教皇ベネディクト十六世の338回目の一般謁見演説 神のいつくしみ深い計画

12月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の338回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の8回目として、「神のい […]


12月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の338回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の8回目として、「神のいつくしみ深い計画」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、コンゴ民主共和国の情勢をめぐって、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「コンゴ民主共和国東部の深刻な人道危機について憂慮すべき報道がもたらされ続けています。同地域は数か月を経て武力紛争と暴力の舞台となっています。国民の大部分は基本的な生計の手段を失い、数千人の住民は別の地域に避難するため、自分の家を離れることを強いられています。それゆえわたしは、あらためて対話と和解を呼びかけるとともに、コンゴ国民の困窮を支援してくださるよう国際社会にお願いします」。
コンゴ民主共和国では2012年4月以降、北キブ州で、コンゴ国軍と同国内で活動する反政府武装勢力の一つ「3月23日運動(M23)」との間で断続的な衝突が発生していましたが、11月15日、北キブ州ゴマ市付近で両者の戦闘が発生し、20日にはM23がゴマを掌握しました。1998年からの内戦が2003年に終結して以来、反政府勢力のゴマ侵攻は初めてのことです。12月1日、M23はゴマ市撤退を開始、4日までに政府軍が市の支配を回復しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 エフェソの信徒への手紙の冒頭で(エフェソ1・3-14参照)、使徒パウロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に賛美の祈りをささげます。この祈りは、わたしたちが「信仰年」との関係において待降節を過ごすよう導いてくれます。この賛美の歌のテーマは、人間に対する神の計画です。この計画は、喜びと驚きと感謝をもって、「いつくしみ深い」あわれみと愛の「計画」(9節)として述べられます。
 使徒はなぜ、心の底からこの賛美を神にささげるのでしょうか。それは彼が、イエスの受肉と死と復活で頂点に達する、救いの歴史の中に神のわざを見いだすからです。そして、天の父が、独り子イエス・キリストにおいて、天地創造の前からわたしたちを養子として選んでくださっていたことを仰ぎ見るからです(ローマ8・14-15、ガラテヤ4・4-5参照)。わたしたちは永遠の昔から、神の思いのうちに、すなわち神の偉大な計画のうちに存在します。神はこの計画をご自身のうちにしまっておられましたが、「時が満ちるに及んで」(エフェソ1・10参照)、それを実現し、示そうとされました。それゆえ、聖パウロはわたしたちに次のことを悟らせます。全被造物、とくに人間は、偶然の産物ではなく、神が永遠に抱いておられるいつくしみ深い計画に沿うものです。神は、ご自身のみことばの創造とあがないの力をもって、世を造られます。今最初に述べたことは、次のことをわたしたちに思い起こさせてくれます。わたしたちの召命は、世に存在し、歴史の一員となることだけでも、神の被造物であることだけでもありません。わたしたちの召命はそれより偉大なものです。それは、御子イエス・キリストにおいて、天地創造の前から神に選ばれることです。それゆえわたしたちは、すでに御子イエス・キリストのうちに、いわば永遠に存在します。神はキリストにおいて、わたしたちを養子としてご覧になります。使徒パウロが「愛の計画」(エフェソ1・5)とも呼ぶ、神の「いつくしみ深い計画」は、神のみ心の「神秘」と述べられます(9節)。この隠されていた神秘は、今やキリストの存在とわざのうちに現されました。神の働きかけは、いかなる人間の応答にも先立ちます。それは、わたしたちを包み、造り変える、神の無償のたまものです。
 しかし、この不思議な計画の究極目的は何でしょうか。神のみ心の中心は何でしょうか。聖パウロはいいます。それは「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」(10節)ことです。わたしたちはこの表現のうちに、神の計画、すなわち神の人類に対する愛の計画を悟らせてくれる、新約の中心的な定式の一つを見いだします。2世紀に、リヨンの聖エイレナイオス(Eirenaios; Irenaeus 130/140-200年頃)は、この定式を彼のキリスト論の核心としました。すなわち、万物のキリストにおける「再統合」です。皆様の中には、教皇聖ピオ十世(在位1903-1914年)が、イエスのみ心に全世界を奉献するために用いた、「キリストのうちに万物を刷新する(Instaurare omnia in Christo)」という定式を思い起こされるかたもあるかもしれません。この定式は今述べたパウロの表現に基づくものですが、同時に聖なる教皇の標語でもありました。しかし使徒パウロは、キリストにおいて万物が再統合されることについてより正確に語ります。それは、創造と歴史の偉大な計画の中で、キリストが世の歩み全体の中心、すなわち万物の基軸として立つことを意味します。そしてキリストは、すべてのものをご自身へと引き寄せ、分裂と限界を乗り越えさせ、万物を神の満ちあふれるみ心へと導きます(エフェソ1・23参照)。
 この「いつくしみ深い計画」は、いわば、神の沈黙の中に、神のおられる天の高みにとどまりません。むしろ神は、人間との関係に入ることにより、それを知らせます。神は人間に、一部のものだけではなく、ご自身を現すからです。神は真理全体を伝えるだけでなく、わたしたちにご自身を伝えます。そのために神はわたしたちの一人となり、受肉されます。第二バチカン公会議は『神の啓示に関する教義憲章』の中でこう述べます。「神は、その愛と知恵によって、自分を(すなわち、一部のものだけではなく、ご自身を)啓示し、また、受肉したみことばであるキリストにより、聖霊において、人々を父に近づかせ、神の本性にあずからせる、み心の神秘を明らかにしようとした」(同2)。神は何かを語るだけでなく、ご自身を伝えてくださいます。わたしたちを神の本性へと引き寄せます。こうしてわたしたちは神の本性にあずかり、神化されます。神は、人間と関係をもち、ご自身が人間となるほど人間に近づくことにより、ご自身の偉大な愛の計画を示します。公会議は続けて述べます。「目に見えない神は、大きな愛によって、あたかも友に対するように、人間に話しかけ(出エジプト33・11、ヨハネ15・14-15参照)、彼らと住まいをともにしている(バルク3・38参照)。それは、彼らを自分との交わりに招き、これにあずからせるためである」(同)。人間は、自分の知性と力だけでは、こうした神の愛の輝かしい啓示に達することができません。神がご自身の天を開いて、降って来て、ご自身の愛の深淵へと導いてくださるのです。
 聖パウロはコリントのキリスト者への手紙の中でもこう述べます。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(一コリント2・9-10)。聖ヨアンネス・クリュソストモス(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)も、エフェソの信徒への手紙の冒頭を注解した有名な箇所で、神がキリストのうちに現されたこの「いつくしみ深い計画」のすばらしさを余すところなく味わうように招いて、こう述べます。「あなたには何の欠けるものがあろうか。あなたは不死の者となり、解放され、子となり、正しい者となり、兄弟となり、共同の相続人となり、キリストとともに支配し、キリストとともに栄光に上げられる。聖書に書かれているとおり、すべてのものがわたしたちに与えられている。『御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか』(ローマ8・32)。あなたの初穂(一コリント15・20、23参照)は天使によってあがめられている。・・・・あなたには何の欠けるものがあろうか」(PG 62, 11)。
 啓示の光により、聖霊のわざを通して、すべての人に神から与えられる、このキリストとの交わりは、わたしたちの人間性の上に置かれるものではありません。それはむしろ、深いあこがれ、すなわち、人間の心の奥深くにある、無限なもの、完全なものへのあこがれの実現です。そしてそれは、一時的で限られた幸福ではなく、永遠の幸福へと人間の心を開きます。バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)は、神がご自身を現し、聖書を通じてわたしたちに語りかけ、ご自身へと導いてくださることについて、次のように述べます。「その中に『永遠のいのちのことば』が記されている聖書は、ただ単にわれわれが信ずるためばかりではなくて、われわれが『永遠のいのち』をもつために記されているのである。そしてその永遠のいのちの中にこそ、われわれはすべての望むものを見、愛し、そしてそれが満たされるのである」(『神学提要』:Breviloquium, Prologus, Opera Omnia V, 201s.〔関根豊明訳、『神学綱要』エンデルレ書店、1991年、3-4頁参照〕)。最後に、福者教皇ヨハネ・パウロ二世はいいます。「啓示は、わたしたちの歴史の中に、ある重要な基準点を導入します。人間は自分の生の秘義を理解しようとするなら、この基準点を無視することはできません。一方、この認識は、たえず神の秘義に準拠しようとします。ただし、人間精神は、この神の秘義を完全にくみ尽くすことはできず、ただ信仰の中にそれを獲得して受け入れるだけです」(回勅『信仰と理性』14)。
 それでは、このような観点から見て、信仰とはいかなる行為なのでしょうか。信仰とは、ご自身を知らせ、ご自分のいつくしみ深い計画を示す神の啓示に、人間がこたえることです。アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)のことばを用いるなら、信仰とは、神という真理に捕らえられることです。愛という真理に捕らえられることです。だから聖パウロは、ご自分の神秘を現された神に対してわたしたちが「信仰による従順」(ローマ16・26。同1・5、二コリント10・5-6参照)を示さなければならないことを強調します。「信仰による従順」とは、「人間が『啓示する神に対して、知性と意志のまったき奉献』をなし、また神から与えられた啓示に自発的に同意して、自由に己れをまったく神にゆだねる」(『神の啓示に関する教義憲章』5)態度です。これらすべてのことが、現実全体とのかかわり方を根本的に転換します。すべては新たな光のもとに現れます。それゆえ、それは真の意味での「回心」です。信仰とは「精神の転換」です。なぜなら、キリストにおいてご自身を現し、ご自分の愛の計画を知らせてくださった神が、わたしたちをご自分へと引き寄せてくださるからです。このかたが人生を支える意味となり、揺るぐことのない岩となってくださるからです。わたしたちは旧約の中に信仰に関する深いことばを見いだします。神は、ユダの王アハズにそれを伝えるよう預言者イザヤに命じます。神はいわれます。「信じなければ(すなわち、神に忠実であり続けなければ)、あなたがたは確かにされない」(イザヤ7・9b)。それゆえ、「立つ」ことと「理解する」ことの間にはつながりがあります。それは次のことをよく示してくれます。信仰とは、現実に関する神の見方を人生に受け入れることです。みことばと秘跡を通して神に導かれ、自分が何をなすべきか、自分が歩むべき道はいかなるものか、どう生きるべきかを悟らせていただくことです。しかし同時に信仰とは、神に従って理解すること、神の目でものごとを見ることです。このことが、人生を堅固なものとし、わたしたちが倒れずに「しっかりと立つ」ことを可能にするのです。
 親愛なる友人の皆様。わたしたちを聖なる降誕祭に向けて準備する、始まったばかりの待降節は、わたしたちを神の子の到来という輝かしい神秘の前に立たせてくれます。神がわたしたちをご自分のもとに引き寄せ、わたしたちがご自分と完全な喜びと平和の交わりを生きることを可能にするという、偉大な「いつくしみ深い計画」の前に立たせてくれます。待降節はあらためてわたしたちを招きます。多くの困難のただ中にあっても、神がともにいてくださるという確信を新たにしなさい。神は世に入って来られ、わたしたちと同じ人となり、ご自身の愛の計画を実現されます。神はまたわたしたちに願います。あなたがたも、世における神のわざのしるしとなりなさい。神は、わたしたちの信仰と希望と愛を通して、つねに新たに世に入って来ることを望まれます。わたしたちの夜の中で、ご自分の光をつねに新たに輝かせようと望まれるのです。

略号
PG  Patrologia Graeca

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