教皇ベネディクト十六世の345回目の一般謁見演説 父である神

1月30日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の345回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の12回目とし […]


1月30日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の345回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の12回目として、「父である神」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日の講話で、信条の冒頭の「わたしは神を信じます」ということばを考察しました。けれども信仰宣言はこの言明をさらに詳しく説明します。神は全能の父、天と地の造り主です。それゆえここで、神は父であるという、信条が示す神の第一の根本的な定義についてご一緒に考えたいと思います。
 現代、父性について語るのは必ずしも容易なことではありません。とくに西洋世界では、家庭の崩壊、ますます多忙となる仕事、家計を維持するための気遣いと、しばしば見られる、そのための労苦、日常生活全体に浸透して気を散らすマスメディアが、父親と家族の穏やかで建設的な関係を妨げる多くの要素の一部となっています。時にはコミュニケーションが困難となり、信頼が弱まり、父親との関係が問題化することもあります。こうして基準となる適切なモデルが失われるため、神を父として想像することも困難になるのです。父親があまりに権威主義的で頑固だったり、無関心で愛情を欠いていたり、そればかりか不在だった人は、穏やかな気持ちで神を父として考え、信頼をこめて神に身をゆだねるのはむずかしくなります。
 しかし、聖書の啓示がこうした困難を乗り越える助けとなってくれます。聖書が語る神は、「父」であるとは真にいかなることを意味するかを示してくれます。また何よりも福音は、父である神のみ顔をわたしたちに示します。このかたは、人類の救いのためにご自分の子をお与になるほど愛するかただからです。それゆえ、父親像という基準は、神の愛について多少なりとも理解するための助けとなります。たとえ神の愛が、人間の愛に比べて限りなく偉大であり、忠実で、まったきものであり続けるとしても。イエスは父のみ顔を弟子たちに示すためにいいます。「あなたがたのだれが、パンをほしがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚をほしがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもにはよい物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者によい物をくださるにちがいない」(マタイ7・9-11。ルカ11・11-13参照)。神は父です。それは、神が天地創造の前にわたしたちを祝福し、選び(エフェソ1・3-6参照)、わたしたちをイエスにおいて本当に子としてくださるからです(一ヨハネ3・1参照)。また、父である神は、愛をもってわたしたちの人生に同伴し、そのためにご自分のみことばと教えと恵みと霊を与えてくださいます。
 イエスが示したとおり、神は父です。この父は、種も蒔かず、刈り入れもしないのに、空の鳥を養ってくださいます。また、野の花を、ソロモン王よりも美しい服をもって、色とりどりに装ってくださいます(マタイ6・26-32、ルカ12・24-28参照)。イエスは続けていいます。あなたがたは花や空の鳥よりもどれほど価値があることか。いつくしみ深い父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)かたです。そうであれば、わたしたちは、道に迷ったときも、つねに恐れることなく完全な信頼をもって、父のゆるしに身をゆだねることができます。神はいつくしみ深い父です。この父は、失われた後、悔い改めた息子を受け入れ、抱きます(ルカ15・11以下参照)。求める者には無償で与えます(マタイ18・19、マルコ11・24、ヨハネ16・23参照)。天からのパンと、永遠のいのちに至る生きた水を与えます(ヨハネ6・32、51、58参照)。
 だから詩編27の祈る人は、敵に囲まれ、よこしまな者とあざける者に悩まされながら、主の助けを求め、主に祈り求めて、信仰に満たされたあかしを行うことができます。彼はいいます。「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」(10節)。神は、自分の子らを決して見捨てない父です。愛に満ちた父は、人間をはるかに超えた忠実さをもって、支え、助け、受け入れ、ゆるし、救います。それは永遠の世界を開くためです。「いつくしみはとこしえに」。詩編136は、救いの歴史をたどり直しながら、節ごとに連願の形でこう繰り返していいます。父である神の愛は決して失われません。わたしたちを見捨てません。それは御子をいけにえとしてささげるほど、この上なく与える愛です。信仰はこの確信をわたしたちに与えてくれます。確信は、人生を築くための堅固な岩となります。わたしたちは、どのような困難と危険の時、危機の暗闇と苦しみを味わう時にも、それに立ち向かうことができます。神はわたしたちを独りきりにはせず、いつもそばにいてくださり、わたしたちを救い、永遠のいのちを与えてくださるという信頼に支えられているからです。
 天におられる父のいつくしみ深いみ顔は、主イエスのうちに完全に示されます。わたしたちはイエスを知ることによって、父をも知ることができます(ヨハネ8・19、14・7参照)。イエスを見ることによって、父を見ることができます。なぜなら、イエスは父のうちにおり、父はイエスのうちにおられるからです(ヨハネ14・9、11参照)。コロサイの信徒への手紙の賛歌が述べるとおり、イエスは「見えない神の姿」です。彼は「すべてのものが造られる前に生まれたかた・・・・死者の中から最初に生まれたかたです」。「わたしたちは、この御子によって、あがない、すなわち罪のゆるしを得ているのです」。このかたは「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ」万物を和解させられました(コロサイ1・13-20参照)。
 父である神への信仰は、子を信じるようにわたしたちに求めます。霊の働きのもとに、救いをもたらす十字架のうちに、神の愛の決定的な啓示を認めることを求めます。神は、御子を与えてくださるがゆえに、わたしたちの父です。神は、わたしたちの罪をゆるし、復活のいのちの喜びへと導いてくださるがゆえに、わたしたちの父です。神は、わたしたちを子とし、本当に神を「アッバ、父よ」(ローマ8・15参照)と呼ぶことを可能にする霊を与えてくださるがゆえに、わたしたちの父です。だからイエスは、わたしたちに祈りを教える際に、「わたしたちの父よ」(マタイ6・9-13。ルカ11・2-4参照)というよう招くのです。
 それゆえ、神の父としての愛は、限りない愛であり、無力な子であるわたしたちが何を求めるときにも身をかがめてくださる、いつくしみです。神のあわれみに関する偉大な賛歌である詩編103は叫んでいいます。「父がその子をあわれむように、主は主を畏れる人をあわれんでくださる。主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことをみ心に留めておられる」(13-14節)。わたしたちの小ささ、弱い人間本性、もろさこそが、主のあわれみへの呼びかけとなります。わたしたちを助け、ゆるし、救う、父の偉大さといつくしみを示してくださいと。
 すると神はわたしたちの呼びかけにこたえて、御子を遣わします。この御子は、わたしたちのために死んで、復活します。わたしたちのもろさの中に歩み入り、人間だけでは決して行いえないわざを行います。罪のない小羊として、世の罪をご自身で担い、神との交わりへの道をわたしたちに再び開き、わたしたちをまことの神の子としてくださいます。この過越の神秘のうちに、父の決定的なみ顔がその完全な輝きのうちに示されます。そして、栄えある十字架の上で、「全能の父」である神の偉大さが完全に現されるのです。
 しかしわたしたちはこう問いかけるかもしれません。キリストの十字架を仰ぎ見ることによって全能の神について考えることがどうして可能なのだろうか。悪の力は神の子を殺すに至ったのではないか。わたしたちが、自分の思考様式と望みに従う形で神の全能を望むのは確かです。わたしたちの望む「全能の」神は、あらゆる問題を解決します。手を差し伸べて、わたしたちを困難から遠ざけます。敵の力に打ち勝ちます。出来事の流れを変え、苦しみをなくします。それゆえ、現代のさまざまな神学者はいいます。神が全能であるはずはない。もし全能なら、これほど多くの苦しみや世の悪はなかったはずだからだ。実際、悪と苦しみを前にして、多くの人にとって、またわたしたちにとっても、父である神を信じ、神が全能だと信じることは、困難となっています。一部の人々は偶像へと逃れ、いわば「魔術的な」全能と幻想でしかない約束に答えを見いだす誘惑に陥ります。
 しかし、全能の神への信仰は、わたしたちをこう促します。これとはまったく別の道を歩みなさい。神の思いはわたしたちの思いと異なること、神の道はわたしたちの道と異なり(イザヤ55・8参照)、神の全能もわたしたちの考える全能とは異なることを見いだすことを学びなさい。神の全能は、自動的ないし恣意的な力として表されるのではありません。むしろそれは、愛に満ちた父としての自由によって特徴づけられます。実際、神は、自由な被造物を創造し、自由を与えることによって、自らの力の一部を放棄しました。わたしたちの自由に力を与えたのです。このようにして神は、ご自分の招きに対する、愛に基づく自由な応答を愛し、尊重します。父である神は、わたしたちがご自分の子となり、わたしたちが御子のうちに、子として、ご自分との交わりと完全な親密さのうちに生きることを望みます。神の全能は、暴力によって表されるのでも、わたしたちが望むように、敵のあらゆる力を滅ぼすことによって示されるのでもありません。むしろそれは、愛とあわれみとゆるしのうちに示されます。わたしたちの自由を受け入れ、心の回心をうむことなく呼びかけることのうちに、無力としか思われない態度のうちに示されます――祈り、殺されたイエス・キリストのことを考えるなら、神は無力であるように思われます。忍耐と柔和と愛から成る、無力なように思われる態度は、これこそがまことの力のあり方であることを示すのです。これこそが神の力なのです。そしてこの力は勝利を収めます。知恵の書の知者は神に向かっていいます。「全能のゆえに、あなたはすべての人をあわれみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛する。・・・・いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知恵11・23-24a、26)。
 本当に力のある者だけが、悪を耐え忍び、あわれみを示すことができます。本当に力のある者だけが、愛の力を完全に用いることができます。万物は神によって造られたがゆえに、万物は神に属します。だからこの神は、万物を愛し、わたしたち人間の回心を忍耐強く待ち望むことによってご自分の力を現します。神は人間を子とすることを望むからです。神はわたしたちの回心を待ち望んでいます。神の全能の愛は、限界を知りません。だから「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ローマ8・32)のです。愛の全能は、この世の権力の全能ではありません。むしろそれは、完全に与えることの全能です。そして、神の子イエスは、わたしたち罪人のためにいのちを与えることによって、御父のまことの全能を世に示します。悪に対しては悪をもってではなく善をもって、侮辱にはゆるしをもって、人を殺す憎しみには人を生かす愛をもってこたえること――これこそが、まことの、真正で、完全な神の力です。そのとき悪は本当に打ち滅ぼされます。なぜなら、それは神の愛によって洗われるからです。そのとき死は決定的に打ち負かされます。なぜなら、それはいのちのたまものへと造り変えられるからです。父である神は御子を復活させます。最後の敵である(一コリント15・26参照)死は、勝利にのみ込まれ、毒を抜かれます(一コリント15・54-55参照)。こうして罪から解放されたわたしたちは、神の子としての自分の真の姿に近づくことができるのです。
 それゆえ、「わたしは全能の父である神を信じます」ということによって、わたしたちは神の愛の力への信仰を表明するのです。神は、死んで復活した御子のうちに、憎しみと悪と罪を打ち負かし、わたしたちを永遠のいのちへと開きます。それは、永遠に「父の家」にいたいと望む子らのいのちです。「わたしは全能の父である神を」すなわち父の力と、父としてのあり方を「信じます」ということは、つねに、信じ、回心し、自分の思い、すべての感情、生き方全体を変える行為にほかなりません。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主に願おうではありませんか。わたしたちの信仰を支えてください。真の意味で信仰を見いだせるよう助けてください。十字架につけられて復活したキリストをのべ伝え、神と隣人への愛によってキリストをあかしする力をお与えください。わたしたちが「子」とされるたまものを受け入れる恵みを神が与えてくださいますように。そして、父の愛と、全能のあわれみに信頼をもって身をゆだねつつ、「信条」の真理を完全に生きることができますように。父の全能こそが、救いをもたらすまことの全能だからです。

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