教皇ベネディクト十六世の2013年2月17日の「お告げの祈り」のことば イエスの誘惑

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第1主日の2月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった5万人以上の信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第1主日の2月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった5万人以上の信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

この四旬節第1主日の2月17日午後6時からバチカンのレデンプトーリス・マーテル礼拝堂で、教皇と教皇庁の四旬節の黙想会が始まります。黙想会を指導するのは教皇庁文化評議会議長のジャンフランコ・ラヴァージ枢機卿(70歳)です。今年の黙想会のテーマは「祈りの法と信仰の法――詩編の祈りにおける神のみ顔と人間の顔」です。黙想会は2月23日(土)午前に終了します。黙想会中、2月20日(水)の一般謁見を含めてすべての謁見は行われません。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日、恒例の灰の式をもって、四旬節に入りました。四旬節は復活祭を準備するための回心と悔い改めの期間です。母であり師である教会は、自分に属するすべての人々を招きます。霊的に新たになりなさい。自分をはっきりと神へと方向づけなさい。傲慢と利己主義を捨てて愛に生きなさい。「信仰年」にあたり、四旬節は、自分の生活と教会生活の基準また基盤として神への信仰を再発見するためのよい機会です。これにはつねに霊的な戦いが伴います。悪霊は当然、わたしたちが聖化されることに反対し、わたしたちを神への道から逸らそうとするからです。だから毎年、四旬節第1主日には、荒れ野におけるイエスの誘惑についての福音が朗読されるのです。
 実際、イエスは、ヨルダン川で洗礼を受け、メシアとして「叙任」を受けた後(すなわち、聖霊によって「油を注がれた」後)、同じ霊によって荒れ野に導かれました。悪魔の誘惑を受けるためです。イエスは、公生活を開始するにあたって、誘惑者が彼に示す間違ったメシア像を暴露し、拒絶しなければなりませんでした。しかし、これらの誘惑は、間違った人間像でもあります。それらは、あらゆる時代に、便利で有効で、そればかりかよいものであるかのように偽装することにより、良心を危険にさらします。マタイとルカの両福音書記者はイエスに対する3つの誘惑を示します。それらは順序において部分的に違うだけです。誘惑の中心はつねに、自分の利益のために神を道具化することです。そのために、成功や物質的な富をより重視することです。誘惑者は狡猾です。彼は直接、悪へと促すのではなく、偽りの善へと促します。そして、真の現実は、力であり、基本的な欲求を満たすものだと信じ込ませます。こうして神は二義的なものとなり、手段へとおとしめられます。つまるところ、神は非現実なもの、どうでもよいものとなって、消滅します。つきつめていえば、誘惑の中で問われているのは信仰です。なぜなら、そこでは神が問われているからです。人生の決定的なときに、また、よく考えてみるなら、あらゆるときに、わたしたちは選択を迫られます。すなわち、自分に従うか、神に従うか。個人の利益か、まことの善であるかた、本当に善であるものかの選択です。
 教父たちが教えてくれるとおり、誘惑は、わたしたち人間の条件、すなわち罪とその結果の深淵へのイエスの「降下」の一部です。イエスはこの「降下」の道を、終わりまで、つまり十字架の死と、神からはるかに離れた陰府(よみ)に達するまで歩みました。こうしてイエスは、神が、失われた小羊である人間に救いをもたらすために差し伸べた手となります。聖アウグスティヌス(354-430年)が教えるとおり、イエスはわたしたちから誘惑を取り去って、ご自身の勝利を与えてくださるのです(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 60, 3, PL 36, 724)。それゆえわたしたちも悪霊と戦うことを恐れてはなりません。大切なのは、勝利者であるキリストとともに戦うことです。そしてわたしたちは、キリストとともにいるために、母であるマリアに向かいます。試練のとき、子としての信頼をこめてマリアに祈り願おうではありませんか。そうすれば、マリアは、神である御子の力強い現存を感じさせてくださいます。それは、キリストのことばによって誘惑を退け、あらためて神を自分の生活の中心に置くためです。

略号
PL Patrologia Latina

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