教皇ベネディクト十六世の346回目の一般謁見演説 天地の創造主である神

2月6日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の346回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の13回目として […]


2月6日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の346回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2012年10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の13回目として、「天地の創造主である神」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日に考察したとおり、「信条」は、神を「全能の父」と説明した後、さらに続けて、神は「天地の創造主」であると述べます。こうして「信条」は聖書の冒頭が述べることをあらためて取り上げるのです。実際、聖書の最初の節にはこう書かれています。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1・1)。神は万物の起源であり、その愛する父としての全能は被造物の美しさの中にあふれ出るのです。
 神はご自分がいのちの起源であることによって、被造物においてご自分が父であることを示します。そして、創造によってご自分の全能を示します。このことに関して聖書が用いるイメージはきわめて意義深いものです(イザヤ40・12、45・18、48・13、詩編104・2、5、135・7、箴言8・27-29、ヨブ38~39章参照)。いつくしみ深い全能の父である神は、愛と尽きることのない忠実をもって、ご自身の造ったものを心にかけます。詩編作者が繰り返し述べるとおりです(詩編57・11、108・5、36・6参照)。こうして被造物は、主の全能といつくしみを知り、認めるための場となるとともに、わたしたち信じる者の信仰への呼びかけとなります。神を創造主と宣言しなさいと。ヘブライ人への手紙の著者はいいます。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神のことばによって創造され、したがって見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11・3)。それゆえ信仰は、目に見える世における痕跡を見分けながら、目に見えないものを認めるすべを知ることを意味します。信じる者は自然という偉大な書物を読むことができ、その言語を理解します(詩編19・2-5参照)。しかし、人間が、創造主であり父である神のあり方に関する完全な知識に到達できるには、信仰を促す啓示のことばが必要です。そして、人間の知性は、信仰の光のもとに、聖書のうちに世界を理解するための解釈の鍵を見いだすことができます。とくに創世記の1章は特別な位置を占めます。7日間に行われた、神の創造のわざを荘厳に示しているからです。神は6日間で創造を成し遂げ、7日目の安息日にすべてのわざをやめて、休みます。安息日はすべての人のための自由の日、神との交わりの日です。こうして創世記はこのようなイメージを通してわたしたちに次のことを示します。すなわち、神の第一の思いは、ご自分の愛にこたえる愛を見いだすことです。また第二の思いは、この愛、すなわち、自由をもって愛にこたえる被造物を置くための物質的世界を造り出すことです。それゆえ、この構造により、テキストはある種の意味深い繰り返しによって特徴づけられます。たとえば、次の句が6回繰り返されます。「神はこれを見て、よしとされた」(4、10、12、18、21、25節)。そして、人間を創造した後、七度目にこうしめくくります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(31節)。神が造ったすべてのものは、美しく、よく、知恵と愛に満ちています。神の創造のわざは秩序をもたらし、調和を実現し、美を与えます。さらに創世記の物語は、主がことばによって創造したことを示します。テキストの中で、10回、「神はいわれた」(3、6、9、11、14、20、24、26、28、29節)という言い回しが用いられます。ことば、すなわち神の「ロゴス」は、世の現実の起源です。そして「神はいわれた」ということにより、神のことばの実現力が強調されます。だから詩編作者は歌うのです。「みことばによって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。・・・・主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ」(詩編33・6、9)。万物が神のことばに従うがゆえに、いのちは湧き上がり、世は存在するのです。
 しかし、現代のわたしたちはこう問いかけます。科学技術の時代に、創造主について語ることはなお意味をもつでしょうか。創世記の物語をどのように理解すべきでしょうか。聖書は自然科学の教科書として書かれたものではありません。むしろ聖書は、事物の真正で深い真理を理解させることをめざします。創世記の物語がわたしたちに示す根本的な真理はこれです。世は、対立する諸力の集積ではありません。世の起源と安定の源は、「ロゴス」、すなわち神の永遠の「理性」であり、この「ロゴス」は宇宙を支え続けます。世に関する計画は、この「理性」、すなわち造り主である「霊」から生まれます。万物の基盤がこのような「ロゴス」であることへの信仰は、人生のあらゆる側面を照らし、生涯のさまざまな出来事に信頼と希望をもって立ち向かう勇気を与えます。それゆえ、聖書はこう語ります。存在と世界の起源、わたしたちの起源は、非合理でも必然でもなく、むしろ合理性と愛と自由です。そこから、非合理と必然を優先するか、合理性と自由と愛を優先するかという二者択一が生まれます。わたしたちは後者の立場を信じます。
 ところで、わたしは全被造物の頂点についても一言申し上げたいと思います。すなわち、男と女、人間、「創造主なる神を知り愛することができる」(『現代世界憲章』12)唯一の存在です。詩編作者は天を仰いで自らに問いかけます。「あなたの天を、あなたの指のわざをわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8・4-5)。神が愛をもって造った人間は、広大な宇宙の前できわめて小さな存在です。時として、大空の巨大な広がりをうっとりと眺めながら、わたしたちも自分の限界を感じることがあります。人間のうちには逆説が存在します。わたしたちの小ささとはかなさが、神の永遠の愛がわたしたちのために望んだ偉大さと共存しているのです。
 創世記の創造物語は、この不可思議な分野にもわたしたちを導きます。そして、人間に関する神の計画を知る助けとなってくれます。創造物語はまず、神が人間を地の塵で形づくったと述べます(創世記2・7参照)。これは次のことを意味します。わたしたちは神でもなければ、自分だけで自分を造るのでもありません。わたしたちは土です。しかしそれは次のことも意味します。わたしたちは、よい創造主のわざによって、よい土地から造られました。これにもう一つの根本的な現実が付け加えられます。文化と歴史による違い、あらゆる社会的な違いを超えて、人は皆、塵です。わたしたちは、神の一つの土によって形づくられた、一つの人類です。さらに第二の要素があります。人間には起源があります。神は、土から形づくったからだに、いのちの息を吹き入れるからです(創世記2・7参照)。人間は神の像と似姿に従って造られました(創世記1・26-27参照)。ですから、わたしたちは皆、自らのうちに神のいのちの息をもっています。聖書が語るとおり、人間のいのちは皆、神の特別な保護のもとにあります。これが、功利主義的な、力による基準に従って人格を評価するあらゆる誘惑に対抗して、人間の尊厳の不可侵性を裏づけるもっとも深い理由です。さらに、神の像と似姿であることは、人間が自分自身のうちに閉ざされたものでなく、神を本質的な基準としていることを示します。
 わたしたちは創世記の最初の数章のうちに、二つの意味深いイメージを見いだします。善悪の知識の木がある園と、蛇です(2・15-17、3・1-5参照)。園はわたしたちに次のことを語ります。神がその中に人間を置いた現実は、野生の森ではなく、神が守り、育て、支える場所でした。だから人間は、世界を、奪い、搾取すべき所有物ではなく、創造主からのたまものだと考えなければなりません。それは神の救いのみ心のしるしであり、神の計画に従うリズムと考え方に沿って、尊重と調和のうちに耕し、守り、成長、発展させるべきたまものなのです(創世記2・8-15参照)。次に蛇は、中東の豊穣信仰に由来する存在です。豊穣信仰はイスラエルを魅了し、神との神秘に満ちた契約を捨てさせる誘惑となり続けました。聖書はこうした背景のもとに、アダムとエバが経験した誘惑を、誘惑と罪の本質として示します。実際に蛇は何といったのでしょうか。蛇は神を否定せず、巧妙な問いをささやきます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神はいわれたのか」(創世記3・1)。蛇はこのようにして疑いを抱かせます。神との契約は、束縛ではないのか。この束縛が、自由と、人生のすばらしいものや貴重なものを奪うのではないか。この誘惑は、自分が生きる世界を自分の力だけで築こうとする誘惑となります。被造物としての限界も、善悪、すなわち道徳の限界も受け入れようとしない誘惑となります。造り主としての神の愛により頼むことは、そこから自分を解放すべき重荷とみなされます。これがつねに誘惑の本質です。しかし、偽りにだまされ、自らが神に取って代わろうとすることによって、神との関係が歪められると、他のすべての関係も変化します。こうして他者は競争相手となり、脅威となります。アダムは、誘惑に屈した後、ただちにエバを非難します(創世記3・12参照)。二人は、かつて友愛のうちに語り合っていた神の顔から隠れます(3・8-10参照)。世界は、もはや調和のうちに暮らした園ではなくなり、搾取すべき場所、罠の隠された場所となります(3・14-19参照)。他者への妬みと恨みが人の心に入り込みます。その一例が、自分の弟アベルを殺したカインです(4・3-9参照)。人は創造主に逆らうことにより、実際には自分自身に逆らい、自らの起源を、それゆえ自らの真理を否定してしまいます。こうして悪が、苦しみと死の悲しむべき連鎖を伴って、世に入って来ます。ですから、神が造られたものはよく、そればかりか、きわめてよかったにもかかわらず、人間が真理に反する偽りを自由に選んだ後、悪が世に入ったのです。
 創造物語から、最後に次の教えを指摘したいと思います。罪は罪を生むこと、そして、歴史の中のすべての罪は互いに連関していることです。ここからわたしたちは、「原罪」と呼ばれるものについて語るよう促されます。原罪というこの理解しがたい現実は、いかなることを意味するのでしょうか。ここではわずかな点だけ示したいと思います。まず考えるべきことはこれです。いかなる人も自分だけに閉ざされてはいません。だれも自分だけで、自分のためだけに生きることはできません。わたしたちはいのちを他の人から受け取ります。それも誕生の時だけでなく、毎日です。人間は関係です。わたしがわたしであるのは、あなたのうちに、あなたを通して初めて可能です。神というあなた、また他の人々というあなたとの愛の関係のうちに初めて可能です。ところで、罪は、神との関係を歪め、破壊することです。自分が神に取って代わることによって、本質的な関係である、神との関係を破壊すること――罪の本質はこれです。『カトリック教会のカテキズム』はいいます。原罪により、「人間は神に逆らい、被造物として要求されることに逆らい、したがって、自分自身の善に反して、自我を優先させたのです」(同398)。根本的な関係が歪むと、他の関係の中心も危険にさらされ、破壊されます。罪はさまざまな関係を台なしにし、そこから、すべてのものを台なしにします。わたしたちは関係だからです。ところで、もし人類の関係の構造が最初から歪んでいるなら、すべての人は、この諸関係の歪みによって特徴づけられた世に歩み入ることになります。罪によって歪められた世に歩み入ることになります。そして人は個人としても罪によって特徴づけられます。原罪は人間の本性を損ない、傷つけます(『カトリック教会のカテキズム』404-406参照)。しかし人間は自力で、独力で、この状況から脱け出すことができません。人間は自力で自分をあがなうことができません。創造主だけが、正しい関係を回復することが可能です。わたしたちが遠ざかっていたかたが、わたしたちのところに来て、愛をもってわたしたちに手を差し伸べることによって、初めて正しい関係を再び結ぶことができるのです。このことがイエス・キリストにおいて行われました。イエス・キリストはアダムとまさに正反対の道を歩んだからです。聖パウロのフィリピの信徒への手紙2章(2・5-11)の賛歌が述べるとおりです。アダムは自らが造られたものであることを認めず、神に取って代わろうとしました。これに対して、神の子であるイエスは、御父との子としての関係を完全なしかたでもち、自分を無にして、しもべとなり、愛の道を歩みます。そして十字架の死に至るまでへりくだります。それは、神との関係を秩序ある姿に回復するためでした。こうしてキリストの十字架は新しいいのちの木となります。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。信仰を生きるとは、神の偉大さを認め、自分の小ささを、被造物としての身分を受け入れることです。それは、主の愛によって満たしていただき、わたしたちの真の偉大さを成長させてもらうためです。悪とその悲しみと苦しみに満ちた重荷は、神秘です。この神秘は信仰の光によって照らされます。信仰は、わたしたちが解放されうるという確信を、人間であることはよいことだという確信を与えてくれるからです。

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