教皇ベネディクト十六世の2013年2月10日の「お告げの祈り」のことば シモンの召命

教皇ベネディクト十六世は、年間第5主日の2月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第5主日の2月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日から極東の諸国民は旧正月(春節)を祝います。平和と調和と天への感謝は、この喜びの時に祝われる普遍的な価値です。これらの価値は、自分の家族と社会と国家を築くためにすべての人が望むものです。これらの諸国民が抱く、幸福で繁栄した生活への望みがかなえられますように。これら諸国のカトリック信者の皆様に対して特別にごあいさつ申し上げます。『信仰年』にあたり、皆様がキリストの知恵に導かれますように。
 明日のルルドの聖母の記念日に、わたしたちは『世界病者の日』を記念します。荘厳な祭儀がバイエルンのアルトエッティングの聖母巡礼聖堂でささげられます。わたしは祈りと愛情をもってすべての病者の皆様に寄り添うとともに、わたしが特別に愛するかの聖母巡礼聖堂に集まるかたがたに霊的に加わります」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の典礼の中で、ルカによる福音書は最初の弟子たちの召命の物語を示します。これは他の二つの共観福音書記者のマタイとマルコ(マタイ4・18-22、マルコ1・16-20参照)の元の版です。実際、この召命には、群衆に対するイエスの教えと、主のみ心によって行われた不思議な漁(すなどり)が先立ちます(ルカ5・1-6)。群衆がイエスのことばを聞こうとしてゲネサレト湖畔に押し寄せて来ると、イエスは、シモンが夜通し漁をしたのに何もとれずにがっかりしているのをご覧になりました。イエスはまず、岸からすこし離れたところから群衆に説教を行うために、舟に乗せてくれるようシモンに頼みます。その後イエスは、説教を終えると、仲間とともに沖に漕ぎ出して網を降ろすようにシモンに命じます(5節参照)。シモンがいうとおりにすると、信じられないほどの量の魚がとれました。福音書記者はこうして最初の弟子たちがどのようにイエスに従ったかを示します。弟子たちはイエスに信頼し、イエスのことばを自らの基盤とします。イエスのことばには奇跡のしるしも伴いました。このしるしの前に、シモンはイエスを「先生」(5節)と呼んでいたのに対して、しるしの後では「主よ」(7節)と呼んでいるのに気づきます。これが神の召命における教育法です。この教育法は、選ばれた者の質よりも、彼らの信仰にかかわります。シモンの信仰に見られるとおりです。シモンはこういいます。「おことばですから、網を降ろしてみましょう」(5節)。
 漁というイメージは教会の使命を思い起こさせます。聖アウグスティヌス(354-430年)はこのことについてこう解説します。「弟子たちは主の命令に従って、二度、漁を行う。一度目は受難の前に、二度目は復活の後である。これらの二つの漁のうちに教会全体の姿が示される。教会の現在の姿と、死者の復活の後の将来の教会の姿である。現在の教会は、善人も悪人も含めて、数えきれないほど多くの人を収めている。復活の後、教会は善人だけを包み込むことになる」(『説教』:Sermones 248, 1)。ペトロの体験はもちろん特別なものですが、それはすべての福音の使徒の召命を代表するものでもあります。福音の使徒は、地の果てに至るまで、すべての人にうむことなくキリストを告げ知らせなければならないからです。しかし、今日のテキストは、司祭職と奉献生活への召命について考えさせます。召命は神のわざです。人間は自分の召命を作り出すことはできず、ただ神の呼びかけにこたえるのです。神が呼んでくださるなら、人間の弱さを恐れる必要はありません。わたしたちは神の力に信頼しなければなりません。神の力はわたしたちの貧しさの中でこそ働くからです。わたしたちは、つねに神のあわれみの力により頼まなければなりません。神のあわれみの力はわたしたちを造り変え、新たにするからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。この神のことばが、わたしたちとわたしたちのキリスト教共同体の中で、福音を告げ知らせ、あかしする勇気と信頼と熱意をよみがえらせてくれますように。失敗や困難によって失望してはなりません。わたしたちがしなければならないのは、信仰をもって網を降ろすことです。あとは主がしてくださいます。使徒の元后であるおとめマリアの執り成しにより頼もうではありませんか。マリアは、自らの小ささをよくわきまえながらも、主の呼びかけに完全な信頼をもってこたえました。「わたしは主のはしためです」。マリアの母としての助けによって、師であり主であるイエスに進んで従う心構えを新たにしようではありませんか。

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