教皇ベネディクト十六世の347回目の一般謁見演説 イエスの誘惑と天の国のための回心

2月13日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の347回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇はまず、11日(月)に表明した辞任についてあらためて述べました。パウロ六世ホールを埋め尽くした会衆から何度も拍手が送られました。この後、教皇は、この日(灰の水曜日)から四旬節が始まるにあたり「イエスの誘惑と天の国のための回心」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  ご存じのとおり、わたしは(拍手)――皆様の同情に感謝します――主が2005年4月19日にわたしにゆだねた奉仕職を辞任することを決断しました。わたしはこの決断を教会の善益のために完全な自由をもって行いました。それは長期にわたる祈りと、神のみ前での良心の糾明を経てのことでした。わたしはこの行為が重大なものであることをよく分かっていましたが、必要な力をもってペトロの奉仕職を果たすことができないことも同じく自覚したからです。教会はキリストの教会です。だからキリストは教会がご自分の指導と配慮を欠くことを許しません。わたしはこの確信に支えられ、照らされています。皆様がこれまで愛と祈りをもってわたしに同伴してくださったことを感謝します。ありがとうございます。この数日間はわたしにとって容易なものではありませんでしたが、わたしはほとんどからだでも、祈りの力を感じました。この力は、教会への愛と、皆様の祈りがわたしにもたらしてくれたものです。わたしのため、教会のため、次の教皇のために、引き続きお祈りください。主がわたしたちを導いてくださいます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の灰の水曜日から四旬節が始まります。四旬節は、聖なる復活祭に向けてわたしたちが自分を整えるための四十日間です。四旬節はわたしたちの霊的歩みの中で特別な時期です。四十という数は聖書の中で何度も現れます。とくに、ご存じのとおり、それはイスラエルの民が荒れ野を旅した四十年を思い起こさせます。それは神の民となるための長い教育期間でしたが、主との契約に従わない誘惑につねにさらされる長い期間でもありました。四十は、預言者エリヤが神の山ホレブに着くまでにかかった日数でもあります。それは、イエスが公生活を開始する前に荒れ野で過ごし、悪魔の誘惑を受けた日数でもあります。今日の講話の中で、わたしは次の日曜日に朗読される福音書の中に書かれた、主の地上における生活におけるこの時について考えたいと思います。
  イエスが退いた荒れ野は、第一に、沈黙と貧しさの場所です。人はそこで物質的な支えを奪われ、人生に関する根本的な問いに直面します。そして本質的なことがらへと向かうように促されます。そのために、神と出会うことが容易となります。しかし、荒れ野は死の場所でもあります。そこには水も生命もないからです。それは孤独の場所です。人はそこでいっそう強く誘惑を感じます。イエスは荒れ野に赴き、そこで、御父から示された道を離れ、他のより安易でこの世的な道に従うことへの誘惑を受けました(ルカ4・1-13参照)。こうしてイエスはわたしたちの誘惑を背負い、わたしたちの悲惨な状態を担いました。それは、悪い者に打ち勝ち、神への道、すなわち回心の道をわたしたちに開くためです。
  イエスが荒れ野で受けた誘惑を考察することは、わたしたち一人ひとりに、次の根本的な問いにこたえるようにという招きとなります。わたしの人生の中でもっとも重要なことは何でしょうか。第一の誘惑の中で、悪魔はイエスに、飢えを満たすために石をパンに変えてはどうかといいます。イエスはこたえます。人はパンによって「も」生きるが、パン「だけ」で生きるのではない。真理への渇き、神への渇きがいやされないかぎり、人は救われることができません(3-4節参照)。第二の誘惑の中で、悪魔はイエスに権力への道を示します。悪魔はイエスを高いところに連れて行き、世を支配することを示します。しかし、それは神の道ではありません。イエスははっきりと知っておられました。世を救うのはこの世の権力ではなく、十字架とへりくだりと愛の力だということを(5-8節参照)。第三の誘惑の中で、悪魔はイエスに、エルサレム神殿の屋根の端から飛び降り、天使を通じて神に救ってもらうよう勧めます。それは、神を試験にかけるために、ある種の刺激的なことを行いなさいという勧めです。しかしイエスはこたえます。神はわたしたちが自分の条件を押しつける対象ではありません。神は万物の主です(9-12節参照)。イエスが受けた三つの誘惑の中心は何でしょうか。それは、神を道具化しなさいという提案です。自分の利害、栄光、成功のために神を利用しなさいという提案です。それゆえそれは、本質的に、神に取って代わりなさいということです。自分の人生から神を排除し、神は見せかけにすぎないと思わせることです。すべての人は自らに問わなければなりません。わたしの生活の中で神はいかなる位置を占めているでしょうか。主であるのは神でしょうか、わたしでしょうか。
  神を自分と自分の利害に従わせ、神を隅に追いやり、適当な優先課題に向かうという誘惑に打ち勝つこと、神に第一の場を与えること、これがすべてのキリスト信者がつねに新たに歩むべき道です。わたしたちは四旬節の間何度も「回心しなさい」という招きを耳にします。「回心する」とは、イエスの福音に生活を具体的に導いてもらいながら、イエスに従うことです。神に自分を造り変えていただき、自分が自分の人生を築くのだと考えるのをやめることです。わたしたちは被造物であり、神とその愛により頼む者だと認めることです。神のうちで自分のいのちを「失う」ことによってのみ、それを得るのだと認めることです。そのために、神のことばの光に照らして決断を行わなければなりません。現代において、単にキリスト教的な起源をもつ社会に生きているということだけで、キリスト信者だということはもはやできません。キリスト教的家庭に生まれ、そこで宗教教育を受けた者であっても、日々、キリスト信者となる決断を新たにしなければなりません。すなわち、世俗文化がつねに示すさまざまな誘惑と、現代に生きる多くの人々が示す批判的な見解に対して、神に第一の場を与えなければなりません。
  実際、現代社会がキリスト信者に与える試練はきわめて多く、個人生活と社会生活に影響を及ぼしています。キリスト教的結婚に忠実であること、日々の生活の中であわれみのわざを実践すること、祈りと内的沈黙のために時間をとることは容易ではありません。多くの人が当然だと考える決定に公然と反対することは容易ではありません。たとえば、望まない妊娠をしたときの人工妊娠中絶、重篤な病気のときの安楽死、あるいは、遺伝的な病気を予防するための胚の選別です。自分の信仰を脇に置く誘惑はつねに存在します。だから回心は神への応答となるのです。わたしたちは生活の中で神を繰り返し認めなければならないからです。
  模範や刺激となる偉大な回心があります。たとえば、ダマスコに向かう道での聖パウロの回心や、聖アウグスティヌス(354-430年)の回心です。しかし、聖なるものへの感覚が失われた現代においても、神の恵みが働き、多くの人の中で驚くべきわざを行います。主は、世俗化によって呑み込まれるかのように思われる社会的・文化的状況の中でも、人間の戸をうむことなくたたきます。ロシア正教会のパーヴェル・フロレンスキイ(1882-1937年)の場合のようにです。完全に無神論的な教育を受け、学校で教わる宗教教育に心底から敵意を抱いていた科学者フロレンスキイは、こう叫ぶに至ります。「そうです。神なしに生きることは決してできません」。そして彼は自分の生活を完全に転換して、司祭になったのです。
  わたしはエッティ・ヒレスム(1914-1943年)のことも思い起こします。ヒレスムは、ユダヤ人として生まれたオランダ人少女で、アウシュヴィッツで亡くなりました。ヒレスムは最初、神から離れていましたが、自分の心の奥底を見つめることにより神を見いだし、次のように書き記します。「わたしの中にはとても深い井戸があります。そして神はこの井戸の中におられます。神のところに行くことができることもありますが、石や砂が井戸をふさいでいることもしばしばです。そのようなとき、神は埋もれています。新たに神を掘り出さなければなりません」(『日記』97)。分散して落ち着きのない生活を送っていた彼女は、ショア(ホロコースト)という、20世紀最大の悲劇のただ中で神を再発見します。この弱く不満だらけの少女は、信仰によって造り変えられ、愛と内的平安に満ちた女性に変わり、こういうことができるまでになりました。「わたしは絶えず神との親しさのうちに生きています」。
  自分の時代のイデオロギー的な幻想に反対し、真理を探求することを選び、心を開いて信仰を見いだす力は、現代のもう一人の女性にも見いだされます。米国人のドロシー・デイ(1897-1980年)です。彼女は自伝の中で、マルクス主義の提案に従って、すべてを政治によって解決しようとする誘惑に陥ったことをはっきり告白します。「わたしは、デモ隊とともに歩き、投獄され、著作し、他の人に影響を与え、自分の夢を世界に残すことを望みました。これらすべてのことの中で、どれだけの野心を抱き、自己探求を行ったことでしょうか」。これほど世俗的な環境の中で信仰へと歩むことはとくに困難です。しかし、恵みは同じように働きます。デイ自身が強調するとおりです。「もっとしばしば教会に通い、ひざまずき、頭を下げて祈らなければならないと感じていたのは確かです。それはいわば無意識的な本能だったといえます。わたしは祈ろうと意識はしていなかったからです。けれども、わたしは行って、祈りの雰囲気に入ったのです・・・・」。神は、自覚的に神と一致し、貧しい人々に生涯をささげるよう、彼女を導きました。
  現代においても多くの回心が見られます。ここでいう回心とは、表面的にであれキリスト教的教育を受けた後に、何年もの間信仰から離れ、その後、キリストと福音を再発見した人々が立ち帰ることです。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(黙示録3・20)。わたしたちの内なる人は、神の訪れのために自らを整えなければなりません。そのために、幻想や現象や物質的なものに惑わされてはならないのです。
  「信仰年」の中で四旬節を過ごすにあたり、回心への取り組みを新たにしようではありませんか。自分のことだけ考える傾向に打ち勝ち、神に場所を空けようではありませんか。そして、神の目をもって日々の現実を見つめようではありませんか。こういうことができます。利己主義に閉じこもるか、神と他の人への愛へと開かれるかという選択は、イエスの誘惑における選択に対応しています。すなわち、人間的な力か十字架の愛か、物質的な幸福としての救いか神のわざとしてのあがないか――そして、人生において神を優先するか――という選択です。回心するとは、自分のことだけ考えて、自分の成功や名誉や地位を追求するのではなく、日々、小さなことがらの中で、真理と神への信仰と愛をもっとも大切にすることです。

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