教皇ベネディクト十六世の341回目の一般謁見演説 降誕祭と、神が人となった神秘

1月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の341回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕祭と、神が人となった神秘」について前回に続いて解説しました。以下はその全訳 […]


1月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の341回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕祭と、神が人となった神秘」について前回に続いて解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 主の降誕は、わたしたちの世界とわたしたちの心をしばしば取り囲む闇を、あらためてその光で照らし、希望と喜びをもたらします。この光はどこから来るのでしょうか。ベツレヘムの洞窟です。羊飼いたちはそこで「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(ルカ2・16)のです。この聖家族を前にして、もう一つのより深い問いが浮かびます。この小さくて弱い幼子が、歴史の流れを変える徹底的な新しい要素をどのようにして世にもたらすことができたのでしょうか。この幼子の起源のうちには、洞窟を超える、神秘的な要素があるのではないでしょうか。
 こうして、イエスの起源に関して、つねに新たな問いが生じます。総督ポンティオ・ピラトも裁判の中で同じ問いを発します。「お前はどこから来たのか」(ヨハネ19・9)。しかし、起源はきわめてはっきりしています。ヨハネによる福音書の中で、主が「わたしは天から降って来たパンである」というと、ユダヤ人たちはこれに対してこうつぶやきます。「これはヨセフの息子のイエスではないか。われわれはその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(ヨハネ6・42)。少し後で、エルサレムの人々は、イエスが自分はメシアだというのを聞いて、激しく反対していいます。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」(ヨハネ7・27)。イエスも、彼がどこから来たのか知っているという彼らの主張が不適切であることを指摘します。そしてこのことばのうちにすでに、彼がどこから来たのか知る手がかりを与えます。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになったかたは真実であるが、あなたたちはそのかたを知らない」(ヨハネ7・28)。確かにイエスはナザレ出身で、ベツレヘムで生まれました。しかし、そのまことの起源についてわたしたちは何を知っているのでしょうか。
 四つの福音書の中で、イエスが「どこから」来られたのかという問いに対する答えが明快に示されます。イエスのまことの起源は、父である神です。イエスは完全に父に由来しますが、それは、イエスに先立って神から遣わされたいかなる預言者とも異なるしかたにおいてでした。イエスは「だれも知らない」神の神秘から来られます。このことは、わたしたちが降誕節に朗読している、マタイによる福音書とルカによる福音書の幼年期物語でもすでに述べられています。天使ガブリエルは告げます。「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1・35)。わたしたちはこのことばを信条、すなわち信仰宣言を唱えるたびに繰り返して述べます。「聖霊によって、おとめマリアからからだを受け」(et incarnatus est de Spiritu Sancto, ex Maria Virgine)。このことばの前にわたしたちはひざまずきます。なぜなら、神を覆い隠していた垂れ幕がいわば開き、はかりしれず、近づきえない神の神秘がわたしたちに触れるからです。神はインマヌエル、「われらとともにおられる神」となられたのです。典礼音楽の偉大な作曲家によって作られたミサ曲を聞くとき(たとえばわたしはモーツァルト〔1756-1791年〕の『戴冠ミサ曲』を思い浮かべています)、このことばが特別なしかたで扱われるのにすぐに気づきます。それは、ことばが言い表しえないことを、音楽という普遍的言語によって表現しようとしているかのように思われます。すなわち、受肉して、人となった、神の偉大な神秘です。
 「聖霊によって、おとめマリアからからだを受け」ということばを注意深く考察すると、そこには影響し合う四つの主体が含まれているのを見いだします。はっきりと言及されているのは聖霊とマリアです。しかし、ここでいわれているのは「彼」、すなわち、マリアの胎内で肉となった御子であることが分かります。信仰宣言、すなわち信条の中で、イエスはさまざまな呼称で呼ばれます。「主、・・・・キリスト、神のひとり子、・・・・神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、・・・・父と一体」(ニケア・コンスタンチノープル信条)。それゆえわたしたちは「彼」がもうひとりのペルソナ、すなわち御父のペルソナを参照することに気づきます。それゆえ、この文の第一の主語は御父です。御父は、御子と聖霊とともに唯一の神なのです。
 信条のこのことばは、神の永遠の存在について述べるのではなく、神の三位のペルソナにかかわり、「おとめマリアから」実現した働きを語ります。マリアがいなければ、神が歴史の中に入って来られたことは目的を達することなく、わたしたちの信仰宣言の中心となっていることは起こりませんでした。すなわち、神がわたしたちとともにおられる神だということです。それゆえマリアは、働き、歴史の中に入って来られる神に対するわたしたちの信仰に取り消しえないしかたで属しています。マリアは自分の全存在をささげて、自分が神の住まいとなることに「同意」したのです。
 わたしたちは時として、信仰生活の歩みにおいても、世にあかしをする上での自分の貧しさ、至らなさを感じることがありえます。しかし神は、大ローマ帝国の最も辺境の属州にある、だれも知らない村に住む、貧しい女性を選んだのです。わたしたちは、どれほど厳しい困難のただ中にあっても、神に信頼しなければなりません。マリアと同じように、歴史における神の現存と働きへの信仰を新たにしなければなりません。神にできないことは何一つないのです。神とともにいるなら、わたしたちの人生はつねに堅固な土地の上を歩み、揺るぎない希望の未来へと開かれます。
 「聖霊によって、おとめマリアからからだを受け」と信条を唱えることにより、わたしたちは、聖霊が、至高の神の力として、不思議なしかたで、おとめマリアのうちに神の子の受胎を成し遂げたことを宣言します。福音書記者ルカは大天使ガブリエルのことばを書き留めていいます。「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む」(ルカ1・35)。二つのことが思い起こされていることは明らかです。第一は創造です。創世記の初めにこう書かれています。「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1・2)。それは、すべてのものと人間にいのちを与えた、造り主である霊です。同じ神の霊の働きによってマリアのうちに起こったことは、新しい創造です。無から存在を呼び起こす神は、受肉によって人類の新たな始まりにいのちを与えます。教父たちはしばしばキリストを新しいアダムと呼びます。それは、おとめマリアの胎から神の子が生まれることによって新しい創造が開始したことを強調するためです。このことは、信仰が、新たに生まれさせる力強い新しさをわたしたちのうちにももたらすことを考えさせてくれます。実際、キリスト信者となるために初めに行われるのは洗礼です。洗礼はわたしたちを神の子として生まれ変わらせ、イエスが父に対してもっていた子としての関係にわたしたちをあずからせるからです。また、洗礼は「受ける」ものであること、わたしたちは受動的に「受洗する」ことに注意を向けていただきたいと思います。だれも自分の力で神の子となることはできないからです。それは無償で与えられるたまものなのです。聖パウロは、ローマの信徒への手紙の中心部分で、キリスト者が子とされることについて次のように述べます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが(奴隷ではなく)神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になってあかししてくださいます」(ローマ8・14-16)。マリアと同じように、心を神に開き、完全に信頼する友に対するように主に人生をゆだねるとき、初めてすべては変わります。そのときわたしたちの人生は新しい意味と新たな顔をもつようになります。すなわち、わたしたちは御父の子です。御父はわたしたちを愛し、決して見捨てることがありません。
 わたしたちは二つの要素があるといいました。第一の要素は、水の面を動いていた霊、造り主である霊です。お告げのことばにはもう一つの要素があります。
 天使はマリアにいいます。「いと高きかたの力があなたを包む」。このことばは、出エジプトの旅の間、契約の幕屋、すなわち契約の箱の上にとどまっていた聖なる雲を思い起こさせます。イスラエルの民は、神の臨在を示すこの契約の幕屋を運びました(出エジプト40・34-38参照)。それゆえマリアは新しい聖なる幕屋であり、新しい契約の箱です。マリアが大天使のことばに「はい」といったことにより、神はこの世の住まいを与えられました。全宇宙も受け入れることができないかたが、おとめの胎内を住みかとしたのです。
 そこで、出発点である、イエスの起源に関する問いに戻りたいと思います。この問いはピラトの「お前はどこから来たのか」という問いにまとめられます。わたしたちの考察により、福音書の初めから、イエスのまことの起源は明らかであることが分かりました。イエスは父の独り子として、神から来られたかたです。わたしたちは、驚嘆すべき偉大な神秘を目の当たりにしています。それは、わたしたちが降誕節に祝っている神秘です。神の子は、聖霊によって、おとめマリアからからだを受けました。この告知が、あらためて響き渡り、わたしたちの心に希望と喜びをもたらします。それはいつもわたしたちにこう確信させてくれるからです。たとえわたしたちがしばしば、弱さと、貧しさと、さまざまな困難と世界の悪に対する無力を感じても、神の力がつねに働き、弱さの中でこそ驚くべきわざを行われます。神の恵みはわたしたちの力です(二コリント12・9-10参照)。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP