教皇ベネディクト十六世の2013年1月27日の「お告げの祈り」のことば 救いの歴史の「今日」

教皇ベネディクト十六世は、年間第三主日の1月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第三主日の1月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今日はナチスによるホロコーストの犠牲者を記念する、『国際ホロコースト記念日』です。何よりもユダヤ人に深い苦しみを与えたこの甚大な悲劇の記念は、すべての人にとって永遠の警告とならなければなりません。それは、過去の恐怖が繰り返されることなく、あらゆる憎悪と人種差別が撤廃され、人間の人格の尊重と尊厳が推進されるためです。
 今日は『世界ハンセン病の日』でもあります。わたしは、ハンセン病にかかったすべての人に寄り添うとともに、研究者、医療従事者、ボランティア、とくにカトリック団体とラウル・フォルロー友の会の会員の皆様を励まします。わたしはすべての人のために、ハンセン病を患う人に生涯をささげた聖ダミアン・ド・ ヴーステル(1840-1889年)と聖マリアンヌ・コープ(1838-1918年)の霊的な支えを祈り願います。
 今日の主日は、『世界聖地の平和のために祈る日』でもあります。世界の多くの地でこの日を実施するかたがた、とくにここにおられる皆様に感謝します」。
「国際ホロコースト記念日」は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が解放されたことを記念して、2005年に国連総会によって定められました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の典礼は、ここに集まったわたしたちに、ルカによる福音書の2つの異なる箇所を示します。第一の箇所(1・1-4)は「テオフィロ」という人に宛てた序文です。このギリシア語の名前は「神の友」を意味するため、わたしたちはこの人のうちに、神に心を開き、福音を知ろうと望むすべての信者を見いだすことができます。これに対して、第二の箇所(4・14-21)はイエスを示します。イエスは「〝霊〟の力に満ちて」安息日にナザレの会堂に入ります。主は律法を忠実に守って、一週間の典礼のリズムをおろそかにせず、同郷人の集会に参加して祈り、聖書に耳を傾けます。典礼は、トーラー(律法)または預言者の書を朗読し、その後、注解を行うよう定められていました。その日、イエスが朗読するために立ち上がると、次のことばから始まる預言者イザヤの箇所を見いだします。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(イザヤ61・1-2)。オリゲネス(185頃-253/254年)は解説していいます。「イエスが巻物を開いて、ご自分について預言した朗読箇所を見いだしたのは偶然ではない。むしろそれは神の摂理のわざである」(『ルカ福音書講話』:In Lucam homiliae 32, 3)。実際、イエスは、朗読を終えると、人々が固唾をのんで見守る中、こういわれました。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)。アレクサンドレイアの聖キュリロス(370/380-444年)はいいます。キリストの第一の到来と第二の到来の間に置かれた「今日」は、信じる者が耳を傾け、悔い改める力とかかわります(『詩編注解』:Expositio in Psalmos, PG 69, 1241参照)。しかし、より根源的な意味で、イエスご自身が救いの歴史の「今日」です。なぜなら、イエスは完全なあがないを実現するからです。聖ルカがしばしば用いる(19・9、23・43参照)「今日」ということばは、同じ福音書記者が好んだ「救い主(ソーテール)」という称号へとわたしたちを導きます。すでに幼年期物語の中で、この称号は天使が羊飼いたちに語ったことばに現れます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・11)。
 親愛なる友人の皆様。この箇所は「今日」、わたしたちにも問いかけます。何よりもまずわたしたちは、主日をどう過ごしているかについて考えさせられます。主日は休息と家庭のための日ですが、それ以上に、主にささげられた日です。そのためにわたしたちは感謝の祭儀にあずかり、その中でキリストのからだと血と、いのちのことばによって養われます。第二に、現代という分散した気晴らしの時代の中で、今日の福音は、わたしたちの聞く力について自問させます。わたしたちは神について、神とともに語る前に、神に耳を傾けなければなりません。教会の典礼は、わたしたちに語りかける主に聞くことを学ぶ「学びや」です。最後に、この福音は、あらゆる瞬間が回心にふさわしい「今日」となりうることを語ります。毎日(カテーメラン)が救いの日となることが可能です。なぜなら、救いは、教会とすべてのキリストの弟子にとって、継続する歴史です。これが「その日を摘め(carpe diem)」のキリスト教的な意味です。あなたに救いを与えるために神があなたを招く、その日を摘みなさい。
 わたしたちが毎日の生活の中で、わたしたちと全人類の救い主である神の現存を認め、受け入れることができますように。そのために、おとめマリアがつねに模範と導きとなってくださいますように。

略号
PG Patrologia Graeca

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