教皇ベネディクト十六世の344回目の一般謁見演説 わたしは信じます

1月23日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の344回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の11回目とし […]


1月23日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の344回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の11回目として、「わたしは信じます」について解説しました。教皇は今回から「信条」についての解説を開始しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「インドネシアから届くニュースを懸念をもって見守っています。インドネシアでは大洪水が首都ジャカルタを襲い、犠牲者と数千人の避難民と甚大な損害をもたらしています。わたしはこの自然災害の被害に遭われた人々に寄り添い、祈ることを約束するとともに、必要な支援が欠けることがないよう援助の手が差し伸べられるよう促します」。
インドネシアでは1月15日(火)から続いた豪雨により洪水被害が拡大し、17日(木)には首都ジャカルタ中心部でも道路が冠水しました。46,000人が住居を失い、少なくとも20名が死亡しましたが、23日には避難民が帰宅を開始しています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「信仰年」にあたり、今日からご一緒に「信条(クレド)」についての考察を始めたいと思います。「信条」とは、わたしたち信仰者の生活に同伴する、荘厳な信仰宣言のことです。「信条」は次のことばから始まります。「わたしは神を信じます」。この根本的な言明は、その簡潔さのために単純に見えます。しかしそれは、主とその神秘との限りない関係の世界を開くものです。神を信じるとは、神に従い、神のことばを受け入れ、神の啓示に喜びをもって信従することを意味します。『カトリック教会のカテキズム』が教えるとおり、「信仰は人格的な行為、つまり、ご自分を啓示する神の呼びかけに対する人間の自由な応答です」(同166)。それゆえ、神を信じているといえることは、たまものであるとともに(神はご自分を啓示し、わたしたちと出会いに来てくださるからです)、務めです。それは、神の恵みであるとともに、神との対話の体験のうちで果たされる、人間の責務です。神は愛のゆえに「あたかも友に対するように、人間に話しかけ」(『神の啓示に関する教義憲章』2)ます。わたしたちが信仰のうちに、信仰をもって、神との交わりをもてるように、わたしたちに語りかけてくださるのです。
 わたしたちは神のことばをどこで聞くことができるでしょうか。基本的には、聖書においてです。聖書の中で、神のことばはわたしたちが聞くことができるものとなり、わたしたちの神の「友」としての生活を深めます。聖書全体は人類に対する神の啓示を語ります。聖書全体は信仰について語り、わたしたちに信仰を教えます。そのために聖書は、神があがないの計画を実現し、わたしたち人間に近づく歴史を物語ります。この歴史は、神を信じ、神に身をゆだねた多くの輝かしい人々を経て、主イエスにおける啓示の完成に至ります。
 このことを述べたもっともすばらしい記事は、たった今朗読された、ヘブライ人への手紙の11章です。この箇所は信仰について語り、信仰を生き、すべての信じる者の模範となった偉大な人物に光を当てます。第1節はこう述べます。「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11・1)。それゆえ、信仰の目は目に見えないものを見ることができ、信じる者の心はあらゆる希望を超えたことがらを希望することができます。パウロがローマの信徒への手紙の中で「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマ4・18)と述べる、アブラハムと同じようにです。
 このアブラハムに注目したいと思います。アブラハムこそ、神への信仰について語るための基準となる、最初の偉大な人物だからです。偉大な太祖アブラハムは、信じるすべての人の父であり、模範です(ローマ4・11-12参照)。ヘブライ人への手紙はアブラハムのことをこう述べます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものをともに受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台をもつ都を待望していたからです」(ヘブライ11・8-10)。
 ヘブライ人への手紙の著者はここで、聖書の最初の書である創世記で語られた、アブラハムの召命に言及します。神は太祖アブラハムに何を求めるのでしょうか。自分の土地を捨てて出発し、神が示すことになる国をめざして歩むことです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)。わたしたちなら、このような招きにどのようにこたえるでしょうか。実際、それは、神がどこへ導くのかも知らずに、暗闇の中で出発することです。それは徹底的な従順と信頼を要求する歩みです。この歩みを受け入れることができるのは、信仰のみです。しかし、アブラハムがそこから出発しなければならない、未知なるものの暗闇は、約束の光によって照らされます。神は命令に励ましのことばを付け加えます。この励ましのことばがアブラハムの前にいのちに満ちた未来を開きます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・・地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12・2、3)。
 聖書の中で、祝福は第一に、いのちのたまものと結ばれています。いのちのたまものは、神に由来し、何よりもまず多産によって示されます。多産とは、いのちが増え、世代から世代へと受け継がれることです。祝福はまた、土地所有の体験とも結ばれています。人は安定した土地で、自由かつ安全に暮らし、成長します。そして神を畏れ、契約に忠実な人々の社会、すなわち「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19・6参照)を築きます。
 だからアブラハムは、神の計画の中で、「多くの国民の父」(創世記17・5。ローマ4・17-18参照)となり、新しい土地に入ってそこに住むよう定められました。にもかかわらず、彼の妻サラは不妊で、子をもうけることができません。また、神が彼をそこへと導く国は、故国から遠く離れ、すでに他の民がそこに住みついており、本当に自分のものになるとはとても思えません。聖書記者は、きわめて婉曲な言い方ながら、このことを強調していいます。アブラハムが神の約束の地に着いたとき、「当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(創世記12・6)。神がアブラハムに与える土地はアブラハムのものとなりません。アブラハムは旅人となり、ずっと旅人であり続けます。そして旅人の状態を余すところなく甘受します。彼には何かを所有する望みはなく、つねに貧しさを味わい、すべてをたまものとみなします。これは、主に従うことを受け入れる人の霊的な条件でもあります。彼は、目に見えないながらも力強い祝福のしるしのもとに、主の招きを受け入れて歩み出すことを決意するからです。「信じる者の父」であるアブラハムも、信仰によってこの招きを受け入れます。聖パウロはローマの信徒への手紙でこう述べます。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』といわれていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、すでに自分のからだが衰えており、そして妻サラのからだも子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、おもちのかただと、確信していたのです」(ローマ4・18-21)。
 アブラハムは信仰によって逆説的な道を歩むよう導かれます。彼は祝福を受けますが、それは目に見える祝福のしるしによってではありません。彼は偉大な国民の父となるという約束を受けますが、その生涯を特徴づけるのは妻サラの不妊です。彼は新しい故国へと導かれましたが、旅人として暮らさなければなりません。彼がもつことのできた唯一の土地は、サラを葬るためのわずかな土地だけでした(創世記23・1-20参照)。アブラハムが祝福されたのは、彼が目に見えるものを超えて歩み、神の道が不可思議に思われても神がともにいることを信頼して、信仰によって神の祝福を見分けることができたからです。
 このことはわたしたちにとってどのような意味をもつでしょうか。わたしたちは、「わたしは神を信じます」と宣言するとき、アブラハムと同じように、こういっていることになります。「主よ。わたしはあなたを信頼します。わたしはあなたに自分をゆだねます」。しかしそれは、困難のときだけ主に駆け寄るのでも、一日あるいは一週間のわずかな時間だけを主にささげるのでもありません。「わたしは神を信じます」ということは、神を自分の人生の基盤とすることです。日々、神のことばに人生を導いていただくことです。それも具体的な決断を行う際に、自分の何かを失いはしないかと恐れずに。洗礼式の際、三回、次の問いかけが行われます。「あなたは神を信じますか」。「イエス・キリストを信じますか」。「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会」、そして他の信仰の真理を「信じますか」。するとそれぞれの問いかけに対して、三回、「信じます」とこたえます。それは、信仰のたまものによってこの転換を受け入れなければならないのは、わたし個人の生活だからです。わたしの生活が変化し、回心しなければならないからです。洗礼式にあずかるたびに、自分に問いかけなければなりません。わたしたちは日々、信仰という偉大なたまものをどのように生きているだろうかと。
 信仰者アブラハムは、わたしたちに信仰を教えます。そして、地上の旅人である彼は、まことの祖国をわたしたちに教えます。信仰はわたしたちを地上を旅する者とします。わたしたちは世と歴史に属しながら、天の祖国をめざして歩みます。それゆえわたしたちは、神を信じることによって、ある価値観を担う者となります。これらの価値観は、しばしば流行や一時的な意見と合致せず、また、普通の考え方ではない基準を選び、それに従って行動することを求めます。キリスト者は、自分の信仰を生きるために「時流に逆らう」ことを恐れてはなりません。「人に合わせること」への誘惑に抵抗しなければなりません。現代の多くの社会において、神は「大いなる死者」となり、多くの偶像が神に取って代わっています。さまざまな偶像の上位を占めるのは、所有と、自律した「自我」です。科学技術のめざましい進歩も、人間に全能と自己充足の幻想を抱かせました。さらに利己主義の増大は、人間関係と社会的行動のうちに大きな格差を生み出しました。
 にもかかわらず、神への渇き(詩編63・2参照)は消えていません。福音のメッセージは、多くの信仰者のことばと行いを通して響き渡り続けています。信じる者の父であるアブラハムは、彼の後に従って歩み出す多くの子らの父であり続けます。彼らは神の召命に忠実に従い、主の恵みと現存に信頼して、すべての人の祝福となるために神の祝福を受け入れます。わたしたちは皆、祝福された信仰の世界へと招かれています。それは、恐れずに主イエス・キリストに従って歩むためです。この歩みには困難な時もあり、試練や死さえも伴います。しかしそれはいのちと、現実の徹底的な変容へと開かれています。信仰の目だけがそれを見、完全に味わうことができるのです。
 それゆえわたしたちは、「わたしは神を信じます」ということにより、アブラハムと同じように、出発し、自分自身から脱け出し続けるよう促されます。それは、自分が生きる日々の現実の中で、信仰がもたらす確信を伝えるためです。それは、神が今日も歴史の中に現存されるという確信です。この神の現存が、いのちと救いをもたらします。そして、神とともに、過ぎ去ることのない完全ないのちを生きる未来へとわたしたちの心を開くのです。

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