教皇フランシスコの19回目の一般謁見演説 聖なる教会

10月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの19回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の8回目として「聖なる教会」につい […]

10月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの19回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の8回目として「聖なる教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
―――

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 「信条」の中で、「わたしは唯一の教会を信じます」と唱えた後、わたしたちは「聖なる」という形容詞を付け加えます。すなわちわたしたちは、教会が聖なるものであると明言します。教会が聖なるものであるということは、初期キリスト者の意識の中に初めから存在した特徴でした。彼らは自分たちのことをただ「聖なる者たち」(使徒言行録9・13、32、41、ローマ8・27、一コリント6・1参照)と呼びました。彼らは、教会を聖なるものとするのは神と聖霊の働きだということを確信していたからです。

 しかし、教会はどのような意味で聖なるものなのでしょうか。歴史的な教会には、その長い時代の歩みの中で、多くの困難と問題と暗闇の時があったことを、わたしたちは知っているからです。人間、それも罪人から成る教会が、どのようにして聖なるものとなりうるのでしょうか。罪人である男性、女性、司祭、修道女、司教、枢機卿、教皇から成る教会が。皆、罪人です。このような教会がどのようにして聖なるものとなりうるのでしょうか。

 1 この問いに答えるために、聖パウロのエフェソの信徒への手紙の一節に導いてもらいたいと思います。使徒は、家族関係を例にとりながらいいます。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったのは、教会を清めて聖なるものとするためでした」(エフェソ5・25-26)。キリストは教会を愛し、十字架上でご自分をすべて与えました。これは次のことを意味します。教会が聖なるものであるのは、教会が神に由来するからです。神は聖であり、教会に忠実であり、教会を死と悪の力にゆだねません(マタイ16・18参照)。教会が聖なるものであるのは、神の聖者(マルコ1・24参照)であるイエス・キリストが教会と切り離しえないしかたで結びつけられているからです(マタイ28・20参照)。教会が聖なるものであるのは、教会が聖霊に導かれているからです。聖霊は清め、造り変え、新たにするからです。教会はわたしたちの功績によって聖なるものなのではありません。教会が聖なるものであるのは、神が教会を聖なるものとするからです。教会が聖霊とそのたまものから生み出されるからです。教会を聖なるものとするのは、わたしたちではなく、神であり、聖霊です。このかたが愛によって教会を聖なるものとするのです。

 2 こう言う人がいるかもしれません。でも、教会は罪人から作られているではないか。わたしたちは毎日そのことを目の当たりにしているではないか。それは本当です。わたしたちは罪人の教会です。そしてこの罪人であるわたしたちが、神によって造り変えられ、新たにされ、聖なるものとしていただくように招かれているのです。歴史の中には次のように唱える誘惑が存在してきました。教会といえるのは、清い者から成る教会だけである。完全に言行が一致した者から成る教会だけである。それ以外の者は排除しなければならない。これは間違いであり、異端です。聖なるものである教会は、罪人を拒みません。わたしたち皆を拒みません。教会が罪人を拒まないのは、教会がすべての人を招き、受け入れるからです。遠く離れた人にも開かれているからです。すべての人を、御父のあわれみと優しさとゆるしに包まれるよう招くからです。御父はすべての人に、ご自分と出会い、聖性に向けて歩む可能性を与えるのです。「でも教皇様。わたしは罪人です。重い罪を犯しています。どうして自分も教会の一員だと感じることができるでしょうか」。親愛なる兄弟姉妹の皆様。主が望まれるのは、まさにあなたが主にこう言うことなのです。「主よ。わたしは自分の罪をもちながら、ここにおります」。皆様の中に、罪のない人が何人いるでしょうか。一人もいません。わたしたちの中に一人もいません。わたしたちは皆、罪を犯しています。けれども主は、わたしたちが次のように言うのを聞きたいと望みます。「わたしをおゆるしください。わたしが道を歩めるようにお助けください。わたしの心を造り変えてください」。主は、心を造り変えることのできるかたです。わたしたちが教会の中で出会う神は、無慈悲な裁判官ではなく、福音書のたとえ話の父親のようなかたです。あなたは、家を出て、神から徹底的に離れた子のようになることがありえます。「わたしは家に帰りたい」という力がありさえすれば、あなたは戸が開かれているのを見いだします。神はあなたと会いに来られます。なぜなら、神の心はつねにあなたに開かれているからです。神はつねにあなたを待っておられるからです。神はあなたを抱きしめ、接吻し、祝いを行います。主はこのようなかたです。天におられるわたしたちの父は、このように優しいかたです。主は、わたしたちが、すべての人を受け入れるように手を広げている教会となることを望まれます。教会は、少数の人の家ではなく、すべての人の家です。この家で、すべての人が神の愛によって新たにされ、造り変えられ、聖なる者となることが可能です。力のある人もない人も。罪人も、無関心な人も。失望した人も、道に迷った人も。教会はすべての人に聖性への道、すなわちキリスト者の道を歩む可能性を与えます。教会はわたしたちに、秘跡の中で、とくにゆるしの秘跡と聖体の秘跡の中で、イエス・キリストと出会わせます。わたしたちに神のことばを伝えます。愛、すなわちすべての人への神の愛を生きることを可能にします。そこでわたしたちは自らに問いかけたいと思います。わたしたちは聖なる者としていただいているでしょうか。わたしたちの教会は、手を開いて罪人を招き、受け入れているでしょうか。勇気と希望を与えているでしょうか。それとも、自分の中に閉じこもっているでしょうか。わたしたちは教会の中で、神の愛を生き、他の人を気遣い、互いに祈り合っているでしょうか。

 3 三番目の問いはこれです。無力で、もろく、罪人であるわたしに何ができるでしょうか。神はあなたにいいます。聖性を恐れてはなりません。高い目標をめざすこと、神に愛され、清めていただくことを恐れてはなりません。聖霊に導いていただくことを恐れてはなりません。神の聖性に触れていただこうではありませんか。すべてのキリスト信者は聖性へと招かれています(『教会憲章』39-42参照)。そして聖性とは、何よりも、特別なことをするのでなく、神に働いていただくことです。聖性とは、わたしたちの弱さと、神の恵みの力との出会いです。聖性とは、神の働きへの信頼です。わたしたちは神の働きによって、愛を実践し、すべてのことを、神の栄光と隣人への奉仕のために、喜びとへりくだりのうちに行えるのです。フランスの著述家レオン・ブロワ(Léon Bloy 1846-1917年)の有名なことばがあります。彼は臨終のときにこういっています。「人生の唯一の悲しみは、聖人でないことです」。希望を失わずに、皆で聖性への道を歩もうではありませんか。聖なる者となることを望みますか。主は手を開いてわたしたち皆を待っておられます。わたしたちとともに聖性への道を歩もうと、待っておられます。喜びをもって信仰を生きようではありませんか。主に愛していただこうではありませんか。自分のため、また他の人々のために、この恵みを神に祈り求めたいと思います。

PAGE TOP