教皇ベネディクト十六世の340回目の一般謁見演説 降誕祭の神秘

12月19日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の340回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った「降誕祭の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イ […]


12月19日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の340回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った「降誕祭の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。これが今年最後の一般謁見となります。

教皇は1週間前の12月12日に公式ハンドル@Pontifexによるツイートを開始しましたが、この日、次の2つのツイートを行いました。
「だれの人生にも、光のときもあれば、暗闇のときもあります。光の中を歩みたいなら、神のことばを導きとしてください」。
「マリアは人となられた神の子イエスの母となることを知って喜びに満たされます。真の喜びは神との一致から生まれます」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 待降節の歩みの中で、おとめマリアは特別な位置を占めます。マリアは独自のしかたで神の約束の実現を待ち望んだからです。すなわち、彼女は神のみ心に完全に忠実に従いながら、神の子イエスを信仰と肉体のうちに受け入れました。今日は、お告げという偉大な神秘から出発して、マリアの信仰についてご一緒に簡単に考えてみたいと思います。
 「喜びなさい、恵まれたかたよ。主はあなたとともにおられます(カイレ・ケカリトメネー、ホ・キュリオス・メタ・スー)」(ルカ1・28〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。福音書記者ルカの記事によれば、大天使ガブリエルはこういってマリアにあいさつします。一見すると、「喜びなさい(カイレ)」ということばは、ギリシア世界で用いられていた普通のあいさつのように思われます。しかし、聖書の伝統の背景のもとに読むなら、このことばはきわめて深い意味をもつことが分かります。同じことばは旧約聖書のギリシア語訳で4回、それもつねにメシアの到来に対する喜びの告知として用いられます(ゼファニヤ3・14、ヨエル2・21、ゼカリヤ9・9、哀歌4・21参照)。それゆえ、マリアに対する天使のあいさつは、喜び、それも深い喜びへの招きです。それは世に存在する悲しみの終わりを告げます。人生の限界、苦しみ、死、悪意、そして、神のいつくしみの光を覆い隠すかのように見える悪の闇による悲しみが終わるのです。天使のあいさつは、福音、すなわちよい知らせの始まりを示すあいさつなのです。
 しかし、なぜマリアはこのようにして喜ぶよう招かれたのでしょうか。答えはあいさつの後半に見いだされます。「主はあなたとともにおられます」。ここでも、このことばの意味をよく理解するためには、旧約に目を向けなければなりません。わたしたちはゼファニヤ書の中にこの表現を見いだします。「娘シオンよ、喜び叫べ。・・・・イスラエルの王、主はお前のただ中におられる。・・・・お前の神、主はお前のただ中におられる、救いを与える勇士が」(ゼファニヤ3・14-17〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。このことばは、シオンの娘であるイスラエルに対して二つの約束を行います。神は救い主として来られ、民のただ中に、すなわちシオンの娘の胎内に住まわれます。天使とマリアの対話によって、この約束が文字通り実現します。マリアは神の花嫁とされた民です。真の意味で人となったシオンの娘です。マリアのうちに神の決定的な到来への期待が成就します。マリアのうちに生ける神が住まわれるのです。
 天使のあいさつの中でマリアは「恵まれたかた」と呼ばれます。ギリシア語で「恵み(カリス)」という語は「喜び」ということばと言語的に同根です。この表現でも、マリアの喜びの源がさらに明らかにされます。喜びは恵みから生まれます。それは神との交わりから生まれます。すなわち、神と生き生きと結ばれ、聖霊の住まいとなり、完全に神のわざによって形づくられることから生まれるのです。マリアは、自らの造り主に独自のしかたで門を開いた被造物です。彼女は限界なしに造り主のみ手に身をゆだねたからです。マリアは完全に主との関係「から」、主との関係「のうちに」生きています。神の民の歩みの中で神のしるしを読み取ろうと、注意深く耳を傾けます。マリアは、神の約束への信仰と希望の歴史と結ばれます。この歴史がマリアの生涯を織りなすのです。そこからマリアは、信仰の従順のうちに、受け入れたことば、すなわち神のみ心に進んで従います。
 福音書記者ルカは、アブラハムの生涯との並行関係を通じてマリアの生涯を語ります。偉大な太祖アブラハムは信じる者の父です。彼は、自分の住む土地と安定した生活を捨て、神の約束によってのみ獲得される、未知の土地への旅を始めよという神の招きにこたえました。これと同じように、マリアは神の使いが告げたことばに完全な信頼をもって身をゆだね、すべての信じる者の模範また母となります。
 もう一つの重要な点を強調したいと思います。それは、信仰のうちに神とそのわざに心を開くことは、暗闇の要素も含むということです。人間と神の関係は、創造主と被造物のへだたりを消し去りはしません。それは、神の知恵の深さを前にして使徒パウロが述べたことを否定しません。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11・33)。しかし、マリアと同じように、神に完全に心を開く人は、神のみ心を受け入れます。たとえそれが神秘に満ち、しばしば自分の思いと同じではなく、剣のように心を刺し貫くとしても。イエスが神殿にささげられたときに、老人シメオンがマリアに預言したとおりです(ルカ2・35参照)。アブラハムの信仰の歩みには、息子イサクを与えられた喜びのときもありますが、暗闇のときもあります。彼は逆説的な行為を果たすためにモリヤの山に登らなければならなかったからです。神は、与えたばかりの息子を犠牲としてささげるようアブラハムに求めます。すると山の上で天使が彼に命じます。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(創世記22・12)。約束を忠実に守る神に対するアブラハムの完全な信頼は、神のことばが神秘に満ち、理解しがたく、ほとんど受け入れがたいときにも、なくなりませんでした。マリアの場合も同じです。マリアの信仰はお告げの喜びを味わいますが、御子の十字架の暗闇も通ります。それは、復活の光にまで達するためです。
 わたしたち一人ひとりの信仰の歩みにも同じことがいえます。わたしたちは光の時を過ごすこともあれば、神が不在であるかのように思われる時も体験します。そのとき、神の沈黙はわたしたちの心に重くのしかかり、神のみ心はわたしたちの望む思いに反するからです。しかし、アブラハムやマリアと同じように、神に心を開き、信仰のたまものを受け入れ、神を完全に信頼すればするほど、神はともにいて、わたしたちが神の忠実と愛を確信し、安んじて、どのような人生の状況を生きることも可能にしてくださいます。けれども、これは自分と自分の計画を捨てることを意味しません。神のことばは、わたしたちの思いと行いを導くともしびとなるからです。
 聖ルカが語るイエスの幼年時代に関する記事に見いだされる一つの点について、あらためて考えてみたいと思います。マリアとヨセフは息子をエルサレムの神殿に連れて行きます。それは、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とモーセの律法に定められたとおり、息子を主にささげて聖別するためでした(ルカ2・22-24参照)。聖家族のこの行動は、十二歳のイエスについての福音の記事に照らしてこれを読むなら、さらに深い意味をもつことが分かります。両親は、三日間捜した後に、イエスが神殿の境内で学者たちと議論しているのを見つけました。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とマリアとヨセフが心から心配して述べると、イエスは不思議なことばで答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・48-49)。「自分の父の家にいる」とは、子として、父がもっておられるもの、父の家にいるということです。マリアはお告げに際して「はい」と述べたときの深い信仰を新たにしなければなりません。マリアは、イエスのまことの父が優先することを受け入れなければなりません。マリアは、自分が生んだ子が、自分の使命を自由に果たせるようにしなければなりません。マリアは、信仰の従順における神のみ心に対する「はい」を、もっとも困難な十字架の時に至るまで、生涯全体を通じて繰り返して述べるのです。
 これらすべてのことを前にして、次の問いが浮かぶかもしれません。どうしてマリアは暗闇のときにも強い信仰をもって、神のわざへの完全な信頼を失わずに、御子とともに歩むことができたのでしょうか。人生の出来事に対してマリアがとっていた基本的な態度があります。お告げのとき、マリアは天使のことばを聞いて戸惑いました。この戸惑いは、近くに来られた神に触れたときに人間が感じる畏れです。しかしそれは、神が求めることを恐れる態度ではありません。マリアは考え込み、このあいさつの意味は何かと自問します(ルカ1・29参照)。この「考え込む」を表すために福音書で用いられたギリシア語「ディエロギゼト」は、「対話(ディアロゴス)」という語の語根を思い起こさせます。このことばは、マリアが、告げられた神のことばとの深い対話を始めたことを表します。マリアは神のことばを表面的な意味で考えません。むしろ立ち止まって、このことばに自分の思いと心の中に入って来てもらいます。それは、主が自分に望むこと、すなわちお告げの意味を悟るためです。神のわざに対するマリアの内的な態度に関するもう一つのヒントを、やはり聖ルカによる福音書の中に見いだすことができます。それは、イエスの誕生の際の、羊飼いたちの礼拝の後のところです。ルカはいいます。マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)。ギリシア語は「シュンバッロン」です。マリアは、起こったすべての出来事を自分の心の中に「一緒にとどめた」、「一緒に置いた」ということができます。マリアは一つひとつの出来事のすべてと、すべてのことばと、すべての事実を、全体としてまとめ、守りました。それは、すべてのことは神のみ心によると知っていたからです。マリアは、生涯の中で起きたことに関して、最初に抱いた表面的な理解にとどまることなく、それを深く見つめることができました。さまざまな出来事から問いかけてもらい、これらの出来事を消化し、識別し、信仰のみが与えうる理解を得たのです。マリアは従順な信仰をもって深くへりくだります。マリアは神のわざについて理解できないことも自分の中に受け入れ、神に思いと心を開いていただくからです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1・45)。親類のエリサベトが叫んだとおりです。そして、まさにこの信仰によって、いつの世の人もマリアを幸いな者と呼ぶのです。
 親愛なる友人の皆様。わたしたちが間もなく祝う主の降誕の祭日はわたしたちを招きます。これと同じ信仰のへりくだりと従順を生きなさいと。神の栄光は、王の勝利と力のうちに示されるのでもなければ、壮麗な都、豪華な宮殿の中で輝くのでもありません。むしろそれは一人のおとめの胎内に宿ります。幼子の貧しさの中に現れます。神の全能は、わたしたちの生活においても、しばしば静かに、真理と愛の力をもって働きます。それゆえ信仰は私たちに語りかけます。あの幼子の無防備な力が、最終的に、世の騒がしい力に打ち勝つのです。

PAGE TOP