教皇フランシスコの12回目の一般謁見演説 神の民としての教会

6月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの12回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の2回目として「神の民としての教会 […]

6月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの12回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の2回目として「神の民としての教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、「児童労働反対世界デー」にあたり、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今日は全世界で『児童労働反対世界デー』が開催されます。今年の『児童労働反対世界デー』はとくに国内労働における子どもの搾取に目を向けます。子どもの搾取は、とくに貧困国で増加し続けている、由々しき現象です。何百万人もの未成年者――多くの場合に少女――が、この密かな搾取の形態の犠牲となっています。この搾取はしばしば虐待、酷使、差別を伴います。それは真の意味での奴隷労働です。
 国際社会がこの真の傷の手当てをするためにいっそう効果的な措置をとるよう、強く願います。すべての子どもが、愛と落ち着きのある平和な環境のもとに、自分の家庭で遊び、学び、祈り、成長することが可能であるべきです。これは子どもの権利であり、わたしたたちの義務です。しかし、多くの人が酷使され、奴隷とされています。これが傷です。落ち着いた幼年時代は、子どもたちが信頼をもって人生と未来を見つめることを可能にします。子どもたちの希望と喜びに満ちた成長を妨げてはなりません」。
「児童労働反対世界デー」は、2002年、国際労働機関(ILO)が、世界の目を児童労働に向け、児童労働を撲滅する必要性を世界に訴えるために制定したものです。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、第二バチカン公会議が教会を定義したもう一つの用語、すなわち「神の民」について簡単に考えてみたいと思います(『教会憲章』9、『カトリック教会のカテキズム』782参照)。だれもが考察しうる、いくつかの問いを用います。
 1 「神の民」であるとは、いかなることでしょうか。第一の意味はこれです。神は、固有の意味では、特定の民に属しているのではありません。なぜなら、神はわたしたちに呼びかけ、わたしたちを呼び集め、ご自分の民の一員となるよう招くからです。この招きは分け隔てなくすべての人に向けられています。なぜなら、神のあわれみは「すべての人が救われることを望んでおられる」(一テモテ2・4)からです。イエスは使徒たちに、またわたしたちに、排他的なグループ、すなわち「エリート」のグループになれといわれたのではありません。イエスはいわれます。行って、すべての民を弟子にしなさい(マタイ28・19参照)。聖パウロはこう述べます。神の民においても、教会においても、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人も・・・・ありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)。自分が神と教会から遠ざかっていると考えている人、恐れている人や無関心な人、自分がもはや変われないと考えている人――これらの人に申し上げたいと思います。主はあなたがたもご自分の民に加わるよう招いておられます。それも深い尊敬と愛をもって。神はわたしたちがこの民、すなわち神の民に加わるよう招いておられるのです。
 2 人はどのようにしてこの神の民の一員となるのでしょうか。身体的な誕生によるのではなく、新たな誕生によってです。福音書の中で、イエスはニコデモにいわれます。人は上から、すなわち水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(ヨハネ3・3-5参照)。また洗礼によってです。洗礼はわたしたちを神の国へと導き入れるからです。そして神のたまものである、キリストへの信仰によってです。わたしたちは生涯全体を通じてこの信仰を養い、成長させなければなりません。わたしたちは自らに問いかけなければなりません。わたしは、洗礼によって受けた信仰をどれほど成長させているだろうか。わたしが受け、神の民が抱いているこの信仰を、わたしはどれほど成長させているだろうか。
 3 もう一つの問いはこれです。神の民の法とはいかなるものでしょうか。それは愛の律法です。主が残された新しいおきてに従って、神と隣人を愛しなさいという法です(ヨハネ13・34参照)。しかし、愛は不毛な感情でもなければ、あいまいなものでもありません。それは神が唯一のいのちの主だと認めることです。同時に、分裂、競争心、誤解、利己主義を乗り越えて、他の人を兄弟として受け入れることです。この二つはともに歩みます。この新しい法を具体的に実践するために、わたしたちはさらにどれだけ歩まなければならないことでしょうか。この法は、わたしたちの中で働く聖霊の法です。愛徳の法、愛の法です。わたしたちは新聞やテレビでキリスト信者の間で多くの争いが行われているのを目にします。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。神の民のうちに、どれほどの争いが行われていることでしょうか。地域や職場で、妬みとそねみによって、どれほどの争いが行われていることでしょうか。家庭の中にさえ、内輪もめが見られます。主に願わなければなりません。この愛の法をしっかりと悟らせてください。まことの兄弟として互いに愛し合うことは、なんとすばらしいことでしょうか。それはすばらしいことです。今日、一つのことを実行してください。だれでも、好きな人もいれば嫌いな人もいるかもしれません。多くの人はだれかに怒りを抱いているかもしれません。そのようなときに、主にいおうではありませんか。主よ。わたしはこの人に、またはこのことに腹を立てています。わたしはその人のためにあなたに祈ります。怒りのもととなっている人のために祈ることは、この愛の法への第一歩となります。そのようなことをしているでしょうか。今日、実行してください。
 4 神の民の使命とは何でしょうか。世に希望と神の救いをもたらすことです。神はすべての人がご自分の友となるよう招いておられます。このような神の愛のしるしとなることです。そして、練り粉をふくらませるパン種となり、味をつけ、腐敗から守る塩となり、人々を照らす光となることです。わたしたちは、自分たちの周りで――すでに述べたとおり、新聞を開くだけで十分に分かるとおり――、悪が存在していること、悪魔が働いていることを目の当たりにします。しかし、わたしは大声でいいたいと思います。神は悪よりも強力です。このことを信じてください。神は悪よりも強力です。しかし、このことも皆様に申し上げたいと思います。神は悪よりも強力です。なぜ強力か分かるでしょうか。なぜなら、神は主だからです。唯一の主だからです。付け加えていいたいことがあります。悪を特徴とする、時として暗い現実は、変わりうるものです。そのために、まずわたしたちが、何よりも自分の生活をもって、福音の光をそこにもたらさなければなりません。競技場で――たとえば、ここローマのオリンピックスタジアムや、ブエノスアイレスのサンロレンソスタジアムで――、ある真っ暗な夜、だれかがライトをつけても、かろうじて光が見えるにすぎません。しかし、七万人の観衆がそれぞれライトをつければ、スタジアムが照らされます。自分の生活をキリストの光としてください。あらゆるところに福音の光をともにもたらそうではありませんか。
 5 神の民の目指す目的は何でしょうか。目的は、神の国です。神の国は、神ご自身によって地上で始まりました。そしてそれを、わたしたちのいのちであるキリストが現れる完成の時まで、拡大していかなければなりません(『教会憲章』9参照)。それゆえ、この目的とは、主との完全な交わりです。主との親しい交わりです。神のいのちそのものに歩み入ることです。わたしたちはそこで、限りない主の愛の喜びを、完全な喜びを味わいます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。御父の偉大な愛の計画に従って、神の民となるとは、人類における神のパン種となることです。わたしたちの世に神の救いを告げ知らせ、もたらすことです。世はしばしば道に迷っています。そして、励まし、希望を与え、新たな歩む力を与えてくれるこたえを必要としています。教会が神のあわれみと希望の場となることができますように。すべての人がこの教会という場で、受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音の幸いな生活を生きるよう励まされていると感じることができますように。人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、励まされていると感じることができるために、教会は門を開いていなければなりません。すべての人が入れるためです。わたしたちも門から出て、福音を告げ知らせなければなりません。

(2013.6.13)

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