教皇ベネディクト十六世の339回目の一般謁見演説 啓示の諸段階

12月12日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の339回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の9回目として、「啓示 […]


12月12日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の339回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の9回目として、「啓示の諸段階」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりの祝福の後、教皇は、タブレット端末を用いて公式ハンドル@Pontifexによる初めてのツイートを行いました。
「親愛なる友人の皆様。ツイッターを通して皆様に触れられることをうれしく思います。皆様の寛大な応答に感謝します。心から皆様を祝福します」。
ツイートは英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ポーランド語、アラビア語、フランス語の8言語で行われました。英語以外のアカウントは@Pontifex_it; @Pontifex_es; @Pontifex_pt; @Pontifex_de; @Pontifex_pl; @Pontifex_ar; @Pontifex_frです。なお、その後、教皇は次の回答をツイッターで行いました。
「質問 どうすれば日常生活の中で『信仰年』をもっとよく過ごすことができるでしょうか。
 教皇 祈りの中でイエスと語ってください。福音の中でイエスが何をあなたに語っておられるかに耳を傾け、困っている人々の中にイエスを見いだしてください。
 質問 希望のない世界の中でどうすればイエスへの信仰を生きることができるでしょうか。
 教皇 わたしたちは信じる者が独りきりでないことを確信しています。神は堅固な岩です。わたしたちはこの岩の上に生活を築くことができます。そして神の愛はつねに忠実です。
 質問 仕事、家庭、世界の要求で忙しいときに、よく祈るにはどうすればよいでしょうか。
 教皇 自分の行いをすべて主にささげてください。日常生活のあらゆる状況の中で主の助けを求めてください。主がいつもあなたのそばにいることを忘れないでください」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の講話の中で、神の啓示についてお話ししました。神の啓示とは、神が、ご自身とそのいつくしみと愛の計画について伝えることです。この神の啓示は、時間と人類の歴史の中で行われます。歴史は「人類のための神の働きをわたしたちにあかしすることのできる場」となります。「神は、わたしたちにとってもっとも日常的な、そしてもっともあかししやすいことがらにおいて、わたしたちと結びつきます」(ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』12)。
 たった今朗読されたとおり、福音書記者聖マルコは、明白かつ簡潔なことばで、イエスが宣教を開始したときについて報告します。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)。世界と人間の歴史を照らし、それに完全な意味を与えるものが、ベツレヘムの洞窟の中で輝き始めます。それが、わたしたちがまもなく降誕祭に仰ぎ見る神秘です。イエス・キリストのうちに実現した救いです。神はナザレのイエスにおいてご自分のみ顔を示して、ご自分を認め、これに従う決断を行うことを人間に求めます。人間と愛の対話を始めるための、歴史における神の自己啓示は、人類の歴史全体に新たな意味を与えます。歴史は単なる世紀、年、日々の継続ではなく、ある現存の時となります。この現存が、歴史に完全な意味を与え、それを堅固な希望へと開くのです。
 この神の啓示の諸段階をどのように読み取ることができるでしょうか。聖書は、この歩みに関する出来事を見いだすための特別な場です。わたしはあらためて皆様にお願いしたいと思います。「信仰年」にあたって、聖書を頻繁に手に取って、読み、また黙想してください。主日のミサの聖書朗読にいっそう注意を向けてください。これらすべてのことが、わたしたちの信仰の貴重な糧となるからです。
 わたしたちは旧約を読むことにより、次のことを見いだすことができます。ご自分のために選び、契約を結んだ民の歴史における神のさまざまな働きかけは、過ぎ去って、忘却されるものではありません。それは「記念」となり、その全体で「救いの歴史」を構成します。この「救いの歴史」は、救いの出来事の記念を通して、イスラエルの民の意識の中で生き生きと保たれました。それゆえ、出エジプト記の中で、主は、エジプトの奴隷状態からの解放という偉大な出来事、すなわちヘブライ人の過越を記念するよう命じて、次のようにいわれます。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト12・14)。イスラエルの民全体にとって、神のわざを思い起こすことは一種の永久的な命令となりました。時の推移を、過去の出来事の生き生きとした記憶によって特徴づけなければなりません。こうしてこの記憶が、日々、新たに歴史を形成し、現在化するのです。申命記の中で、モーセは次のように民に向けて語ります。「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」(申命記4・9)。モーセはわたしたちにも語りかけます。「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、神がわたしたちになさったことを忘れずにいなさい」。信仰は、神を見いだし、思い起こすことによって養われます。神はつねに忠実で、歴史を導く、堅固で安定した基盤です。わたしたちはこの基盤の上に自分の人生を据えることができます。おとめマリアが神にささげた「マリアの賛歌」(Magnificat)も、この救いの歴史の最高の模範です。このような救いの歴史の記念が、神のわざを現在化し続けるのです。マリアは、神のあわれみ深いわざがご自分の民の具体的な歩みの中で示され、アブラハムとその子孫に対して結んだ契約の約束が忠実に守られたことをたたえます。これらすべては、決して消え去ることのない神の現存の生き生きとした記念です(ルカ1・46-55参照)。
 イスラエルにとって、出エジプトは、神が力あるわざを示した、中心的な歴史的出来事です。神はイスラエル人をエジプトでの奴隷状態から解放します。それは、彼らが約束の地に帰り、唯一まことの主として神をあがめることができるようになるためです。イスラエルが歩み始めるのは、他の民と同じような民となるためではありません。すなわち、独立した国家をもつためではありません。むしろそれは、礼拝と生活をもって神に仕えるためです。神のために場所を作るためです。この場所において、人間は神に忠実に従い、またそこで神が現存し、世においてあがめられるのです。さらに、イスラエルが歩み始めるのは、いうまでもなく、自分たちのためだけではなく、他の民のただ中で神をあかしするためです。この出エジプトの出来事を記念することは、それを現在化し、現実化します。神のわざは決して消え去らないからです。神はご自分の解放の計画を忠実に守り、実行し続けられます。それは、人間が自分の主を認めて、これに従い、信仰と愛によって主のわざにこたえられるようにするためです。
 それゆえ神は、最初の創造のわざの中でご自身を示すだけでなく、わたしたちの歴史の中に入って来られます。それも小さな民の歴史の中に入って来られます。この民は、もっとも数の多い民でも、もっとも強力な民でもありませんでした。そして、この歴史の中で進行した神の啓示は、イエス・キリストにおいて頂点に達します。この「ロゴス」、すなわち創造的なみことばは、世の初めからあり、イエスにおいて受肉し、神のまことのみ顔を示しました。イエスにおいてすべての約束は実現されます。イエスにおいて神の人類との歴史は頂点に達します。聖ルカが語る、エマオに向かって歩む二人の弟子の物語を読むと、次のことが明らかになったことが分かります。すなわち、キリストというかたは旧約と救いの歴史全体を照らし、旧約と新約の唯一の偉大な計画を示します。そしてご自分の独自の道を示します。実際、イエスは、途方に暮れ、失望した二人の旅人に、すべての約束が成就されたことを説明します。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ24・27)。福音書記者ルカは、この一緒に歩いた旅人が主だと分かった後、二人の弟子が上げた驚嘆の叫びを記します。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。
 『カトリック教会のカテキズム』は神の啓示の諸段階をまとめ、その発展を要約して示します(同54-66参照)。神は初めから人間をご自分との親密な交わりに招きました。そして神は、人間が自分の弱さによって親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく、たびたび人と契約を結びました(『ローマ・ミサ典礼書』第四奉献文参照)。『カテキズム』は、大洪水後のノアとの契約から、多くの国民の父とするために生まれ故郷を離れさせた、アブラハムへの招きに至るまで、神の人間との歩みを振り返ります。神はイスラエルをご自分の民として育てます。出エジプトの出来事、シナイ山での契約、そして、モーセを通じて律法を与えることを通して。それは、この民がご自分を生きている真の唯一の神として認め、神に仕えるようにさせるためでした。神は預言者たちによって、ご自分の民を救いの希望のうちに導きます。わたしたちは、イザヤを通じて、「第二の出エジプト」のことを知っています。すなわち、バビロニアの流謫から自分の土地への帰還と、民の再建です。しかし同時に、多くの人が離散したままとなり、そこからこの信仰は普遍的なものとなり始めました。ついに民は、単なる王ダビデと、ダビデの子を期待するにとどまらず、すべての民を救う「人の子」を待ち望むに至ります。最初はバビロニアとシリアで、ついで多くのギリシア人との間で、文化の出会いが生じます。こうして、神の歩む道が広がり、ますます全世界の王であるキリストの神秘へと開かれていったことが分かります。啓示はキリストのうちに最終的に完全に実現します。キリストはわたしたちの一人となられるからです。
 わたしは、人間の歴史における神のわざを記念することについて考察しました。それは、旧約と新約の中であかしされた、この偉大な愛の計画の諸段階を示すためです。この人類全体に対する唯一の救いの計画は、神の力によって少しずつ啓示され、実現されました。神はつねに人間の応答にこたえ、人間が道に迷うと、新たに契約を結びます。これこそが信仰の歩みの基盤です。わたしたちは待降節にあって、聖なる降誕祭を迎える準備をしています。ご存じのとおり、「待降」(avvento)とは、「到来」と「現存」を意味します。古代においてこのことばは、王または皇帝が特定の属州に到着することを意味しました。わたしたちキリスト信者にとって、このことばは驚嘆すべき出来事を表します。神ご自身が天から出て、人間のところに降って来られます。神は民の歴史の中に入ることによって、人間と契約を結びました。神は王として、地上というこの貧しい属州に降って来られました。そして、わたしたちの肉をとり、わたしたちと同じ人間となることによって、ご自身の訪問をたまものとして与えてくださいました。待降節は、わたしたちがこの神の現存の道を歩むよう招きます。そして、わたしたちにあらためて思い起こさせます。神が世から去ることも、不在となることも、わたしたちを放置して見捨てることもありません。むしろ神はさまざまなしかたでわたしたちと出会いに来られます。わたしたちはそのことを見分けることを学ばなければなりません。そしてわたしたちも招かれています。自分の信仰と希望と愛によって、日々、しばしば軽率で不注意な世のうちに神がおられることに気づき、それをあかしするようにと。そして、自分の生活の中で、ベツレヘムの洞窟を照らした光を輝かすようにと。ご清聴ありがとうございます。

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