教皇ベネディクト十六世の343回目の一般謁見演説 「仲介者であり、全啓示の完結」であるキリスト・イエス

1月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の343回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の10回目とし […]


1月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の343回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の10回目として、「『仲介者であり、全啓示の完結』であるキリスト」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は18日(金)から25日(金)まで行われる「キリスト教一致祈禱週間」について次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「明後日の1月18日(金)から『キリスト教一致祈禱週間』が始まります。今年の『キリスト教一致祈禱週間』のテーマは、預言者ミカ(ミカ6・6-8参照)の箇所にちなむ、『神が何をわたしたちに求めておられるか』です。皆様にお願いします。主のすべての弟子たちの一致という偉大なたまものを熱心に神に祈り求めてください。聖霊の尽きることのない力が、一致の追求に真摯に取り組むようわたしたちを駆り立ててくださいますように。こうしてわたしたち皆がともに、イエスは世の救い主であると告白することができますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 第二バチカン公会議は『神の啓示に関する教義憲章』の中でこう述べます。神の啓示全体のもっとも深い真理は「仲介者であり、同時に全啓示の完結であるキリストにおいて」われわれに輝いていると(同2)。旧約が語るとおり、神は、創造の後、原罪と、自らの造り主に取って代わろうとする人間の高慢にもかかわらず、ご自身との友愛の可能性をあらためて与えます。それはとりわけアブラハムとの契約と小さな民イスラエルの歩みを通して行われました。神は、地上の権力の基準にはよらず、ただ愛のゆえにイスラエルを選びます。この選びは神秘であり続けるとともに、神のなさり方を示します。神は、他の人を排除するためにではなく、ご自身へと導くためのかけ橋として、ある人を招くからです。選びはつねに他の人のための選びです。わたしたちはイスラエルの民の歴史のうちに、神がご自身を知らせ、啓示し、ことばとわざをもって歴史の中に入って来られた長い歩みをたどり直すことができます。神はこのわざのために仲介者を用います。すなわち、モーセと預言者と士師たちです。彼らは、民に神のみ心を伝え、契約に忠実に従うべきことを思い起こさせ、神の約束の完全かつ決定的な実現への期待を生き生きと保たせます。
 わたしたちが聖なる降誕祭に仰ぎ見るのは、まさにこの約束の実現です。神の啓示は頂点と完成に達します。神はナザレのイエスにおいて現実にご自分の民を訪れます。あらゆる期待を超えたしかたで人類を訪れます。神はご自身の独り子を遣わします。神ご自身が人となります。イエスは神について何かを語るのでも、御父についてただ語るのでもありません。むしろイエスが神の啓示です。なぜならイエスは神であり、だから神のみ顔を示してくださるからです。聖ヨハネは自らの福音書の序文でこう述べます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、このかたが神を示されたのである」(ヨハネ1・18)。
 この「神のみ顔の啓示」について考えてみたいと思います。このことに関して、聖ヨハネは自らの福音書の中で重大なことを報告します。たった今朗読されたとおりです。イエスは、受難が近づいたとき、弟子たちを力づけてこう招きます。恐れずに信じなさい。それから、父である神について語る対話を弟子たちと行います(ヨハネ14・2-9参照)。この対話の中でフィリポがイエスに願います。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ14・8)。フィリポはきわめて実際的かつ具体的な人です。そこで彼はわたしたちもいいたいことを述べます。「わたしたちは神を見たいと望みます。わたしたちに御父をお示しください」。フィリポは御父を「見る」ことを願います。御父のみ顔を見ることを願います。イエスの答えは、フィリポだけではなく、わたしたちに対してもなされます。そしてわたしたちをキリストへの信仰の中心に導きます。主はいいます。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)。このことばは、新約の新しさを要約しています。それはベツレヘムの洞窟で示された新しさです。神は見ることができるものとなりました。神はみ顔を示しました。そしてイエス・キリストのうちに目に見えるものとなりました。
 旧約全体を通して「神のみ顔を求める」というテーマがつねに見られます。それは神のみ顔を知りたいという望み、神をありのままの姿で見たいという望みです。そこで、「顔」を意味するヘブライ語の「パーニム」(pānîm)という語は400回以上現れますが、そのうち100回は神について用いられます。100回は神を意味し、神のみ顔を見ることを表すのです。ユダヤ教はあらゆる像を禁止していました。近隣の民が偶像崇拝によって行っていたようなしかたで、神を像で表すことはできないからです。それゆえ、旧約はこの像の禁止によって礼拝と信心から「見る」ことを完全に排除するように見えます。それでは、いかなる神の像も造ってはならないと自覚していたイスラエルの信仰にとって、神のみ顔を求めるとは何を意味するのでしょうか。この問いは重要です。まず、神を、手に取ることのできる像のような、いかなる対象におとしめることも許されません。何ものも神に取って代わることはできません。しかし、他方でこういわれます。神は顔をもっています。すなわち、神はだれかと関係をもつことのできる「あなた」です。神は天上にとどまって、人類を高みから見下ろすのではありません。確かに神は万物を超越します。しかし神はわたしたちに向かい、わたしたちに耳を傾け、わたしたちを見、語りかけ、契約を結び、愛することが可能です。救いの歴史は神と人類の歴史です。それは、少しずつご自身を人間に示し、ご自身とそのみ顔を知らせる神と、人類との関係の歴史です。
 一年の初めの1月1日の典礼の中で、わたしたちは民を祝福する美しい祈りを耳にしました。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主がみ顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平安をたまわるように 」(民数記6・24-26)。神のみ顔の輝きは、いのちの泉です。それは現実を見ることを可能にしてくれます。神のみ顔の光はいのちを導きます。旧約の中には「神のみ顔」というテーマと特別なしかたで結ばれた一人の人物がいます。モーセです。神は、民をエジプトの奴隷状態から解放し、彼らに契約の律法を与え、約束の地に導くために、モーセを選びます。実際、出エジプト記33章は、モーセが神と親しい信頼関係をもっていたと述べています。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)。モーセはこの信頼の力をもって神に願います。「どうか、あなたの栄光をお示しください」。神ははっきりとこう答えます。「わたしはあなたの前にすべてのわたしのよいたまものを通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。・・・・あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。・・・・見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。・・・・あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(18-23節)。それゆえ、一方で、友が行うような顔と顔を合わせた対話が存在するにもかかわらず、他方で、地上の生において、神のみ顔を見ることは不可能です。神は隠れたままだからです。直観は限定的です。教父たちは、この「あなたはわたしの後ろを見ることができる」ということばは次のことをいおうとしていると述べます。あなたはキリストに従うことしかできない。しかし、キリストに従うことによって、あなたは神の神秘の後ろを見る。わたしたちは神の後ろを見ながら、神に従うことができるのだと。
 しかし、受肉によってまったく新しいことが起こります。神のみ顔を求めることは、想像もできなかったかたちで変容します。なぜなら、今やこのみ顔が目に見えるようになるからです。それはイエスのみ顔です。イエスは人となった神の子だからです。イエスにおいて、アブラハムの選びから始まった神の啓示の歩みは完成します。イエスはこの啓示の完成です。なぜなら、イエスは神の子だからです。「仲介者であり、同時に全啓示の完結である」(『神の啓示に関する教義憲章』2)からです。イエスにおいて、啓示の内容と啓示を行う者は一致します。イエスは神のみ顔をわたしたちに示し、神の名を知らせます。最後の晩餐の祭司的祈りの中で、イエスは御父に向かっていいます。「わたしはみ名を現しました。・・・・わたしはみ名を彼らに知らせました」(ヨハネ17・6、26参照)。「神の名」という表現は、人々の間におられるかたとしての神を意味します。神はモーセに対して、燃える柴の中で、ご自分の名を現しました。ご自分を呼びかけることのできる者とし、ご自分が人々の間に「存在する」具体的なしるしを与えました。これらすべてのことがイエスにおいて実現し、完成します。イエスは新たなしかたで歴史における神の現存を開始します。なぜなら、フィリポにいわれたとおり、イエスを見る者は、父を見るからです(ヨハネ14・9参照)。聖ベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1091-1153年)がいうように、キリスト教は「神のことばの宗教」です。しかしそれは「書かれた、もの言わぬことばではなく、受肉し、生きたみことばの宗教」(『「天使ガブリエルは・・・・遣わされた」(ルカ1章26 -27節)についての説教』:Homilia super missus est IV, 11, PL 183, 86B)です。教父と中世の伝統の中で、このことを現す特別な定式があります。イエスは「短くされたみことば」(Verbum abbreviatum)(イザヤ10・23を引用するローマ6・28参照)、御父によって小さくされ、短くされ、本質的なものとされたみことばです。みことばは御父についてすべてを語ったからです。イエスのうちにみことば全体が存在します。
 イエスにおいて神と人間の仲介も完成しました。旧約には、この務めを果たす一群の人々がいます。特に、解放者であり、導き手であり、契約の「仲介者」であるモーセがそうです。新約もモーセをそう呼びます(ガラテヤ3・19、使徒言行録7・35、ヨハネ1・17参照)。まことの神であり、まことの人であるイエスは、単なる神と人の仲介者の一人ではなく、新しい永遠の契約の「仲介者」そのものです(ヘブライ8・6、9・15、12・24参照)。パウロがいうとおり、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(一テモテ2・5。ガラテヤ3・19-20参照)。わたしたちはイエスにおいて御父を見、また御父と出会います。わたしたちはイエスにおいて神を「アッバ、父よ」と呼びます。わたしたちはイエスによって救いを与えられるのです。
 本当に神を知りたい、すなわち、神のみ顔を見たいという望みは、無神論者も含めて、すべての人のうちにあります。わたしたちはおそらく無自覚のうちに、神がいかなるかたであり、いかなる者であり、わたしたちにとっていかなるかたかを知りたいと望んでいます。しかし、この望みはイエスに従うことによってかなえられます。こうしてわたしたちは神の後ろを見、ついには神を友として見いだします。キリストの顔のうちに神のみ顔を見いだします。大切なのは、困っているときや、日々の仕事の中で暇があるときだけでなく、生活そのものによってキリストに従うことです。わたしたちの生活全体は、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを愛することをめざさなければなりません。また、生活の中で、隣人への愛が中心的な位置を占めなければなりません。わたしたちは、十字架につけられたかたの光に照らされたこの隣人愛によって、貧しい人、無力な人、苦しむ人の中にイエスのみ顔を見いだします。このことが可能になるために、みことばに耳を傾け、心のうちでみことばに語りかけ、歩み入り、いうまでもなく聖体の神秘のうちにみことばと本当に出会うことによって、イエスのまことのみ顔をよく知るようにならなければなりません。聖ルカによる福音書には、エマオの二人の弟子についての重要な箇所があります。この二人の弟子は、パンが裂かれたときにイエスだと分かりましたが、そのことを準備したのはイエスとの歩みであり、自分たちと一緒に泊ってほしいという願いであり、彼らの心を燃やした対話でした。こうしてついに彼らはイエスを見いだしました。わたしたちにとっても、聖体は、神のみ顔を見ることを学び、神と親しい関係をもつための偉大な学びやです。わたしたちは同時に、歴史の終わりの時に目を向けることを学びます。そのとき神はみ顔の光でわたしたちを満足させてくださいます。わたしたちは地上で、神の国の実現を喜びのうちに待ち望みながら、この完成に向けて歩むのです。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL Patrologia Latina

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