教皇ベネディクト十六世の348回目の一般謁見演説 教皇職を振り返って

2月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の教皇職最後となる348回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は自らの8年間の教皇職を振り返りました。以下はその全訳です(原文イ […]


2月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の教皇職最後となる348回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は自らの8年間の教皇職を振り返りました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。謁見には約13万人の信者が参加しました。


 親愛なる司教職と司祭職にある兄弟の皆様
 政治当局者の皆様
 親愛なる兄弟姉妹の皆様

 わたしの最後の一般謁見にこれほど多くのかたが来てくださったことを感謝申し上げます。
 心から感謝します。わたしは本当に感動しています。そしてわたしは、教会が生きているのを目の当たりにしています。まだ冬であるにもかかわらず、創造主である神が今日わたしたちによい天気を与えてくださったことにも感謝しなければならないと思います。
 たったいま朗読された聖書の箇所で使徒パウロが行ったのと同じように、わたしも、何よりもまず神に感謝しなければならないと心に感じます。神は教会を導き、成長させてくださいます。みことばの種を蒔いて、ご自分の民の信仰を深めてくださいます。このときにあたり、わたしは心を広げて世界中に散らばる全教会を抱きます。そして、このペトロの奉仕職を務めた数年の間にわたしが聞いた「知らせ」のゆえに神に感謝します。この「知らせ」は、主イエス・キリストへの信仰、教会のからだを真の意味で循環し、愛のうちに生きるよう促した聖なる愛、そして、わたしたちの心を開き、完全ないのちへと、天の祖国へと向かわせる希望に関するものです。
 わたしは、すべての人を祈りのうちに神のみ前で抱いているのを感じます。わたしはそこで、すべての出会い、旅行、使徒的訪問を思い起こします。わたしはすべてのこととすべての人を祈りのうちにまとめて、主にゆだねます。それは、わたしたちがあらゆる知恵と霊的理解によって、神のみ心を十分悟り、神とその愛にふさわしいしかたで行動し、あらゆるよいわざを行って実を結ぶためです(コロサイ1・9-10参照)。
 このときにあたり、わたしは深い信頼を感じます。わたしも、また皆様すべても知っているからです。福音の真理のことばこそが教会の力であり、いのちだということを。信者の共同体が福音に耳を傾け、真理と愛のうちに神の恵みを受け入れるなら、福音は必ず清め、新たにし、実りをもたらしてくれます。これがわたしの信頼です。これがわたしの喜びです。
 8年前の4月19日にペトロの奉仕職を引き受けることを受諾したとき、わたしはこのことをしっかりと確信しました。そしてこの確信はつねにわたしを離れませんでした。すでに何度もお話ししたとおり、そのときわたしの心に浮かんだのは次のことばでした。主よ、なぜわたしをこのために呼ばれたのですか。あなたはわたしに何をお望みなのですか。あなたがわたしの肩に負わせる荷はあまりにも重いものです。けれども、もしあなたがお望みでしたら、おことばどおり網を降ろしてみましょう。たとえどれほどわたしが弱い者であっても、あなたが導いてくださると信じます。8年後に、わたしはこういうことができます。主はわたしを導いてくださいました。主はわたしのそばにいてくださいました。わたしは日々、主がともにいてくださるのを感じることができました。これが教会の歩みの特徴です。そこには喜びと光のときもあれば、困難なときもあります。わたしはガリラヤ湖上の船の中にいる聖ペトロと使徒たちと同じことを感じます。主は、太陽が注ぎ、そよ風の吹く多くの日々を、多くの魚のとれた日々を与えてくださいました。教会史全体と同じように、波が荒れ、逆風が吹き、主が眠っておられるかのように思われるときもありました。しかしわたしにはつねに分かっていました。この船の中には主がおられるということを。わたしにはつねに分かっていました。教会という船は、わたしのものでも、わたしたちのものでもなく、主のものだということを。主は船が沈むに任せません。主が船を導かれます。もちろんそれは、主が選んだ人々を通しても行われます。主がそう望まれたからです。かつても今も、何ものもこの確信を揺るがすことはありません。だから今日、わたしの心は神への感謝で満たされます。神は全教会に、またわたしにも、いつも豊かな慰めと光と愛を与えてくださったからです。
 わたしたちは「信仰年」を過ごしています。わたしが「信仰年」開催を望んだのは、信仰をますます二義的なものにしようとする状況の中で、自分たちの神への信仰を強めるためです。皆様にお願いしたいと思います。主への堅固な信頼を新たにしてください。幼子のように神の手に身をゆだねてください。神の手がいつもわたしたちを支え、疲れたときも、日々、歩ませてくれることを信じてください。すべての人が、神に愛されていることを感じることができますように。神はわたしたちのために御子を与え、限りない愛を示してくださったからです。すべての人が、キリスト信者であることの喜びを感じることができますように。毎朝唱える美しい祈りはいいます。「わたしの神よ。あなたをあがめ、心からあなたを愛します。わたしたちを造り、キリスト信者としてくださったことをあなたに感謝します」。まことに、信仰の恵みは喜ばしいものです。それはだれもわたしたちから取り去ることのできない、貴い宝です。祈りと、一貫したキリスト教的生活をもって、日々、この恵みを主に感謝したいと思います。神はわたしたちを愛してくださいます。けれども神は、わたしたちも神を愛することを期待しておられます。
 けれども、このときにあたり、わたしが感謝したいのは神に対してだけではありません。教皇はペトロの船を一人で導くのではありません。たとえ教皇が第一の責任を担うとしても。わたしは、ペトロの奉仕職の喜びと重荷を一人で担っていると感じたことなど決してありません。主はわたしのそばに多くの人を置いてくださいました。彼らは寛大な心と、神と教会への愛をもってわたしを助け、わたしに寄り添ってくださいました。何よりも、親愛なる兄弟である枢機卿の皆様に感謝します。皆様の知恵と助言と友情は、わたしにとってかけがえのないものでした。わたしの協力者の皆様、第一に、長年にわたり忠実にわたしに同伴してくれた(タルチジオ・ベルトーネ)国務省長官に感謝します。国務省と教皇庁全体、また、さまざまな分野で聖座にご奉仕くださったすべての人々に感謝します。目立つことなく、陰に隠れたしかたで、しかしまさに沈黙と日々の献身と信仰と謙遜の精神のうちに、確かな信頼できる支えとなってくださった多くのかたがたに感謝します。わたしはとくにわたしの教区であるローマ教会に思いを致します。司教職と司祭職にある兄弟、奉献生活者、神の民全体を、わたしは決して忘れません。さまざまな小教区訪問、集会、謁見、旅行の中で、わたしはいつも深い気遣いと愛情を感じました。しかし、わたしも牧者としての愛をもって、一人残らずすべての人の幸いを願ってきました。すべての牧者が心から抱くこの愛は、とりわけ使徒ペトロの後継者であるローマ司教のものです。わたしは毎日、父としての心をもって、皆様すべてのことを祈りの中で心にとめてきました。
 さらにわたしは、すべての人にあいさつと感謝を申し上げます。教皇の心は全世界に広がります。聖座に駐在する外交使節団の皆様に感謝申し上げます。皆様は諸国家から成る大家族を示してくださいます。この機会に、メディアのために働くすべてのかたがたにも思いを致します。皆様の重要な仕事に感謝します。
 ここで、この最後の数週間の間、気遣いと友情と祈りのしるしを送ってくださった、全世界の多くのかたがたにも心から感謝申し上げたいと思います。まことに、教皇は決して独りきりではありません。今わたしはそのことをもう一度、深い感動をもって感じます。教皇はすべての人のものです。また多くの人が教皇を身近に感じています。確かにわたしは、世界の偉い人々から手紙を受け取りました。国家元首、宗教指導者、文化界の代表者などです。しかしわたしは、普通の人々からも多くの手紙をいただきました。彼らは単純に心から手紙を書き、その愛情を感じさせてくださいました。この愛情は、教会の中でキリスト・イエスとともにいることから生まれます。これらのかたがたは、王様や、会ったことのない偉い人に書くようなしかたでわたしに手紙を書いたのではありません。彼らは兄弟姉妹として、子として、愛に満ちた家族のきずなを感じながら、わたしに手紙を書いてくださったのです。わたしたちはここで、教会とは何であるかに手で触れることができます。教会は、宗教的または人道的な目的で作られた組織でも団体でもありません。それはイエス・キリストのからだにおける兄弟姉妹の交わりです。イエス・キリストが、わたしたち皆を一つにしてくださるからです。このような形で教会を感じ、その真理と愛の力にいわば手で触れられることは、喜びをもたらします。現代、多くの人が教会は衰退していると語っているからです。しかし、わたしたちは今日、教会が生きていることを目の当たりにしています。
 数か月前から、わたしは自分の力が衰えてきたのを感じました。そこでわたしは祈りの中で熱心に神に願いました。あなたの光でわたしを照らしてください。わたしのためではなく、教会のために正しい決断を行うことができますようにと。わたしはそれが重大かつ新規なものであることを十分自覚しつつ、深い心の落ち着きをもってこの決定を行いました。教会を愛するとは、困難で苦しい決断を勇気をもって行うことでもあります。しかし、つねに自分のためではなく、教会のためを思わなければなりません。
 ここでもう一度2005年4月19日に戻ることをおゆるしください。この決断が重大なのは、次のことのうちにもありました。すなわち、このときから、わたしはつねに、また永遠に、主のために働かなければならないということです。つねに――ペトロの奉仕職を引き受ける者には、もはやいかなるプライバシーもありません。彼はつねにまた完全に、すべての人のもの、全教会のものです。彼の人生からは、いわば完全に私的な側面が取り去られます。人はいのちを与えることによって、それを受けます。わたしはそのことを感じることができましたし、まさに今このときに感じています。申し上げたとおり、主を愛する多くの人は、聖ペトロの後継者をも愛します。彼に愛情をもっています。教皇には本当に全世界に兄弟姉妹がいます。子がいます。教皇は皆様の交わりに包まれて、安心を感じます。それは、教皇が自分のものではないからです。教皇はすべての人のものであり、すべての人は教皇のものだからです。
 「つねに」はまた「永遠に」ということでもあります。わたしが私人に戻るということはありえません。教皇職を行使するのをやめるという決断をしたからといって、私人に戻るということにはなりません。わたしは私的な生活に戻って、旅行し、人と会い、招待され、会議に出たりはしません。わたしは十字架を放棄するのではありません。むしろ、新たなしかたで十字架につけられた主のもとにとどまります。わたしにはもはや教会統治のための権能がありません。むしろ、いわば、祈りの奉仕によって、聖ペトロの囲いの中にとどまります。わたしが教皇名を彼からとった聖ベネディクトゥス(480頃-547/560年頃)は、わたしにとってこのことの模範となります。彼はわたしたちに、能動的にであれ受動的にであれ、完全に神のわざに属した生き方を示してくれたのです。
 このような重大な決断を尊重と理解をもって受け入れてくださった皆様一人ひとりに感謝します。わたしは祈りと考察によって教会とともに歩み続けます。今まで日々果たそうと努めてきた主とその花嫁への同じ献身をもって。この献身はこれからも変わることがありません。皆様にお願いします。神のみ前でわたしのことを思い起こしてください。何よりも、きわめて重要な使命を果たすよう招かれた枢機卿のため、新しい使徒ペトロの後継者のために祈ってください。主がご自身の霊の光と力をもって新しい教皇とともに歩んでくださいますように。
 神の母であり教会の母であるおとめマリアの母としての執り成しを願い求めます。わたしたち一人ひとりと教会共同体全体とともに歩んでください。深い信頼をもってあなたに身をゆだねます。
 親愛なる友人の皆様。神はご自身の教会を導き、つねに支えてくださいます。とくに困難なときに。このような信仰に基づくものの見方を失ってはなりません。これこそが教会と世界の歩みに関する唯一真実なものの見方だからです。わたしたちの心が、皆様一人ひとりの心が、いつも喜びをもってこう確信することができますように。主はわたしたちのそばにおられます。主がわたしたちを見捨てることはありません。主はわたしたちのそばにいて、その愛をもって包んでくださいます。ありがとうございます。

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