教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月24日(月)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。  親愛なる兄弟姉妹の皆様。  今日の福音の美 […]


12月24日(月)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の福音の美しさは、いつもあらためてわたしたちの心を打ちます。この美しさは、真理の輝きです。神が幼子となったことは、いつもあらためてわたしたちを感動させます。だからわたしたちは神を愛することができます。あえて神を愛します。そして、信頼をこめて、幼子である神を腕に抱きます。神はこういっておられるかのように思われます。わたしは知っています。わたしの輝きがあなたを恐れさせることを。わたしの偉大さの前であなたが自己主張しようとすることを。そこで今、わたしは幼子としてあなたのもとに来ます。それは、あなたがわたしを受け入れ、愛することができるようにするためです。
 福音書記者がついでのように述べたことばも、いつもあらためてわたしの心を打ちます。宿屋には彼らの泊まる場所がありませんでした。次の問いが浮かばずにはいません。マリアとヨセフがわたしの戸をたたいたなら、どうなるでしょうか。わたしたちに彼らを泊める場所はあるでしょうか。次いで、わたしたちは次のことに気づきます。聖ヨハネは、宿屋には泊まる場所がなく、聖家族を馬小屋に向かわせたという、偶然書かれたように思われる断り書きを深く考察し、ことがらの本質に達して、次のように書きました。「ことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。こうして、避難民、難民、移住者に対してわたしたちがどのような態度をとっているかという大きな倫理的な問いが、あらためて根本的な意味をもちます。神がわたしたちの家に泊まろうとするとき、わたしたちには本当に神のために場所があるでしょうか。わたしたちは神のために時間と場所を空けているでしょうか。わたしたちはもしかすると神ご自身を拒絶していはしないでしょうか。神のために時間をとらないなら、わたしたちは神を拒絶することになります。迅速に動けるようになればなるほど、いっそう効果的に時間を節約でき、必要な時間はいっそう短くなります。神についてはどうでしょうか。神についての問いはますます緊急性を帯びたものでなくなります。わたしたちの時間はすでにすっかり一杯です。けれども、問題はますます深刻になります。神は本当にわたしたちの思考の中で場所をなくしたのでしょうか。わたしたちの思考法は、究極的に、神が存在できないような構造になっています。たとえ神がわたしたちの思考の戸をたたいても、神はわたしたちの推論によって遠ざけられてしまいます。真剣に考えるなら、思考は、「神という仮説」を無意味なものとするような構造をとることになります。神のための場所など存在しません。わたしたちの感情や意志にも、神のための場所は存在しません。わたしたちは自分自身を望みます。自分が手で触れられるもののみを望みます。すなわち、体験可能な幸福や、自分の計画と目的の成功です。わたしたちは自分自身で完全に「満たされ」ており、神のためのわずかな場所もありません。そのために、他者、子ども、貧しい人、外国人のための場所もないのです。わたしたちは、宿屋には泊まる場所がなかったという単純なことばから、聖パウロの勧告にどれほど耳を傾けなければならないかが分かります。「心を新たにして自分を変えていただきなさい」(ローマ12・2)。パウロは刷新について語っています。刷新とは、わたしたちの知性(ヌース)を開くことです。パウロは総じて、わたしたちの世界と自分自身についての見方について語っています。わたしたちが必要とする回心は、真の意味で、現実との関係の深みにまで達しなければなりません。主に祈りたいと思います。あなたの現存に気づけるようにしてください。あなたが静かに、しかし執拗にわたしたちの存在と意志の戸をたたいているのに気づかせてください。祈りたいと思います。わたしたちの心の中に主のための場所を作ることができますように。そして、主がその人々を通してわたしたちに語りかける人々――すなわち、現代世界の子ども、苦しむ人、見捨てられた人、疎外された人、貧しい人々のうちに、主を見いだすことができますように。
 主の降誕の記事のもう一つのことばをご一緒に考えてみたいと思います。救い主の誕生を告げた後、天使たちが歌った賛歌です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心に適う人にあれ」。神は栄光です。神は清らかな光であり、真理と愛の輝きです。神はいつくしみです。神はまことの善です。優れた意味での善です。神をとりまく天使たちは、何よりもまず、単純に、神の栄光を見た喜びを伝えます。天使たちの歌は、彼らを満たす喜びを輝かせます。わたしたちは天使たちのことばのうちに、いわば天上の旋律を聞き取ります。このことばの意味は尋ねるまでもありません。天使たちはただ、神の真理と愛の純粋な輝きを見ることによって幸福に満たされます。わたしたちもこの喜びに触れていただきたいと思います。真理は存在します。純粋ないつくしみは存在します。清らかな光は存在します。神はいつくしみです。そして、あらゆる権力を超えた、最高の力です。わたしたちは、この夜、天使と羊飼いたちとともに、このことを単純に喜ばなければなりません。
 天のいと高きところの神の栄光は、地上の人々の平和とかかわります。地上では、神は栄光を与えられず、忘れられ、そればかりか否定されています。そこには平和は存在しません。しかし、現代において、その反対のことを主張する思潮が広まっています。彼らはいいます。宗教、とくに一神教が、世界の暴力と戦争の原因である。平和を作り出すためには、まず人類を宗教から解放しなければならない。一神教、すなわち唯一の神への信仰は横暴であり、不寛容の原因である。一神教は本来、唯一の真理の主張をすべての人に強制するからである。歴史の中で、一神教が不寛容と暴力のきっかけとなったことは事実です。宗教が堕落し、自らの深い本性に反するものとなりうることも事実です。それは、人間が神のことがらを自分の手で捉えられると考え、神を私的所有物とするためです。わたしたちはこのような聖なるものの歪曲に警戒しなければなりません。歴史の中である種の宗教の濫用があったことは間違いありません。しかし、だからといって、神の否定が平和を回復するというのは真実ではありません。神の光が消えるなら、人間の神的尊厳も消えることになります。そのとき人間はもはや神の像でなくなるからです(わたしたちは、弱者も外国人も貧しい人も含めたすべての人のうちに、この神の像を尊重しなければならないのにです)。そのときわたしたちは皆、もはや兄弟姉妹でも、唯一の御父の子でもなくなります(わたしたちは御父に基づいて、互いにかかわり合うのにです)。こうして尊大な暴力が姿を現します。人間が人間を軽蔑し、踏みにじります。わたしたちは20世紀にその残酷な姿を余すところなく目にしました。神の光が人間の上に、また人間のうちに輝き、すべての人が神に望まれ、知られ、愛されるとき、たとえどれほど悲惨な状態にあっても、初めて人間の尊厳は不可侵のものとなるのです。この聖なる夜、神ご自身が人となりました。預言者イザヤが告げたとおり、ここで生まれた幼子は「インマヌエル」、われらとともにおられる神となります(イザヤ7・14参照)。幾世紀の中で、宗教の濫用が行われたとしても、人となった神への信仰は、つねに和解といつくしみの新たな力となってきました。罪と暴力の暗闇の中で、この信仰が、平和といつくしみの光を輝かせ、また輝かせ続けているのです。
 だから、キリストはわたしたちの平和です。キリストは遠く離れている人々にも、近くにいる人々にも、この平和を告げ知らせました(エフェソ2・14、17参照)。この夜、主に祈らずにいられるでしょうか。そうです、主よ。遠くの人も近くにいる人も含め、現代のわたしたちにも、平和を告げ知らせてください。現代においても、剣を打ち直して鋤にしてください(イザヤ2・4参照)。戦争の武器に代えて、苦しむ人の助けを与えてください。あなたの名で暴力を振るうべきだと考える人を照らしてください。彼らが暴力の愚かさを悟り、あなたのまことのみ顔を見いだすことができますように。わたしたちが「み心に適う人」――あなたの像に従う人、平和の人となれるように助けてください。
 天使たちが去った後、羊飼いたちは話し合いました。さあ、ベツレヘムへ行こう。わたしたちに告げられたことを見ようではないか(ルカ2・15参照)。福音書記者が語るとおり、羊飼いたちは急いでベツレヘムに行きます(2・16参照)。彼らは聖なる好奇心に促されて、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を目の当たりにします。天使は、この乳飲み子が、救い主、キリスト、主であると告げたからです。天使が告げた大きな喜びが羊飼いたちの心に触れ、彼らを走らせました。
 今日の教会の典礼はわたしたちにいいます。ベツレヘムに行こう。ラテン語聖書は「超えて行こう(Trans-eamus)」と訳しています。すなわち、向こうへ行き、あえて歩もう。習慣となった考え方や生き方を離れて、単なる物質的な世界を超えて行こうと。それは、彼方にある本質的なもの、神に至るためです。そして神も、こちら側にいるわたしたちのもとに来てくださいます。主に祈りたいと思います。自分の限界、自分の世界を超えて行ける力をわたしたちにお与えください。わたしたちを助けてください。とくに主が至聖なる聖体のうちにご自身をわたしたちの手と心にゆだねてくださるとき、わたしたちが主と出会うことができますように。
 ベツレヘムへ行こう。羊飼いたちとともにこのことばを交わし合うとき、わたしたちは生ける神へと向かう大いなる歩みのことだけを考えてはなりません。むしろ、具体的なベツレヘムという町を、主が生き、活動し、苦しんだ場所のすべてを考えなければなりません。このときにあたり、ベツレヘムで生き、苦しんでいる人々のために祈りたいと思います。ベツレヘムに平和が訪れますように。イスラエルとパレスチナの人々が、唯一の神の平和と自由のうちに生きることができますように。周辺諸国、レバノン、シリア、イラクとその近隣の国々のためにも祈りたいと思います。これらの地域に平和が訪れますように。わたしたちの信仰が生まれたこれらの国々に住むキリスト信者が、彼らの家に住み続けることができますように。キリスト教徒とイスラーム教徒がともに神の平和のうちに国家を建設できますように。
 羊飼いたちは急いで行きました。彼らは聖なる好奇心と聖なる喜びに促されました。わたしたちが神に関することがらのために急いで行くことはきわめて稀かもしれません。現代、神は緊急を要することがらではありません。わたしたちは、神に関することがらは後回しにできると、考え、また話しています。けれども、神はもっとも重要な存在です。究極的にいうなら、本当に重要な唯一の存在です。わたしたちも、聖なる好奇心に促されて、神が語られたことをもっとよく見、知るべきではないでしょうか。祈りたいと思います。この夜にあたり、羊飼いたちの聖なる好奇心と聖なる喜びがわたしたちにも触れますように。そして、喜びをもってベツレヘムへ行こうではありませんか。今日も新たにわたしたちのところに来てくださる主のもとに行こうではありませんか。アーメン。

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