「カトリック情報ハンドブック2012」巻頭特集

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「カトリック情報ハンドブック2012」
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特集 キリシタン史跡をめぐる―関東編 カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第6回目。今回は「関東編」として、東京都と神奈川県の史跡を紹介する。訪問先については、教区から提出された教区内巡礼地一覧も参考にしつつ、各種資料を参照し選定した。

東京の史跡

文京区・台東区・中央区・港区・中野区(7月27日)  (1)
 朝8時ごろ、地下鉄有楽町線江戸川橋駅を地上に出た。傘を差すほどではないが、時折ぽつりぽつりと雨が落ちてくる微妙な天気である。目白通りを横断し、神田川を越えて小日向方面に向かう。
 目的地の最寄駅は丸ノ内線の茗荷谷駅なのだが、有楽町線を通勤に利用しているわたしの便利で江戸川橋駅から行くことになった。
 道を挟んで区立水道端図書館の向かいには、夏目漱石の菩提寺である本法寺など幾堂もの寺院が続いている。そのうちの称名寺という寺の東側横のやや急な坂道を上っていく。荒木坂という名だそうだ。坂を上り詰めた後、地下鉄引込線の丈高い壁に沿って道なりに進んでいくと、やがて高架下トンネルの前に出る。このトンネルの左手、西に向かって伸びる上り坂には「切支丹坂」という名が付けられている。
 閑静な住宅街である。引込線の向こう側には、マンションだろうか高層のビルが幾棟も見えるが、こちらは瀟洒な戸建てが並んでいる。

切支丹屋敷跡碑

切支丹屋敷跡碑

 坂を上り切り、突き当りを右に折れてわずかに進むと、右手に碑が建っているのがすぐに分かる。「都旧跡 切支丹屋敷跡」、柱状の碑にはそう刻まれている。その隣に立つ顕彰碑の碑文は、細かな文字で摩耗し、ほとんど判読できない。ただし、両側に麦の穂の図柄が刻まれているのは分かる。上部には真中から側面へと向かって大きな亀裂が入っている(なお、顕彰碑の上には、重石の下に「お一人一枚ずつお持ちください」と書かれたクリアファイルが置かれていて、その中には碑文全文を記した手書きの文章のコピーが入っている。これにより、碑文は、昭和31(1956)年にウェルウイルゲンという名の神父によって書かれたものと知ることができる)。
 東京都教育委員会による解説の板には次のように記されている。「この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保三年(一六四六)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し、宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた」。
 末尾に並べられた二人、この両名の名が列記されることに抵抗を感じる向きがもしかしたらあるかもしれない。一人は棄教者として日本名を名乗って幕府に仕え、いま一人は信仰を堅持したまま牢の中で生を終えた。切支丹屋敷は、なんといってもこの両者が収容され、あるいは尋問された場所として歴史に名を残す史跡であろう。188福者の一人ペトロ岐部もこの地で尋問を受けているようであるが、その殉教は正保の前、寛永16(1639)年のことなので、切支丹屋敷として牢獄などの施設が整えられる前の、井上の下屋敷においてということになる。
 まずジュゼッペ・キャラ(ヨセフ・キアラ)であるが、彼は遠藤周作『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルとなった人物である。棄教して日本名・岡本三右衛門を名乗った。彼を尋問し棄教させたのが、初代の切支丹奉行、井上筑後守(政重)である。
 井上筑後守、彼自身も棄教者であるとの説がある。井上は島原の乱(1637-1638年)における功績により寛永17(1640)年に六千石が加増され、一万石の大名となった。初代の切支丹奉行として彼は、捕えたキリシタンをやみくもに処刑するのではなく、彼らを《転ばせる》という方法を積極的にとった。それは、穴吊りなどの残忍な拷問や、女囚の牢に宣教師を住まわせるなどといった悪辣な方法によるものである。もし、彼自身が本当に《転び》であったならば、その残虐さの内に、秘められた屈折した感情を読み取ることもできるかと思う。
 キャラ神父らの日本上陸は寛永20(1643)年のことである。それは、アントニオ・ルビノ神父を団長とする日本上陸団の一員としてであった。彼らは、一人の背教者を「立ち帰らしたいという希望」(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』下巻)を胸に抱いていた。その背教者とは、寛永10(1633)年に長崎の西坂刑場においてジュリアン中浦らとともに穴吊りの刑にあったクリストファン・フェレイラである。同時に穴吊りにされた者たちはすべてこの拷問に耐え殉教者となったが、当時イエズス会日本管区の代理管区長という重責を担っていたフェレイラは転び、日本名・沢野忠庵を名乗った。その背教は「ヨーロッパに知れると、これはイエズス会その他の修道会の中に、非常な苦痛を与えた」とパジェスは綴っている(同前)。
 ルビノ神父を含む上陸団第一陣が鹿児島の下甑島で捕えられ長崎に連行されて取り調べを受けた際に、フェレイラは通訳を務めた。そこにおいて「宗教について甚だ雄弁に考を述べた」ルビノ神父は「不幸なフェレイラに如何にも残酷な言葉で話しかけ、フェレイラは、退去するの已むなきに至った」とパジェスは記している(同前)が、背教者の胸の内には、いったいどのような思いが渦巻いたのであろうか。第一陣一行は「有毒の汚物がまき散らされた」(同前)穴に吊るされ殉教を遂げた。穴吊りでは絶命しなかった者は斬首された。
 続く第二陣には、その頭であったペトロ・マルケス神父、そしてキャラ神父など計4名の司祭がいたが、彼らは第一陣とは正反対の運命を辿る。すなわち全員が棄教したのである。オランダ東インド会社の日本商館館長による記録である『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳)により捕縛後の彼らについて追ってみると、まず1643年11月24日の項に「去る七月江戸に送られたポルトガル人らは、数回の拷問をうけた後に皆棄教し、現在囚人で、行動の自由はないが、生涯各月米五俵、年一貫目を支給され」云々という記述があり、棄教後の扱いが分かる。しかし、同年12月2日の項には「転向して日本人となった彼らは、三日前に上司から日本風に妻女と同棲することを命ぜられ、日本人パーデレたちは承諾して自由になったが、ポルトガル人パーデレ四人は拒絶したので、再び投獄され、前よりも厳重に監視を命ぜられた由」とあり、彼らの抵抗のさまを垣間見ることができる。その抵抗はしばらく続いたようなのだが、1645年1月14日の項に「一六四三年七月捕えられた四人の耶蘇会士の中二人はまだ生きて居り、この国の婦人を妻としていること、最年長者はポルトガル人ペドロ・マルクスで、七十三歳、その妻は現に妊娠していること、死んだ者はアンダルシアのアルホンソ・アロヨとフランシスコ・カッソラ・ロマインであること」という決定的な記述が見られる。
 上の引用には名前の挙がっていない今一人の人物がキャラである。彼は4名の司祭のうち、棄教後もっとも長く42年の時を生きながらえ、切支丹屋敷に幽閉されたまま生を終えることになる。幽閉生活の中で彼は、排耶書『顕偽録』を執筆させられたフェレイラ同様、見張りを付けられたうえで「宗門之書物」を書かせられる。この様子を伝えるのが役人による記録『査?余録』であり、この史料をもとに遠藤周作は『沈黙』末尾の「切支丹屋敷役人日記」を創作した。
 『査?余録』に記されたキャラの最期は次のとおりである。「切支丹屋敷に罷在候伴天連岡本三右衛門儀、南蛮しりりやの者、四拾三年以前未の年、井上筑後守へ初て御預、囲屋敷に当丑年迄四十年罷在候処、当月初めより致不食相煩候に付、牢医師石尾道的薬用申候へども、段々気色差重り、昨二十五日昼七半時過相果申候、右三右衛門八十四歳に罷成候」(大田南畝編『三十輻第三』による)。「致不食相煩候」とあるが、これが高齢ゆえの病により食べられなくなったということなのか、あるいは自ら進んで食を絶ったということなのかは分からない。信仰と熱意に燃えた40代前半に日本の地を踏みながらもすぐに捕えられ、棄教の後、迫害、排斥のためにキリスト教を理解する目的で用いられる信仰についての書を綴り、日本人の妻を持ち人生のちょうど半分を幽閉されたまま背教者として暮らしたキャラ。『査?余録』の彼の死の記述は淡白な記録に過ぎないが、それゆえいっそう、その内なる孤独と悲しみについて想像をかき立ててやまない。
 キャラの死の23年後、宝永5(1708)年に《最後の伴天連》といわれる司祭が鹿児島の屋久島に上陸する。これがシドッチ神父である。シドッチはパジェスの『日本切支丹宗門史』に登場する最後の人名であり、切支丹屋敷に幽閉された最後の人物である。彼をこの屋敷にて尋問したのが新井白石であった。白石はこの尋問をもとに『西洋紀聞』を著した。
 白石はシドッチを尋問するにあたり、キャラが執筆した書物を「奉行の許より」借り受け参考にしたことが『西洋紀聞』には記されている。
 シドッチ神父は、それまで日本を訪れた多くの司祭のように、イエズス会やフランシスコ会といった大修道会に属する者ではない。教区司祭である。彼は、バチカンの布教聖省から宣教師として派遣された。教会裁判所関連の仕事に従事していたこともあり、豊かな学識を備えた優秀な司祭であった。一方の白石も、二度にわたる浪人生活などその生涯は波乱に富んではいたが、江戸中期に活躍した一流の儒学者、政治家であり、碩学として歴史に名を刻む者である。まさに洋の東西の二人の天才がこのとき出会ったのである。それは歴史的な邂逅であった。しかし時代は、それを実り多きものとすることを拒んだ。
 白石は、キリスト教の宣教は領土拡張の野心とは無縁であることを理解した。「彼国の人、其法を諸国にひろめ候事、国をうばい候謀略にては無之段々、分明に候」、そう彼ははっきりと書いている(「天主教大意」宮崎道生校注、平凡社、東洋文庫113『新訂 西洋紀聞』所収。以下、白石著作の引用はすべて本書による)。このような理解へと白石が至った、それは彼の優れた面として評価すべきことである。しかしそこには、白石が出会ったのが他ならぬシドッチ、国や修道会といった大きな後ろ盾を持たない宣教師であったという事実が大きくあずかっている、そう考えて間違いないだろう。
 しかしながら、それまでの為政者が抱いていたようなキリスト教への偏見から解放され、なおかつシドッチの学識豊かなことを十分に認め彼を高く評価しつつも、結局白石はシドッチが必死になって唱えたキリストの教えそのものを理解することはできなかった。『西洋紀聞』にはこう記されている。「其教法を説くに至ては、一言の道にちかき所もあらず、智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり。ここに知りぬ、彼方の学のごときは、ただ其形と器とに精しき事を、所謂形而下なるもののみを知りて、形而上なるものは、いまだあづかり聞かず」。白石はシドッチが解説する西洋の技術、学術が優れたものであることを認め、それに素直に驚嘆した。しかし、キリストの教えを説くシドッチの姿は、彼には愚者にしか見えなかった。天地創造からイエスの復活まで、それは馬鹿げた戯言にしか聞こえなかった。詳細に検証、考察する余裕はないが、ここに見られる白石の姿には、インカルチュレーションについて考えるうえでの重要な鍵が潜んでいるように思う。
 朱子学がその倫理基準であった白石のキリスト教批判は、次のように単純明快である。「デウスといへども、人をして皆ことごとく善ならしむる事あたはず、皆ことごとく教ふる事あたはずは、いかむぞまた、天地能造の主とは称ずべき」。またイエスの十字架のあがないについては「嬰児の語に似たる」と、にべもなく切り捨てている。理論としては他の排耶書とさしたる違いはなく、それ以上の理解に及んだ形跡は見られない。しかし、宗教的素養を白石が持っていなかったわけではないだろう。時代が異なれば、この両者の対話、まったく違う何かを生み出したかもしれない。
 白石はシドッチの処分について次のように幕府に答申した。
 「第一に、かれを本国へ返さるる事は上策也此事難きに似て易き歟。/第二に、かれを囚となしてたすけ置るる事は中策也此事易きに似て尤難し。/第三に、かれを誅せらるる事は下策也此事易くして易るべし」(「羅馬人処置献議」)。
 処刑することは簡単だが下策、命は助け囚人とすることはもっとも難しく中策、本国への送還は難しいようだが実は簡単で、それが上策だと白石は幕府に進言した。シドッチにとってもそれが最良であろうと彼は考えたはずである。しかし幕府は中策を採用した。殉教すら許さない、宣教師にとっては過酷な試練である。白石の近代的な人権意識が幕府を動かすことはなかった。
 幽閉の身分ではあったが、当初シドッチはそれなりの生活を営むことができる待遇で切支丹屋敷に置かれた。長助、はるという夫婦が従僕として付けられもした。しかし、この夫妻が後のシドッチの運命を大きく左右することになる。
 この頃、白石とシドッチの間に非公式な会談が何度か行われていたことを裏付ける史料の存在を古居智子が指摘している(『密行――最後の伴天連シドッティ』)。それは白石にとって、単にシドッチの有する西洋の技術をさらに吸収したいがためのものだったのだろうか。人間としての魅力をシドッチに感じ、愚者にしか見えなかった教えを語る彼を、真に理解したいという思いがそこにはなかったであろうか。
 正徳4(1714)年、先述の長助、はる夫妻が受洗を告白したことにより、シドッチは幕府によって屋敷内の地下牢に送られ、そのまま没してしまう。江戸時代後期の地理学者・間宮士信の『小日向志』には次のように記されている。「正徳四年午二月長助はるへ宗門を勧めけるによりて禁獄せられたるが同しき十月廿一日四十七歳にして没せり」(東洋文庫『西洋紀聞』所収による)。幕府の決定に白石はまったく関与していない。47歳というあまりにも早すぎる宣教師の死、それは白石にとっても無念であったに違いない。
 シドッチ以後、鎖国下の日本への宣教師来訪は途絶える。彼が最後の伴天連といわれる所以である。

切支丹坂

切支丹坂


庚申坂

庚申坂


伝通院本堂

伝通院本堂


 伝通院内・ジュゼッペ・キャラ供養塔

伝通院内・ジュゼッペ・キャラ供養塔

 切支丹坂を下り、今度は小石川方面に向かう。東京には坂が多く、またそれらの坂には数々の伝説が言い伝えられていたりする。この切支丹坂もまた然りである。今回取材へと向かう前、切支丹屋敷や切支丹坂に関する研究に多数目を通した。代表的なものに真山青果『切支丹屋敷研究』や川村恒喜『史蹟切支丹屋敷研究』などがある。また『青銅の基督』で知られる長与善郎は『切支丹屋敷』という戯曲を遺しており、本山荻舟と田中貢太郎というほぼ同時代の怪異譚を得意とした作家には「異説切支丹屋敷」という同名の短編小説がある。当初は、これらの資料をもとにし多少伝奇めいた話――八兵衛石という泣き声をたてる石の話などがある――にも触れつつ史跡を紹介するという構想をぼんやりと描いていたのだが、幾本もの論考を読み進むうちに、そうしたものへの興味がだんだんと薄らいでしまい、シドッチの伝記や白石の著作を読むことへと次第に関心が移っていった。
 坂を下り切り高架下トンネルを抜けると、前方に中学校の校舎が見え、その横に左手へと曲がっていく階段が続いている。庚申坂という名のこの勾配が切支丹坂と呼ばれていたこともあったそうだ。
 上り詰めると春日通りに出るので、右折し後楽園方面に向かう。次の目的地は伝通院である。
 伝通院前信号を左折するとすぐ、目の前に大きな山門が見えるのだが、近くまでいくと、何やら工事をしている。案内に従って、通用門から境内に入る。正面に立派な本堂がそびえる。少し離れた位置からではあるがスマートで美しい観音像をしばし鑑賞した後、境内を歩く。
 伝通院を訪れた目的は、ジュゼッペ・キャラの供養塔なるものがここにあるからなのだが、なぜかこれが見当たらない。改めて境内見取り図を見てみると、どうやら工事の影響で立ち入り禁止になっている場所にそれはあるらしい。念のため総合案内所の女性に訊ねてみた。すると、供養塔は来年3月まで続く工事のため現在別の場所に移設してあり見ることができないのだという。工事完了後については、旧山門に比べ新山門は幅が広くなったので、供養塔を旧地にまた据えるかどうかは未定で、完了後改めて検討するのだという。
 残念だが仕方がない。諦めるしかないのだが、何とも心残りなので、工事地を囲う黄色い鉄柵の向こう、それがあったのであろう辺りに目を凝らしてみた。すると、なぜかあるのだ。写真で見たことのある帽子をかぶったような特徴的な形の供養塔が。距離がだいぶあるので、カメラのズームを最高にし液晶画面で確認した。間違いない。黄色の金網に覆われるようにして、やや黒ずんだ供養塔は、確かにそこにあった。
 案内の女性の勘違いなのかと最初は思ったのだが、彼女がいうところの移設された場所というのが、視線の先のあの場所のことなのかと思い直した。確かにあの状態ならば、現在は見られないというしかない。
 碑に刻まれた文字を読むこともままならないので、さすがにここで改めてキャラについて想いを馳せることなどできなかった。しかし、半分不運で半分幸運という、少々おかしな体験だった。

 伝通院を出て再び後楽園方面へ。後楽園駅で地下鉄南北線に乗り駒込で山手線に乗り換え日暮里駅下車。次の目的地は瑞輪寺である。先ほどまでぽつぽつと降っていた雨は止んだが、ずいぶんと蒸し暑くなってきた。谷中霊園の中央を抜ける道を歩きながらひたすら汗を拭っていた。
 瑞輪寺の近辺は現在「谷中」という地名だが、以前は「谷中初音町」と呼ばれていた。日暮里駅の隣駅の名称として「鶯谷」という美しい名が残ることから理解されるとおり、鶯の初音にちなんだ名である。偶然にも、先に訪れた切支丹屋敷跡のあたりも以前は初音町と呼ばれていた。江戸の頃には「初音の里」といわれ、多くの人が季節を告げる鳥の声を楽しんだらしい。それは切支丹屋敷にまつわって巷間に伝えられた怪談話とはまったく懸絶した印象を与えてくれる。結局、東京の山の手と下町、二つの初音町を連続して訪れたことになる。そんな偶然はおもしろい。風情ある由緒ある地名は文化遺産だといってよいだろう。合理性も否定できるわけではないが、歴史や民俗を伝える地名については、可能なかぎり保存に努めてほしいと思う。

瑞輪寺山門

瑞輪寺山門

 いかにも下町らしい静かな横丁を通って山門の前に立つ。瑞輪寺と金色の文字が光る額の下の大幕には大きく葵の紋が染め抜かれている。内に入り本堂を見上げると、その屋根の大棟にも同じく葵紋が金色に輝いている。開山者である日新上人は徳川家康幼少時に学問教育の師範を務めた人であり、その謝意を表すため、天下統一の後に家康によって当寺は開基された。それゆえの葵紋なのである。
 ここを訪れた目的はフェレイラの墓である。早速左手に広がる墓地に入ろうとしたが、「お墓参りの心得」なる看板が目に飛び込んできた。そこには十箇条が記されているが、その第一にこうある。「先ず本堂のご本尊さまにお参りしましょう」。お参りはせずともあいさつぐらいするのが礼儀だろう。そう思い、本堂へと足を向け替えた。数段の石段を上り賽銭箱の前に立って堂内をのぞくと、作務衣を着た5人ほどの若い僧侶が掃除をしていた。

 フェレイラの墓

フェレイラの墓

 一礼の後あらためて墓地へ。フェレイラの墓探しである。探すべきは沢野忠庵の沢野姓ではなく、フェレイラに南蛮医学を師事しその娘婿となった杉本忠恵の杉本姓。それなりの広さのある墓地、端から一基一基見ていかねばならない。暑さの中覚悟を決めたのだが、意外にあっさりと見つかった。
 墓所の向かって右、丈高い墓石の左側面一行目に「忠庵浄光先生 慶安三年十一月十一日」と確かに刻まれている。正面一行目には「初代 智峰庵法橋忠惠宗信居士」とある。これがフェレイラの娘婿である。つまり娘婿であり弟子であった忠恵の家の墓所に、「先生」の敬称が付けられてフェレイラは葬られているのである。
 墓石を眺めながら頭の中にはさまざまな思いが駆け巡った。フェレイラは晩年再びキリスト教の信仰を取り戻したという説があるが、真偽のほどは定かではない。たたずむわたしの目の先で元宣教師の日本名は、南蛮医学の「先生」として、葵の紋の輝く徳川家ゆかりの寺の墓地の中、夏の厳しい日差しを浴び続けていた。

文京区・台東区・中央区・港区・中野区(7月27日)  (2)

浅草教会内・浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

浅草教会内・浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

 日暮里駅に戻り再び山手線に乗り、秋葉原で乗り換え浅草橋駅下車。浅草教会に向かう。
 浅草教会の聖堂裏手には、鳥越の殉教を記念する碑が建っている。緑がかったやや丸みを帯びた石に、「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」と、きりりとした楷書で刻まれている。この碑は2002年に浅草教会によって建てられた。
 隅田川に注ぐ鳥越川(現在は暗渠となっている)のほとりにあったという鳥越山刑場は、慶長から元和の前半、つまり江戸最初期の刑場である。慶長18(1613)年、7月1日に8名、その翌日に14名、約1月後の8月5日に5名のキリシタンが当地で斬首された。教会の碑は、ここに同年7月5日に獄中死した1名を加え、計28名の殉教者を顕彰している。
 浅草の地には、フランシスコ会のルイス・ソテロによってハンセン病の施療院と礼拝堂が建てられた。しかし、悲劇的なことにこれが上記殉教の引き金となってしまう。パジェスには「将軍様は、見すぼらしい礼拝堂も一種の城のようなものだと言う報告を受けとると、江戸とその附近を厳重に調査せよと命令した」(『日本切支丹宗門史』上巻)との記述がある。そのときソテロも処刑されるはずであったのだが、遣欧使節の準備を進めていた伊達正宗がその宣告の取り消しを願い出、彼は出獄している。
 浅草教会の裏手は立木の緑も鮮やかで、大通りからは一本内に入っているので静かだ。ガードレールに寄りかかり400年前の悲劇について考えた。すぐ近くの喫煙所では、幾人かの若いサラリーマンが紫煙をくゆらせていた。

十思公園

十思公園

 次に、地下鉄を乗り継ぎ、日比谷線小伝馬町駅そばの伝馬町牢屋敷跡を訪れた。原主水が入牢し、ペトロ岐部の殉教地となった場所である。現在の十思公園、大安楽寺、身延別院などを含む一帯が牢屋敷であったとのことである。
 この牢獄が如何に過酷に収容者を取り扱ったかは、実際にここに入牢していたフランシスコ会司祭ディエゴ・デ・サン・フランシスコの報告書に詳しい(浦川和三郎訳、『キリシタン研究』第四輯所収)。無いに等しいほどしか与えられない極度に僅少な水と食糧、糞尿や死体までもそのままにされる劣悪な衛生状態、横になることはおろか座ることさえままならない狭隘な空間、読むことが辛くなるようなさまをディエゴは綴っている。
 「釜の中のように暑い」ほとんど光も射し込まない閉ざされた空間の中、それでも司祭は司牧者としての務めを果たした。「囚徒百五十人の中、十人か十二人はキリシタンであった。彼等は、私を見て大いに慰められ、早速、告白の準備に取掛った。この檻の中に居た十八カ月ばかりの間に、殆ど全部がキリシタンとなった。その間に、檻の中で六十人の未信者に洗礼を授けた。霊的修行を以て、皆に洗礼の準備をさせ、行うべき事、信ずべき事を教えた」。
 元和9(1623)年7月、徳川家光が江戸幕府第三代将軍の宣下を受けてから、キリシタンへの迫害はいっそう苛烈さを増していく。火炙り、水責め、逆さ吊り、これほどの残虐な行為を人間がなしえたということに戦慄を覚える。

大安楽寺内・地蔵尊

大安楽寺内・地蔵尊


大安楽寺内・伝馬町牢石垣の一部

大安楽寺内・伝馬町牢石垣の一部

 直接尋問したか否かは定かでないが、家光はペトロ岐部らに対する審問に臨席している(五野井隆史著、H・チースリク監修『ペトロ岐部カスイ』参照)。その後この吟味は井上筑後守に任され、最初は切支丹屋敷にて、最後は小伝馬町にて、それは行われた。井上の吟味にはフェレイラも加わったが、岐部は「彼に向って堂々と非難した。面くらったフェレイラは、その場を外した」(『日本切支丹宗門史』下巻)。井上は、一向に教えを捨てようとはしない三人の司祭を、ついに穴吊るしの拷問にかけた。はや老齢といえる年齢に達していた二人の司祭はこれに耐ええず「念仏を申させ」られ、つまり転んだのだが、岐部は教えに殉じた。「転び申さず候。吊るし殺され候」(比屋根安定編、切支丹文庫第二輯『南蛮寺興廃記』による)、『契利斯督記』に記されたこの有名な言葉によって、死に至るまで貫かれた岐部の不屈の精神をわたしたちは知ることができる。
 ちょうど昼休みの時間の十思公園は、休憩を取るサラリーマンやOLで賑わっていた。向かいの大安楽寺には刑場跡の碑があるのだが、その境内に建つ、山岡鉄舟の筆により「為囚死群霊離苦得脱」と記された地蔵尊のあたりが死刑場であったらしいと、公園前の解説の板にはある(地蔵の隣には「江戸傳馬町牢御?場跡」の碑が建ち、その向かいには「牢石垣之一部」も遺されている)。岐部の殉教もそのあたりでのことだったのだろうか。それは分からない。
 列福式の影響で巡礼者は増えたであろうが、付近のオフィスで働く人たちで、1600年代の壮絶な歴史に思いを馳せる人はあまりいないだろう。公園の解説には、安政の大獄については記されているが、キリシタンの悲劇についての記述は一行もない。

札の辻交差点

札の辻交差点

 再度地下鉄を乗り継ぎ、今度は三田の殉教碑へと向かう。最寄り駅はJRならば田町駅、地下鉄ならば三田駅になる。今回は都営浅草線を使い、三田駅で下車した。こちらのほうがやや近い。
 地上に出て第一京浜(国道15号)を西に向かって歩くと、ほどなく札の辻交差点に出る。横断歩道からは、国道1号線の慶應義塾大学方面(北)の先に、すらりとした東京タワーの姿を見ることができる。札の辻とは高札が立てられた場所である。高札場は、辻のように人通りの多いところに設けられたわけだが、とくにここは品川から日本橋へと続く江戸の表玄関である。

元和キリシタン遺跡碑

元和キリシタン遺跡碑

 交差点を横断すると右側に、窓を縁取る赤いラインが印象的な住友不動産三田ツインビル西館という高層ビルがある。その手前に公開空地があり幅広いなだらかな階段が奥へと続く。それを上り詰めると正面に「都旧跡 元和キリシタン遺跡」と刻まれた柱状の碑が建っている。やや見えにくいのだが下のほうに「智福寺境内」とも彫られている。もともとこの碑はこの近くにあった同寺境内に東京都によって建てられた。その寺のあたりが処刑地であったと推測されるからである。現在智福寺は他に移転し、碑は現在地へと移された。
 188福者の一人、原主水はこの地で殉教した。元和9(1623)年のことである。伝馬町の牢に囚われていた原、アンジェリス、ガルベスら50人は、日本橋、新橋を通り、この地まで引き回されてきた。パジェスは「刑場は、最初、城に続く目ぬきの広場の筈であったが、これを一層物々しくするために、江戸から京都への街道にある丘が選ばれた」(『日本切支丹宗門史』中巻)と記している。幕府は見せしめを演出したのだろう。しかし、火炙りにされた彼らは、声の続くかぎり祈りを唱え、説教を続けた。死後、その場に取り残された遺骸は、多数の信者が持ち帰った。それを知った家光は「キリシタンは、見つかり次第全部、火炙りにせよ」と命じ、「約三百人の者が召捕られた」とパジェスは伝えている(同前)。まさに狂的としかいいようのない家光の姿が、まざまざと浮かんでくる。
 碑のある公開空地は、奥まっており人の通りもまばらで、それなりの広さがあり、夏ならば茂る緑の下に日差しを逃れることもできるので、迫害について殉教について思いを巡らすにはよい場所と思う。わたしも、暑さの中所々を巡りやや疲れてきた体を休ませつつ、原について、そして苛烈な状況の中でしか生きることのできなかった多くの江戸のキリシタンについて、しばし黙想した。高台の故か、それまでまったく感じられなかった風がわずかに吹き抜け、ほんの少し頬の熱気を取り去ってくれた。

 高輪教会内・江戸の大殉教顕彰碑

高輪教会内・江戸の大殉教顕彰碑

 次に向かうのは高輪教会。ここから山手線ならば一駅分。歩けないことはない。これまでの特集の取材では間違いなく徒歩で向かう距離である。しかし、勝手知ったる東京の地下鉄、当然ながら甘えが出る。大して考えもせずに二駅分乗車した。
 都営浅草線の高輪台駅下車。プリンスホテルと東武ホテルを目印に進めば、道を間違えることはない。JR品川駅からならば高輪口から一本道。「柘榴坂」と名付けられた坂の途中に教会はある。柘榴坂というのもなかなか魅力的な名だが、由来は詳らかでない。
 聖堂前左側、道に背を向けるように、江戸の大殉教顕彰碑は建っている。細い字で刻まれた碑文は元和9年の殉教への「崇敬の念を表掲する」ため碑を建てたことを記しているが、「茲に在東京男子カトリック教徒は此の事績を想起し此の感銘を石に刻み」といった表現は、今ならばちょっと考えられない。間違いなくクレームが来るだろう。この碑も元は前述の智福寺に昭和31(1956)年に建てられ、その後高輪教会に移設されたものである。
 坂の下、品川駅の駅前を南北に走るのが、先ほども触れた第一京浜、江戸の呼称を使えば東海道である。茗荷谷から品川まで。大雑把にいえば、ここまで山手線の東側を半周し江戸の殉教者ゆかりの地を巡ってきたことになる。改めていうまでもなく、その円の中心は、家康も家光も居城した江戸城である。

 蓮華寺内・山荘之碑

蓮華寺内・山荘之碑

 ここから先は多少付け足しのような感じになる。
 品川から山手線に乗り高田馬場駅で西武新宿線に乗り換え鷺ノ宮駅下車。妙正寺川という名の小さな流れに沿って南に歩いていく。川沿いに咲く紅、桃、紫などの立葵がいかにも夏らしく美しい。スーパーマルエツ付近で川を離れ住宅街に入りそのまま南下する。
 鷺ノ宮駅からは徒歩15分程度だろうか。到着したのは蓮華寺という日蓮宗の寺院である。住所は中野区大和町4丁目。なお、同じ中野区内の江古田にやはり日蓮宗の同名の寺があるので、実際に訪れる際には注意してほしい。
 ここには山荘之碑なるものがある。裏口から境内に入りまずは本堂へ。堂前で少したたずんでいると、脇から若い僧侶が現れ「ごくろうさまです」といわれてしまった。
 さて、目的の山荘之碑はどこにあるのか。先ほどは通って来なかった山門のほうまで、左右に眼を配りつつ歩いたが分からない。碑自体は写真で見たことがあるので形は分かっている。二往復ぐらいしたが、やっぱり分からない。再び本堂の前まで戻ると、住職らしき人が数人と立ち話をしている。近づくと「何か用ですか」と尋ねられたので「山荘之碑はどこにありますか」と訊いた。するとすぐ目の前を指さされてしまった。何のことはない。本堂前の石段横にあったのだ。何故だか目に入らなかった。
 「山荘之碑」と正面に太く隷書体で刻まれた碑が屋根に覆われている。中心に入る大きな亀裂がその経てきた年月を物語っている。
 「山荘」とは切支丹屋敷のことである。この碑は文化12(1815)年に、切支丹屋敷跡地の一部を下賜された毛利家の敷地内に建てられた。切支丹屋敷はシドッチの死の78年後、寛政4(1792)年に廃止され、その土地は幾人かの大名の下屋敷となり分割されていく。毛利邸はその一つである。その後碑は、毛利家とゆかりの深かった蓮華寺に移設された。蓮華寺は、当時は関口台町(現・関口二丁目)、関口教会にほど近い、現在は関口台町小学校が建つあたりにあったのだが、明治末期に現在地に移転している。
 この碑の、実は表側よりも裏側が見たく訪れたのである。石段を数段上って裏から覗きこんだが、植込みがあり柵も立っていて近づけず、細かな字を読むことはとてもできない。望遠での撮影も試みたが、大木の陰で薄暗くもあり柵も邪魔で上手くいかず、いくつかの文字を拾い読みできるだけであった。
 裏側に刻まれているのは、前出の間宮士信が毛利政時の依頼により物した切支丹屋敷の略記なのであるが、後段では、岡本綺堂の戯曲『切支丹屋敷』の材料となった、屋敷に囚われ処刑された遊女朝妻の逸話が語られている。
 漢文の碑文全文は川村恒喜『史蹟切支丹屋敷研究』や『文京区史 巻二』などで読むことはできる(『文京区史』には訳文も併記されている)。朝妻の話というのは、牢獄に囚われ処刑されようとしていたその遊女が、獄のそばの桜の木を指さし、この花の咲くを待たずに死ぬのは無念だといったところ、役人がそれを憐れみ花の咲くのを待って刑に処したという、事実なのか伝説なのか定かではない物語である。
 いかにも日本人好みの物語である。それゆえ、幾人かの画家がこの話に材を採った作品を遺している。中でも大正から昭和初期にかけて活躍した女流画家・松本華羊のそれ(タイトルは「伴天連お春」)は、桜の艶やかな美しさと遊女の儚げな哀れさのコントラストが際立つ傑作である。
 仮に、もしこの朝妻の話が事実ならば、彼女はキリシタンだったのだろうか。それは分からない。伝馬町の牢獄が火事にあった際に、その囚人を一時的に切支丹屋敷に移したということもあったようなので、彼女もそういった一人だったのかもしれない。川村恒喜もその可能性を示唆している。
 ただ、この切支丹屋敷にまつわる朝妻の物語を記録的に記しているのは、この山荘之碑のみといってもよいのである。そういった意味で実に貴重な碑であり、その碑文なのである。寺に文句をいうわけではないが、裏面の碑文を間近く見ることができるよう、周りを少々改良してはもらえないだろうか。碑の隣に解説の板を立てている中野区教育委員会によって働きかけてもらえるならばありがたい。

高徳寺内・新井白石および同夫人の墓

高徳寺内・新井白石および同夫人の墓

 次に訪れたのは、この日最後の目的地、地下鉄東西線落合駅のほど近く、早稲田通りに面して建つ高徳寺。住所は中野区上高田1丁目になる。ここには新井白石が眠っている。
 墓地に入ると、さして苦労もせずその墓は見つかった。都指定の旧跡なので、墓所の前には「新井白石之墓」と墨書された木の札が立っている。
 墓所の正面奥、石造りの柵に囲まれて2基の背の低い墓石が並んでいる。「新井源公之墓」と刻まれた向かって左が白石、隣は夫人の墓である。白石はこの高徳寺に寄食していたことがあり、ここが墓所となっている。
 和魂洋才、この言葉の源は白石に求めることができるだろう。白石の後に、吉宗による洋書輸入規制の緩和もあって、江戸の世では蘭学が隆盛になる。
 和魂洋才という言葉には、正負の両面があると思う。新たな文化に接したとき、日本人にはそれを無条件に受け入れてしまう傾向が強い。そういった傾向は、古より長い時間を掛けて培われた、自分たちの優れた精神、文化、芸術などの独自性を脅かし、場合によっては、いとも簡単にそれを捨て去ってしまうこともある。鎖国が解かれた明治の世、アメリカ文化が大量に流入した第二次大戦後、こういった時代を思い浮かべれば、それは容易に理解できるだろう。和魂洋才の思想はそれに歯止めを掛けうるものだとも考えられる。
 一方問題なのは、「和魂」というものをどう捉え、それにどの程度の幅を与えるかということである。端的にいえば、精神性が国家と結びついたとき、それは危ういものになる。白石が信奉した朱子学は、近代の皇国史観を形作るのに確かな影響を与えている。
 白石は柔軟な人であったろう。シドッチによって示された「洋才」の真価を見抜き、日本の将来を見据えたうえで、それを吸収しようと努めたことは間違いない。キリスト教を理解しえなかったこと、その神秘を荒唐無稽としか捉ええなかったこと、それはもちろん白石自身の思想に起因することなのであろうが、その因は、すべて彼個人の限界にのみ求めうるのだろうか。やや夕の雰囲気に変わり始めてきた空の下、その墓石を見つめながら、つらつらとそんなことを考えていた。

 番外編・新宿区(7月16日)
 酷暑の土曜日、妻と小学生の娘二人を連れ、およそそのメンバーには似つかわしくない、新宿二丁目というちょっと特別な響きを持つ繁華街に向かった。太宗寺という寺にある、以前からじっくり鑑賞したいと思っていた閻魔像および奪衣婆像を見るためである。毎年7月の15、16日に御開扉が行われ、堂の内へと入り二体の像に間近に接することができる。
 新宿御苑の北側、まさに新宿二丁目のど真ん中といってよいところに太宗寺は建っている。昼間のこの界隈はさして騒がしくはないが、それでもその境内は、まるで周囲との境に目に見えぬ被膜が張っているかのように、閑寂で静謐さと落ち着きに満ちている。
 正面を入って右手に大きな銅の地蔵菩薩坐像がある。江戸六地蔵の一つだそうだ。その隣のお堂に、目指す閻魔像と奪衣婆像は安置されている。
 まずはその大きさに圧倒される。正面に鎮座する閻魔は見上げる高さ5.5メートル、左手の奪衣婆は2.4メートルだそうだ。
 この二体の像を、いったいどのように表現したらいいだろう。基本はリアリズムなのだが、閻魔のつりあがった極太の眉、目や口の過剰な大きさ、奪衣婆の顔の皺や肋骨の浮き出し具合、垂れ下がった萎びた乳房などは、ある意味戯画的であるといえなくもない。表現者は畏怖へとつながるような恐怖の具現化を目指したのだろうが、正直恐怖を通り越してしまっている。しかしそれこそが、この像の魅力なのだ。異界の住人としての存在が際立ち、ただそこにあるだけで生じる圧倒的な迫力が見る者に迫る。薄暗い堂の中、その圧迫を微妙にかわしながら、片膝立てた老婆の脛を、そこに浮き出る骨の鮮やかな彫りを、滴る汗を拭いつつ、しばし凝視した。
 近代的な建物の本堂では、縦横ともに4メートル以上もある大曼荼羅や、幾幅かの地獄絵図が展示されている。冷房の効いた中で涼む意味もあってそれらをゆっくりと鑑賞した後、隣の社務所に向かう。中に入るわけではない。その玄関先に切支丹燈籠(織部燈籠)があるのだ。

 太宗寺内・キリシタン燈籠

太宗寺内・キリシタン燈籠

 「隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもの」「竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれている」。今まで全国のいくつかの切支丹燈籠を見てきたが、それらの多くと同様、このような中途半端でいい加減な解説が隣に立つ板には記されている。キリシタンとの関係は明らかではないのだから、一説に過ぎないということをはっきりと書くべきだろう。
 この燈籠は、現在の新宿御苑一帯を江戸の頃に下屋敷として拝領していた内藤家の墓所から、昭和27年に出土したものだそうだ。実際掘り出されたのは竿の部分だけで、上部の笠や火袋部分は復元されたものということなのだが、上と下とで新旧の差異をまったくといっていいほど感じない。また、竿部分の肉彫りにはほとんど傷もなく、摩耗もあまり進んでいないように見える。白御影の色も、夏の強い日差しを浴びて輝いている。
 地獄の番人の巨大彫刻を鑑賞した後、切支丹燈籠を見る。なんだか奇妙な感じがしないでもないが、新宿の歓楽の巷に残る異空間、その存在は知っていると面白い。あまり脱線するわけにはいかないが、仏教美術に関心を持つ人のために一つだけ付言しておくと、この太宗寺のすぐ近く、花園通り沿いに正受院という寺があり、そこにも奪衣婆像がある。なぜかは分からぬが横長のぶ厚い真綿を頭にすっぽりと被った、こちらもなかなか魅力的な像である。

神奈川の史跡

鎌倉市(7月29日)
 朝、9時少々前に北鎌倉駅のプラットフォームに降り立った。平日で時間もまだ早く、雨もよいの空でもあり、観光客の姿はあまりない。
 歴史ある寺社を巡るのが好きで、なおかつ近場だということもあって、子どものころから鎌倉には何度も訪れている。出発点を北鎌倉にするか鎌倉にするかはそのとき巡るルートによって変わるが、北鎌倉ならば、通常改札を出て左、つまり鎌倉方面に向かう。右に歩き出したことは一度もない。今回はその右に初めて向かう。目指すは時宗の寺院、光照寺である。

光照寺山門

光照寺山門

 人通りのあまりない鎌倉街道を進み、光照寺入口と書かれたバス停の先の信号を左折、小さな橋を渡りややつま先上がりの道を少し行けば山門前にたどり着く。駅から5分ほど、ひっそりとした住宅街の一角に建つ寺である。
 山門の欄間には十字の紋が掲げられ、右手の柱には「切支丹遺構 クルス門」とある。十字紋といえば島津家の「丸に十字」がよく知られているが、これは中川クルスというものだそうで、十字の天地左右にさらに棒の入った特徴的な紋である。
 中川家は鎌倉時代にまで遡ることできる家号のようだが、その血脈にあっては、戦国の世に活躍した中川清秀が殊に有名であろう。高山右近の主君であった和田惟政を討ち取り、茨木城主となった武将である。当時の主君は荒木村重、つまり和田惟長の死後は、右近とともに村重に仕えたことになる。その後、信長、秀吉と主君は変わり、柴田軍との賤ヶ岳の戦いにおいて討ち死にした。
 インターネットで検索すると、この清秀がキリシタンであったというようなことを書いているサイトがいくつもヒットする。だが、それらが何を根拠にそういうのかはよく分からない。清秀(あるいはその息子の秀政)がキリシタンであったのか否か、わたしには判断がつきかねるが、ただルイス・フロイスは、『日本史』において清秀のことを、右近の「大敵であった」と記している(松田毅一、川崎桃太訳、1巻第7章および5巻第58章)。
 島津家の十字紋を見たザビエルが彼をキリシタンであると誤解したという話は有名だが、島津はキリシタンではない。したがって、十字即キリシタンという発想は誤謬を犯す可能性がある。
 玄関の引き戸を開けると、奥に住職が座っておられた。昨日電話で取材申し込みをした者だと告げると「ああ、言ってたね」とのこたえが返ってきた。本堂に招き入れていただき話を伺う。
 最初のあいさつ同様、住職は気さくに話してくださる。ここに具体的な内容を書くことは控える(というか書けない)が、あいまいな世の中や宗教界を批判する毒舌が冴える。
 信徒、司祭、修道者など、カトリック関係者が当寺を訪れることは多いそうだ。外国人の修道者が訪ねてきたことも幾度かあったそうで、言葉がよく通じなかったことなどを面白く話してくださる。
 鎌倉にはいわゆる「鎌倉五山」をはじめとして禅宗の大寺院が多い。住職は「ヨーロッパの人たちは禅宗には興味を持つが、お念仏の宗旨(浄土宗、浄土真宗、時宗など)には興味を持たない。それは念仏宗がカトリックと似ているからだ」とおっしゃる。そんなところを切り口にして、禅宗と念仏宗の違いを分かりやすく、笑いも誘いつつ説明してくださった。
 しばらく楽しい話を聞かせていただいた後、住職は奥から2基の燭台を出してくださった。キリシタンと関連があるというこの品を拝見させていただくため、今回当寺を訪れたのである。普段は非公開なため、あらかじめ電話でお願いし了解をいただいていた。
 「普段2つは見せないんだよ」、また住職特有の言い回しをもって2基の燭台を目の前に置いてくださった。「2つとも江戸時代のものだね」、そうおっしゃる。

光照寺蔵・燭台

光照寺蔵・燭台

 大小2基の燭台、確かに日本のものという感じではない。中心の細い部分に丈の高いほうは8つ、低いほうは5つ突起がある。仏教にとっても燭台は、花瓶、香炉とともに三具足と呼ばれる基本的な仏具であるわけだが、「仏教のロウソク立てにはこんな形はありえない」と住職もおっしゃるように、確かにこの燭台が仏壇に置かれていれば相当な違和感があるだろう。ロウソクに火を灯し、片方から光を当てると、壁にぼんやりと十字が浮かぶのだそうだ。歴代の住職はこの燭台に関心を示すことはなく、ただ変わったものがあるなと感じる程度で、いわば捨て置かれていたのだと住職はおっしゃったが、本当に捨てられることがなくてよかったと思う。
 鎌倉におけるキリシタンの存在については、それを示す史料がほとんどない。ただ『契利斯督記』の中の「切支丹出で申す国所の覚」には、鎌倉から「宗門五六人」が見つかったという記述がある。したがって、その後この地にキリシタンが潜伏し生活していたという推測は十分成り立つ。
 光照寺は、潜伏キリシタンの葬式を行い、戒名も与えていたのだという。潜伏キリシタンたちはいずれかの寺の檀家となっていたわけであるが、これもそういったことなのだろう。
 彼らの名簿がフィリピンのルソン島で見つかり(住職によれば、それは貿易船に乗せられルソンまで運ばれたのだそうだ。なぜそのようなものをルソンまで運んだのか、その詳細は分からない。来日した多くの宣教師たちとゆかりの深いルソンという地自体に不思議はないが、潜伏キリシタンと外国人宣教師との間で通信が行われていたとは考えにくい)、光照寺の過去帳と照合した結果、色々と一致が見いだされたとのことである。ただ庶民ゆえ当然苗字がないため、詳細な追及は不可能に近い。
 当寺のキリシタン遺物については、数十年前に大船教会の主任司祭であったルメ神父(レデンプトール会)が調査したことがあるという。その調査記録、現時点ではよく分からないが、調べたうえ、ぜひ読みたいと思う。

光照寺蔵。中川クルス紋

光照寺蔵。中川クルス紋

 次に、本堂欄間に額に入って掲げられた中川クルス紋を見せていただいた。山門にあるのと同型だが、実はこれが本物なのである。劣化が激しく、また盗難を避けるため、実物はこのような形で保存し、山門に掲げられているのは、これを忠実に再現した、いわばレプリカなのだそうだ。
 なぜこの中川クルス紋が光照寺にあるのか。住職によれば、没落した中川家の者がこのあたりの山に住んでいたことがあり、彼らがまた別の場所に落ちていったとき、残された門をこの光照寺に移築したとのことだ。松の木でできたかなり朽ちた門だったらしく、門自体は建て替えたが、そこに据えられていた紋は取り外し、新たな門に掲げたのだという。
 また中川家の所蔵であったという釈迦坐像も当寺にはある。室町仏らしいが、これについては内部調査も行ったそうだ。仏像の内部から何かが現れるということはよくある。しかし何も出ては来なかったとのことである。
 玄関先で、最後まで愉快に話してくださる住職に見送っていただき寺を後にした。光照寺は別名「しゃくなげ寺」とも呼ばれている。ならばゴールデンウィーク頃か、咲き誇るその花を見に再び訪れてみよう、そう思った。

 具体的には書かなかった光照寺の住職との会話、その内容から多少気が引ける思いがしたのだが、次に東慶寺に向かった。東慶寺には今まで何度も訪れている。小林秀雄、和辻哲郎、高見順などの墓があるので有名だが、その宝蔵にキリシタン遺物といわれるものが一点ある。
 久し振りだったので鶯の声に耳を傾けつつ墓地を少し散策した後、宝蔵に入る。階段を上るとすぐに目に飛び込んでくる位置、陳列室の真ん中にそれは飾られている。蓋の天部分にIHSとイエズス会の紋章が描かれた「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」である。聖餅とはホスチアのことだ。
 確かに美しい。全体を包み込むように描かれた葡萄唐草の金の蒔絵は、色褪せることなく輝いている。しかし、これがなぜ、どのような経緯で東慶寺所蔵のものとなったのか、その詳細は不明なのである。
 いわゆる南蛮漆芸の作品なのであるが、仮にこれがキリシタン遺物、さらに聖具であるということならば、キリシタン大名が宣教師に贈るため作らせた、それしか考えられない。その品が、目立つような傷もなく、これほどまで見事に今の世まで日本に遺されているというのは、ちょっと不思議な感じがする。帰国する宣教師が自国に持って帰り、その国で発見されたというほうが自然な感じがする。たとえば、宣教師の所持品などでイエズス会紋章をたまたま見た蒔絵師が、異国趣味でそれを装飾として施して作品を仕上げ、単なる茶の湯の道具として用いられていたもの、こんな推論は成り立たないだろうか。これは国の重要文化財なのだが、なぜホスチアを入れる容器と限定されうるのか、それを知りたいと思う。
 この聖餅箱と並んで東慶寺の所蔵品として有名なのが「初音蒔絵火取母」という香炉。東京での取材に引き続きここでも初音だ。今回の取材、よくよく初音に縁がある。
 源氏物語の「年月を松にひかれて経る人に今日鶯の初音聞かせよ」の歌が図柄として描かれているのだが、こちらも実に美しい。鶯の金蒔絵も印象的だが、ふくよかで柔らかく安定感を感じさせるフォルム自体が素晴らしい。
 小雨が落ちてくる中、庭の桔梗や撫子を少し楽しんでから東慶寺を後にし、駅に戻った。せっかく鎌倉に来たのにこれで終わりかと、少々残念な気持ちをプラットフォームに残しつつ、横須賀線に乗り込んだ。

大磯町・澤田美喜記念館(同日)
12時過ぎに大磯駅に着く。約束の時間は13時なので、しばし付近を散策した。
 澤田美喜記念館は大磯の駅前、エリザベス・サンダース・ホーム敷地内にある。入館するには事前に予約を入れなければならない。
 いうまでもなく澤田美喜とは、GIベビーなどとも呼ばれた混血孤児のための施設、エリザベス・サンダース・ホームの創始者である。三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の孫娘であり、外交官・澤田廉三の妻であるが、戦後、私財を投じ、差別を受けていた混血児のために同施設を設立した。また、キリシタン遺物の収集家としても知られており、この記念館には澤田さんが収集した品々851点が展示されている。彼女は聖公会の信者である。

澤田美喜記念館

澤田美喜記念館

 敷地の門を通り、木々が鬱蒼と茂る中に続く石段を上っていくと、三角のすらりとした建物が見えてくる。その向かいには切支丹燈籠(織部燈籠)が据えられている。
 建物に入り来意を告げる。館内を案内してくださったのは、おだやかな声と柔らかな表情が印象的な堀井明さんである。
 展示室に入るや否や、驚いた。圧倒された。大変な点数の収集品である。とくに、いわゆる「マリア観音」のような像の数が圧巻で、脇、正面、中央に所狭しと並んでいる。
 シドッチ所有の品であった、《親指のマリア》として知られる聖母画像――これは長崎で発見されたのだが、新井白石が『長崎注進邏馬人事』に残したシドッチ所持品の詳細なスケッチによって、彼が携えてきた品であることが確定されたのである――をはじめ、東京国立博物館のキリシタン関連コレクションは、もちろん一流のものであり、貴重な品が多い(数年前に特集陳列でじっくりと見る機会があったのだが、このような陳列は数年に一回程度行われているようだ)。しかし、少なくとも像に関しては、これほどの数はないだろう。数だけでいえば日本一かもしれない。
 それが一個人のコレクションなのである。まさに凄まじいばかりの熱意だ。堀井さんは戦前から澤田さんがこれらをこつこつと集めていたことを説明してくれたが、この戦前からというのが大きかったと思う。戦後、こういった品々は外国人好事家がずいぶんと買い集めてしまった。だから、澤田さんがなさったことはこれらの散逸を防いだのだ、そういえる。そして、それが彼女の死後このように一般公開されているのだから、何ともありがたい。館の設立は1988年。澤田さんの死の8年後のことである。
 もちろん他所で同様の品を見たことがあるといったものもあったが、気になる品はいくつもあった。洋画の技法を早い時期に学んだ江戸中期の絵師・司馬江漢の油絵「少年イエス像」(着物姿の不思議な絵だ)、シーボルトが庭の柿の木を使い彫ったというマリア像、高山右近作と伝えられる「マドンナ像」、細川ガラシャやトマス小崎の遺品などである。いずれも事実であるならば第一級の資料となるであろう。出自等について、詳細な研究が進展することを願いたい。古文書関連は数は多くはないが、『南蛮寺興廃記』や『破提宇子』などがある。
 奥の右手には、宣教師が持ち込んだものであろう、やや大型の聖母子像を囲むように、木彫、白磁、陶製、鉄製など、さまざまな「マリア観音」が飾られている。中国風のものも多い(なお、昨年の特集でも触れたことだが、チースリク師が指摘するように、潜伏キリシタンがそこに聖母マリアを託し、実際に彼らの信心の道具であった観音像のみを「マリア観音」と呼ぶべきであって、出所が不明瞭なものを同じようにそう呼称すべきではない。仕方がない面もあるとは思うが、ここに陳列された多くの像の由来がはっきりとしていないのは残念である)。
 能勢家に伝わる遺物を紹介するコーナーもある。ここに妙見菩薩像があるのだが、その裏面には磔刑キリスト像が隠されている。昨年の特集で妙見菩薩と矢筈十字の組み合わせとキリシタンの関係について少々否定的な意見を書いたが、もしこれが確かな品ならば、考えを改めなければならないのかもしれない。
 内部に十字架を隠した釈迦坐像、蓋を開けるとキリスト磔刑像が刻まれている大黒、十字が刻まれた天神像など、マリア観音以外にも隠れキリシタンの偽装の品はさまざまだ。その中には、正直にいえば、ちょっとあからさま過ぎて首を傾げてしまうようなものもある。おそらく澤田さんは、そういったことも承知のうえで、検証は後に回し、とりあえず買い集めたのだと思う。
 澤田さんの半生、エリザベス・サンダース・ホーム設立の経緯から始まり、展示品一点一点に及んだ堀井さんの丁寧な説明は、分かりやすくとても助けになった。しかし、それに加えて、品々をじっと見つめるわたしに対して、さりげなく配慮もしてくださる。それはとてもありがたかった。
 最後に2階の礼拝堂に案内していただいた。聖公会の聖堂に馴染みはないが、質素で美しく、心落ち着く空間だった。十字架の後ろから差し込む日差しが祭壇を照らしている。普段ホームの子どもたちがこの聖堂を利用しているのだそうだ。おそらく朝だろう。まったく漠然とした印象なのだが、この海風の届く場所で、鮮やかな緑に囲まれた石段を上り、子どもたちが朝日差し込む聖堂に一人ひとり腰掛けていく、その様子は美しいだろうと想像した。
 下の門まで堀井さんに送っていただいた。途中、幾人かの施設の子どもたちとすれ違ったが、堀井さんは「おかえりなさい」と優しく声を掛けている。
 澤田さんの死後30年以上が過ぎている。施設は時代の流れとともに、その性格や機能に変化はあるようだが、基本的な理念は変わることなく継承されているだろう。いうまでもなく、それこそもっとも偉大な、澤田さんの遺産なはずである。 (奴田原智明)

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