再臨です。時間的には離れた(また、わたしたちはそれがどれだけ離れているか知ることができません)この二つの時は、深い意味で触れ合っています。なぜなら、イエスはその死と復活により、創造の最終的な目的である、人間と宇宙の変容をすでに実現されたからです。しかし、終末の前に、福音があらゆる民にのべ伝えられなければなりません。聖マルコによる福音書の中でイエスが述べるとおりです(マルコ13・10参照)。主の到来は継続し、世は主の現存によって満たされなければなりません。福音の告知によって行われる、この永続的な主の到来は、わたしたちの協力を絶えず必要とします。十字架につけられて復活した神の小羊の婚約者であり、約束された花嫁である教会は(黙示録21・9参照)、自らの主との交わりのうちに、この永続的な主の到来に協力します。そして、永続的な主の到来のうちに、主の栄光ある再臨がすでに始まっているのです。
 今日の神のことばは、主の到来を準備するためになすべきことを示しながら、このことを思い起こさせてくれます。ルカによる福音書の中で、イエスは弟子たちにいいます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。・・・・いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・34、36)。それゆえ、落ち着いた心で、祈らなければなりません。さらに使徒パウロはこう招きます。あなたがたが、「お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれますように」。そして、あなたがたの心が強められ、聖なる、非のうちどころのない者となりますように(一テサロニケ3・12-13参照)。世の混乱や、無関心と物質主義の荒れ野のただ中で、キリスト信者は神から来る救いを受け入れ、さまざまな生き方によって、山の上にある町のように、それをあかしします。預言者エレミヤは告げます。「その日には・・・・エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主はわれらの救い』と呼ばれるであろう」(エレミヤ33・16)。信じる者の共同体は、神の愛と義のしるしです。神の愛と義は、「すでに」歴史の中に現存して働いていますが、「まだ」完全には実現していません。だからわたしたちはそれを忍耐と勇気をもって待ち望み、祈り求めなければなりません。
 おとめマリアは待降節の精神を完全に体現したかたです。それは、マリアが神に耳を傾け、み心を果たすことを深く望み、隣人に喜んで仕えたからです。マリアに導いていただこうではありませんか。神が来られるとき、わたしたちが心を閉ざしたり散らしているのを見いだすようなことがありませんように。むしろ、わたしたち一人ひとりのうちに、ご自身の愛と正義と平和の国を広めてくださいますように。

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