教皇ベネディクト十六世の342回目の一般謁見演説 降誕節と受肉の神秘

1月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の342回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕節と受肉の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語) […]


1月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の342回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕節と受肉の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 降誕節にあたり、神が天から降り、わたしたちの肉を取ったという偉大な神秘を再び考察したいと思います。神はイエスにおいて受肉し、わたしたちと同じ人間となりました。こうして神は、ご自身のおられる天へと至る道、すなわち、ご自身との完全な交わりに至る道を開いてくださいました。
 降誕節の間、わたしたちの教会の中で、神の「受肉」ということばが何度も響き渡ります。それは、わたしたちが聖なる降誕祭に祝う、神の子が人となったという現実を表します。信条の中で唱えるとおりです。しかし、キリスト教信仰の中心であるこの「受肉」ということばは何を意味するのでしょうか。受肉の語はラテン語のincarnatioに由来します。1世紀末の人であるアンティオケイアの聖イグナティオス(110年頃没)と、何よりも聖エイレナイオス(130/140-200年頃)は、聖ヨハネによる福音書の序文、とくに次の表現を考察する際に、このことばを用いました。「ことばは肉となった」(ヨハネ1・14)。ここで「肉」ということばは、ヘブライ語の用法に従って、全体としての人間、人間全体を意味します。しかしそれは、まさに人間のもろさとはかなさ、貧しさと偶然性から見ていわれるのです。これは次のことを表します。ナザレのイエスにおいて肉となった神がもたらした救いは、具体的な現実の中で、それもあらゆる状況の中で、人間に触れるのです。神が人間のあり方を引き受けたのは、それをご自身から引き離すあらゆるものからいやし、わたしたちが独り子を通して、神を「アッバ、父よ」という名で呼び、まことの神の子となることを可能にするためでした。聖エイレナイオスはいいます。「この(ゆえ)にこそ、みことばが人となった。(すなわち)神の子が人の子となった。(それは人が)みことばと(混ぜ合わされ)、子とする(恵み)を受けて神の子となるためであった」(『異端反駁』:Adversus haereses 3, 19, 1, PG 7,939〔小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ エイレナイオス3 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、99頁〕。『カトリック教会のカテキズム』460参照)。
 わたしたちは「ことばは肉となった」という真理にあまりに慣れ親しんでいるため、この真理が表す出来事の偉大さをほとんど感じません。実際、このことばが典礼の中でしばしば唱えられる降誕節の間、人は時として、わたしたちが祝うキリスト教の偉大な新しさの中心よりも、外的なものや、祝祭のさまざまな「彩り」に気をとられます。しかし、この新しさは、まったく思いもよらない、神だけがなさることのできることで、わたしたちはただ信仰によってのみそこに歩み入ることができるのです。神とともにあり、神であり、世の造り主であり(ヨハネ1・1参照)、これによってすべてのものが造られ(同1・3参照)、その光をもって歴史の中で人類とともに歩んだ(同1・4-5、1・9参照)みことば(ロゴス)が、肉となって、わたしたちのただ中に住まい、わたしたちの一人となられました(同1・14参照)。第二バチカン公会議は述べます。「神の子は・・・・人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。彼はおとめマリアより生まれ、真実にわれわれの一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった」(『現代世界憲章』22)。それゆえ、この神秘への驚きを回復し、この出来事の偉大さに包まれることが重要です。まことの神であり、万物の造り主である神が、人間と同じようにわたしたちとともに歩み、人間の時間の中に歩み入り、ご自身のいのちをわたしたちに伝えてくださったのです(一ヨハネ1・1-4参照)。しかも神はそれを、力をもって世を支配する、御稜威(みいつ)の輝きをもってではなく、幼子のへりくだりをもってなさったのでした。
 第二の点を強調したいと思います。クリスマスに親しい人々とプレゼントを交換するのが習わしとなっています。このプレゼントは、習慣で行われることもありますが、普通は、愛情をもってなされる、愛と尊敬のしるしです。主の降誕の早朝のミサの奉納祈願の中で、教会は次のように祈ります。「父よ、この光の夜にわたしたちの供えものを受け入れてください。このたまものの不思議な交換によって、栄光を帯びたあなたのもとに人間を上げてくださった御子キリストのうちにわたしたちが造り変えられますように」。それゆえ、与えるという概念が典礼の中心であり、降誕祭の本来のたまものをあらためて意識させてくれます。聖なる降誕の夜、神は肉となって、人類のためのたまものとなることを望まれました。そして、わたしたちのためにご自身を与えてくださいました。神は独り子をわたしたちのためのたまものとされました。わたしたちの人間性を受け入れて、ご自身の神性を与えてくださいました。これこそが偉大なたまものです。わたしたちが与える際にも、贈り物が高価かどうかは重要ではありません。自分自身を少しでも与えようとしない人は、いつも少ししか与えることができません。そればかりか、わたしたちは、自分の心の代わりに、お金や物質的なもので自分を与えようとすることがあります。受肉の神秘は、神のなさり方はそうでなかったことを示します。神は何かを与えたのではなく、独り子を通してご自身を与えられました。わたしたちはここにわたしたちの与え方の模範を見いだします。それは、わたしたちの関係、とりわけもっとも大切な関係が、無償の愛に導かれるためです。
 三番目に考えたい点はこれです。受肉、すなわち、神がわたしたちの一人となったという出来事は、神の愛の前例のない現実性をわたしたちに示します。実際、神のわざはことばにとどまりません。そればかりか、わたしたちはこういうことができます。神はことばを語るだけでは満足せずに、わたしたちの歴史の中に身を投じ、人間の人生の労苦と重荷を担うのです。神の子は本当に人となり、特定の時と場所で、すなわち、アウグストゥス帝の時代、キリニウスが総督として支配していたベツレヘムで、おとめマリアから生まれました(ルカ2・1-2参照)。彼は家族の中で成長し、友を得、弟子のグループを形成し、使徒たちに自らの使命を継続するよう命じ、十字架上で地上の生涯の歩みを終えました。神のこのような行動様式は、わたしたちが自らの信仰の現実について問いかけるよう強く促します。わたしたちの信仰は、感覚や感情の次元にとどまってはなりません。むしろそれは、具体的な生活の中に入っていかなければなりません。それは日々の生活に触れ、実践的な面でも生活を方向づけなければなりません。神はことばにとどまりません。むしろ神は、罪を除いて、わたしたちと経験を共有することを通じて、わたしたちがいかに生きるべきかを示します。わたしたちの幾人かが子どもの頃学んだ、聖ピオ十世(在位1903-1914年)の『カテキズム』は、直截的なしかたでこう問いかけます。「神に従って生きるためには、何をしなければなりませんか」。答えはこれです。「神に従って生きるためには、神が啓示した真理を信じ、秘跡と祈りを通じて得られる恵みの助けによって神のおきてを守らなければなりません」。信仰には、思いと心だけでなく、わたしたちの生活全体にかかわる根本的な側面があるのです。
 最後に考察したい点はこれです。聖ヨハネはいいます。みことば(ロゴス)は初めから神とともにあった。万物はみことばによって成った。成ったもので、みことばによらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1・1-3参照)。福音書記者ヨハネははっきりと、創世記の最初の数章に書かれた天地創造の記事を参照しながら、これをキリストの光に照らして読み直します。これが、キリスト信者が聖書を読むための根本的な基準です。旧約と新約はつねに一緒に読まなければなりません。そうすれば、新約から出発して、旧約のさらに深い意味が明らかになります。つねに神のもとにあり、神ご自身であり、それによって、またそのために万物が造られた(コロサイ1・16-17参照)みことばが、人となりました。永遠かつ無限の神が、人間の有限性のうちに、被造物のうちに身を投じました。それは、人間と全被造物をご自分のもとへ連れ戻すためです。『カトリック教会のカテキズム』は述べます。「第一の創造はその意味と頂点をキリストによる新しい創造のうちに見いだします。この新しい創造のすばらしさは、第一の創造をはるかに超えるものです」(同349)。教父たちはイエスをアダムになぞらえました。そして、イエスを「第二のアダム」、あるいは、神の完全な似姿である、決定的なアダムと呼びました。神の子の受肉によって新しい創造が行われました。この新しい創造が、「人間とは何者か」という問いに完全な答えを与えます。イエスにおいてのみ、人間に対する神の計画が完全に示されます。イエスは神に従う決定的な人間だからです。第二バチカン公会議はこのことをあらためて強調してこう述べます。「実際、人間の神秘は肉となられたみことばの神秘においてでなければ本当に明らかにはならない。・・・・新しいアダムであるキリストは・・・・人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(『現代世界憲章』22。『カトリック教会のカテキズム』359参照)。わたしたちは、降誕祭に仰ぎ見る、神の子である幼子のうちに、神のまことのみ顔だけでなく、人間のまことの顔も見いだします。そしてわたしたちは、神の恵みのわざに心を開き、日々、神に従おうと努めることによって初めて、わたしたちに対する、わたしたち一人ひとりに対する神の計画を実現するのです。
 親愛なる友人の皆様。降誕節の間、受肉の神秘の偉大で驚くべき豊かさを黙想しようではありませんか。そして、主の照らしを受け、わたしたちのために人となられた御子にますます似た者として造り変えていただこうではありませんか。

略号
PG Patrologia Graeca

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